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目の前は、夜の漁港だった。
丸い大きな月が、あたりをぼんやりと浮かびあがらせていた。
波もおだやかで、湖面にはゆらゆらとムーンロードが揺れていた。
見慣れたはずの漁港だった。
なのに、何かが違う。
浮かんでいる船? 茂る木の大きさ?
なぜか、懐かしい感じがする。
小さな子どもが二人、走ってきた。
あれは……。
「修ちゃん! それと、私?」
二人は、咲の目の前を通り過ぎた。
「待ってえ、咲ちゃん」
「早くしいな。修ちゃん!」
二人は無人の漁船に乗り込む。
「なんか、こわい。めっちゃ揺れてる」
「大丈夫。どうもあらへん。はよおいで」
小さな咲が手をだすと、修ちゃんがおずおずとその手をとる。
二人は、数台並んだ漁船を一台一台渡り歩きはじめた。
これは、ゴムボートで流された日じゃないのか?
でも、なぜ?
咲は、急いで二人に近づいた。
二人は咲に気づくことなく、漁船渡りを続けている。
「もう、帰ろう」
修ちゃんの泣きそうな声が聞こえた。
息もあがって、少し苦しそうだ。
「大丈夫。今日は寄り合いやさかい、お父さんたち、まだ帰ってきはらへんって」
月の光の下、小さな咲の顔が見えた。
夜の冒険というシチュエーションに高揚しているのがわかる。
ああ、そうや。
私は、一度夜の漁船に乗ってみたかったんや。
でも、一人はこわいし、修ちゃんを誘った。
修ちゃんの体調は悪くはなかったけど、夜に出かけたことは今まで一度もなかった。
でも、二人ともの両親がでかけるなんて、めったにないことやったし、このチャンスをのがしたくなかった。
「見て、修ちゃん! ボートがある」
数台並んだ漁船の一番湖側に、ゴムボートがつながれていた。
「だれのやろ」
「釣りの人のかな」
「ボートって乗ったことない」
「乗ってみる?」
「乗ってみたいけど、こわいもん」
「大丈夫、私、ボートこげるから」
小さな咲は漁船に置いてあった棒でボートを手繰り寄せると、さっさと乗り込んだ。
修ちゃんは、困ったようにモジモジして、やがて、咲に手をひかれてボートに乗った。
ドクン、と心臓がなった。
「あかん、乗ったらあかん!」
咲は思わず叫んだ。
「乗ったら死んでしまう!」
咲は、ボートへかけよった。
ボートをつないであるロープを持とうとするのに、どうやっても触れることができない。
目の前で、ロープはスルスルとほどけ、ボートが流され始める。
「修ちゃん! 修ちゃん!」
咲は必死で叫んだ。
ボートの中の小さな咲と修ちゃんは、まだ流されたことに気がつかず、楽しそうにキャッキャッと笑っている。
小さな咲が持つオールが、それなりにボートを進めていく。
「修ちゃん! 行ったらあかん。行ったらあかんって。帰ってきて。帰ってきてよう」
咲の叫びは届くことなく、二人を乗せたボートは少しずつ沖へと進んで行く。まるで月に吸い寄せられるかのように、湖面のムーンロードの上をゆっくりと流されていく。
なんで、忘れてしまってたんや。私は。
こんな重大なことを。
こんな重い罪を。
あの日、ボートは転覆した。
おだやかだった波は少しずつ激しくなり、小さな二人に抗う術などなかった。
二人は、それでも必死にボートにしがみついた。
寒いからとボートに置いてあって救命胴衣を着けていたので、幸いにも沈んでしまうことはなかった。
咲は修ちゃんの名前を呼び、修ちゃんは咲の名前を呼んだ。
何度も何度もお互いの名前を呼び合った。
でも、修ちゃんの声はだんだん小さくなっていった。
助けが来た時には、修ちゃんはぐったりしていた。
救急車の中で、咲は泣き続けた。
修ちゃんの紫色のくちびるが、ものすごくこわかった。
それ以来、修ちゃんには会っていない。
大阪に転院し、帰らぬ人となったと聞いた。
これが、すべてだ。
ポケットの中で、石が光った。
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