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二十年以上も前のこと。
一番仲良しの友達は、同じ幼稚園の同じ組の女の子だった。二人でいつも一緒にいたから、よく周りの大人たちに「ニコイチ」なんて言われていた。
「将来は結婚するの?」。そんなことまで聞かれたけれど、幼い自分は男女の違いなんて意識していなかった。ただ彼女とは一緒に居るだけで楽しくて仕方がない、それが全ての関係だった。
小学校に上がってから、ぱたりと彼女と会わなくなった。新しくできた同性の友達と遊ぶのに夢中で、彼女のことはすっかり忘れてしまった。
小学校の中学年の時だったか。母親の口から、彼女の母親が夫と離婚し娘を連れて実家のある土地に引っ越したのだと聞いた。彼女がどうしているのかは以後一度も聞いたことがなく、気にしたこともなかった。
「……勅使河原(てしがわら)さん、こっちの領収書ですけど……‥」
いつもの会話の中で、一般的にはあまり聞かない、しかし個人的な思い出にだけはしっかり刻まれている漢字四文字の苗字が、そこだけ浮き上がって聞こえた。
電卓を打つ手を止め、名前を呼ばれた人物を探す。離れた島にいる経理部社員が座るすぐ横に、その女性はいた。
「……そういうことですか。わかりました。私から本人に確認するよう伝えます」
緩くまとめられた、長い明るめの髪。透け感のあるアイボリーのカットソー。年は多分三十はいっていない、二十代半ばより少し上。澤田恒輔(さわだこうすけ)はまさかとは思いつつ、女性を凝視した。
「はい。修正後に、また持って来ますので」
用事を終えた女性は無駄話をすることもなく、経理部を後にした。恒輔は自分の思い違いか否か真実を確かめたくて、仕事を一旦放棄し華奢な背中を追いかけた。
「勅使河原さん!」
二人だけしかいない廊下で呼び掛けると、彼女は振り返った。その顔立ちはくるりと大きな瞳に、それとは逆に小づくりな鼻と口。あの女児の面影はあると思った。
「経理部の方ですか?まだなにか問題が…」
「そうではなくて、あの、人違いだったら申し訳ないんですけど、もしかしたら昔の知り合いじゃないかと思って。その、澤田恒輔ってご存知ですか?幼稚園の時に一緒だったかもって。とちのき幼稚園って、通われてました?」
「とちのき幼稚園……えっ、『コウちゃん』…?」
五歳の女の子と、二十代の会社員。姿は大きく変わっても、同じ記憶は持っていた。
「そう!その『コウちゃん』!」
「えっ?!うそ、同じ会社?」
「そう。こっちはついこの間、中途で入って経理部に。まゆりちゃんは?」
「……」
彼女は突然の偶然をまだ信じられないのか、無表情で黙り込んだ。
「まゆりちゃん?」
「え?ああ、私?広報部」
「そうなんだ。まゆりちゃん、物怖じしないで話せる子だったから、なんかぴったりな感じ」
「物怖じしないって、ふてぶてしかったってこと?そんなイメージ持ってたの?」
純粋に褒めたつもりがそうは受け取ってもらえなかったようで、恒輔は目の前の人物にふと、なにか違和感を感じた。しかし、知っているのはあくまで二十年以上昔の彼女であり、今と昔と性格も共通する部分のほうが寧ろ少なくて当たり前だった。
二人の横を他の社員が通り過ぎて行ったので、今が勤務時間中であることを思い出した。
「せっかくこうして会えたんだし、近いうち、ゆっくり話そうよ。連絡先、教えてもらっていい?」
「……いいよ」
昔のまゆりはいつも、人が何か言うとそれを終わりまで聞かず、被せるように自分の話をし出した。そして、そのことを彼女の母親から注意される姿を恒輔は何度も目にしていた。較べて、少し考えそれから話す、今のまゆり。成長する間に、世渡り的なことをいくらか学習したのだろう。大人としてはそうあるべき正しい姿に、それでも恒輔は寂しさを感じた。
それから数回、数日の間を空けつつ、恒輔はまゆりに仕事帰りの食事に誘う連絡を入れた。まゆりは恒輔の誘いの全てを「今は仕事が忙しいから」と断ってきた。
恒輔は考えた。自分は、まゆりにとって彼女の両親が離婚する前の知り合いだ。彼女が思い出したくない辛い過去と自分の存在とは、繋がってしまっているのかもしれない。自分が彼女に連絡を入れる度、まゆりは傷ついているのかも。懐かしい幼い頃の友達と昔話や近況を語り合うことに関して、ごく軽い気持ちで考えていた。でも、もしかして自分は無神経なことをしていた?
恒輔は何度か断られた後、まゆりへ誘いのメッセ―ジを送るのをやめた。だから、再会を果たして二ヶ月、連絡を取らなくなってから二週間、それだけ経ったその日の昼休憩の時間に、彼女の方からメッセージが送られてきたことは、恒輔とって意外なことだった。
『私の方は今晩なら大丈夫です。コウちゃんの予定はいかがですか?』
一人で考え過ぎていた。まゆりは本当に忙しくて恒輔の誘いを断っていただけだったのだ。恒輔は安堵し、喜び、すぐに誘いに乗る返事を出した。
まゆりは二人飲み会の場所に、職場から地下鉄で四駅離れたバルを指定してきた。恒輔は約束の五分前に到着し、彼女が来たのはその十五分後だった。
「お疲れさま」
ひと月半前に再会した時よりも赤い唇、強調された瞳。夜らしい華やかさを纏って、まゆりは現れた。自分と同じく仕事終わりのくたびれた顔で来るのかと思っていた恒輔は、少し居心地の悪さを感じ、つい言い訳がましくなった。
「こういうお洒落なトコって、あんまり来ないんだ。てっきり、職場の裏あたりの居酒屋とか使うのかと思ってたし」
「あそこは会社の人と鉢合わせするかもだから、私はあんまり」
まゆりは今晩、上司や同僚の悪口でも言いたい気分なのかもしれない。そう、恒輔は解釈した。
飲み物の注文を終えた後、まゆりは恒輔に尋ねてきた。
「こんな風に私と会って、彼女に誤解されない?」
「彼女」って誰?具体的な人物が像を結ばず、恒輔の答えは遅れた。
「あ、彼女って、彼女?彼女はいないよ。まゆりちゃんの方は?彼氏、いるの?」
「いるように見える?」
「……」
どこか、しらけた風が胸に吹いた。恒輔は友人相手ではなく、初対面の人物に対応する様式に会話を切り替えた。
「いそうにみえるかな。愛されてそうな雰囲気だし」
「本気でそう思ってる?心がこもってなくない?」
二十年の時を超え、再会した幼馴染み。心が暖かくなる思い出を共有した人。その人と会っているというのに、なんで面倒臭いとか思ってしまっているのだろう。
その後も続いたはぐらかされてばかりの会話を、恒輔はジョッキのビールとハーブの利いたつまみで乗り切った。表面的には盛り上がった体で、しかし真実には打ち解けることもなく、二人は一時間も経たないうちに明日も会社があることを言い訳にして解散した。
一人になって、いつもの帰りの電車に揺られて、寝たふりをして。そうして、自分を振り返る。思い出の中と同じく楽しく過ごせるはずだと勝手に期待して、思い通りにならずに一人でがっかりして。
長く連絡を取り合っていない昔の友達になんて、会うものじゃない。恒輔は嫌になるくらい淡々とそう思った。
変化に気が付くまでに、多少の時間がかかった。
エレベーターで乗り合わせた時や廊下ですれ違った時の、社内の女性たちから向けられる攻撃的な視線。電話で話した時の、彼女たちの冷たく突き放すような口調。ほんの短い間に起きた、扱いの変化。あまり繊細な性質ではない恒輔も最終的には認めるしかないほど、彼女たちの態度はあからさまだった。
そういった目に遭う現場はたいてい、フロアで言えば広報部のある十八階。電話の回線ならば、広報部とそれに近い番号。広報部。確か、まゆりが所属する部署。
女性たちに嫌われる他の要因が思いつかない。自分はあの晩、あのバルで何をしでかしてしまったのだろうと、恒輔は一時間足らずのまゆりとの会話を何度も思い返してみたが、取り立ててわかりやすい失言の心当たりはなかった。
そもそも女性たちの態度とまゆりとに、なんらかの関係があるという確証も結局はなかった。恒輔はささやかなことながら、それによってそれなりに落ち込む日々をただ過ごした。
こんなこと、そう長くは続かない。どうせ、遠くないうちに終わるのだろう。そんな楽観的な見通しを立てていた恒輔だったが、ことはより悪い方へと運んだ。
部長にランチを一緒にどうかと誘われた時、例の女性社員たちの態度について何か聞かれるのだろうと、恒輔は憂鬱な気分になった。しかし、実際に食後に切り出された話は、予想よりも更に面倒な展開に転がった。
「広報部の、勅使河原さんって知ってる?」
「あ、はい」
きっと彼女の名前が出てくるだろうと覚悟はしていた恒輔だったが、それでも部長に向けた目は泳いだ。
「彼女と、その、なんて言ったらいいかな?澤田さんとは、どういった知り合いなの?」
「幼稚園の時の友達です。もう二十年以上会ってなかったんですけど、ちょっと前に、社内で偶然再会して」
「うん。それで、個人的な感情について聞いて申し訳ないんだけど、澤田さんは彼女のことをどう思っているのかな?その、付き合いたいとかは思ってるの?」
「それは全く」
むしろ彼女に再会したことを後悔しています…とまでは、報告の必要はなかった。
「そう。それならいいんだけど。……これはあくまで噂で聞いただけなんだけどね、彼女、大口の取引先の社長の息子と付き合ってるらしいんだ」
「あ、そうですか」
まさしく一緒に飲んだあの日、最後まで彼女がはぐらかし続けた話題。もちろん、今の恒輔には何の興味も持てない話だった。
「うん。それで、勅使河原さんがね、社内のいろんなところで、あなたが勘違いしてつきまとってきて困るって、言ってるらしくて」
「……へ?」
「他に彼氏がいるのに何度も誘われて、きっぱり断ろうと一度だけ会ったけど、その時もしつこくされて嫌な思いをしたとかなんとか…」
身に覚えのない話に恒輔はしばらくはただ、目と口とをだらしなく開け固まるだけだった。
「……なんのことか、全然わかんないんですけど」
「そうか。んー…なんていうのかな。うちは小さい会社だし。うん、ただの噂でも、ちょっと色々と絡んでくるってこともね」
部長の言葉は極めて要領を得なかった。しかし、後から思えば彼なりの「覚悟しておけ」の忠告だったのだろう。恒輔は、その数週間後に「資料室」に異動となった。
解雇に最も近いと言われる部署だった。
それからは、朝から夜までの八時間、紙の情報とディスプレイに映るデータとを見合わせ、誰とも話すことなく終業、退社する日々。今まで自主退職を要求された何人もの人がこの作業に従事したのだろう、恒輔が目を凝らし執拗に確認したところで、アナログとデジタル二つの情報の間に齟齬などまず見つからなかった。
自分こそが、社会から最も必要とされていない存在なのだろう。そんなことばかりを感じる時間を、恒輔は毎日会社で過ごした。
その日も、もちろん定時退社だった。恒輔がそろそろ再々就職先を探そうかと考えながら生気のない顔でエレベーターから一階のフロアに降りると、偶然、まゆりの姿を見てしまった。
心臓がぞわりと騒いだ。怒りや憎しみをぶつけたい衝動よりも相手に気付かれたくない気持ちが勝り、恒輔は柱の後ろに身を隠した。来客を見送った後なのだろうか、まゆりはホールの端にあるベンチソファに座って書類に目を通していて、なかなか立ち去ろうとしなかった。
さんざんな目に遭わせてくれた元凶に、今また自分の時間を浪費させられている。恒輔はだんだん、彼女から隠れていることが馬鹿馬鹿しくなってきた。もし、まゆりに気付かれたとしても、無視してやればいい。そう決めて恒輔が柱の後ろから一歩踏み出そうとした、その時だった。
「はすみん、ひさしぶりー!」
外と繋がる自動ドアからやってきた、スーツケースを引いた女性。ベージュのパンツスーツ姿の、まゆりや恒輔と同じ年頃に見えるその女性は、パンプスの踵をツカツカ鳴らしながらまゆりに近付いてきた。
「ええっ?!どうしたの?」
まゆりの方もソファから立ち上がり、女性に駆け寄った。
「こっちでやる明日の会議に呼ばれて。今日中にちょっと挨拶だけしに来た」
「えー、いつまでこっち?」
「明後日の夜まで」
「え、じゃあ、できたら明後日、仕事の後同期の女子たちで飲まない?私、セッティングするよ」
女性は恒輔が隠れる柱の、それより奥にある壁の時計を見た。
「うん…っと、ごめん、みんなが帰っちゃう前にまず上行ってくるわ」
「あ、行って行って。後でこっちから連絡する?」
「うん。ありがと、はすみん。またあとで」
ちょうどやって来たエレベーターに駆け込んだ女性を見送った後、まゆりはソファに戻り自分のスマートフォンを手にとった。
「まゆりは」?彼女は同期らしい女性に「はすみん」と呼ばれていた。「勅使河原まゆり」をどう変化させたら、「はすみん」というあだ名になるのだろう。
似てる芸能人でもいたのかもと思ったが、まゆりの顔を見ても彼女と似た人物は浮かばず、そんな理由では納得できない。それとは反対に、これまで引っかりわだかまっていたものが恒輔の胸にすとんと綺麗に落ちた。彼女に再会して以後、感じ続けていた違和感がここにきて明瞭に形をつくり、確信へと変化していく。
ほんの少し前まで無視しようとしていた彼女に、恒輔は自分から話しかけた。
「『はすみん』って、呼ばれてましたけど」
スマートフォンの方に夢中になっていた彼女は、突如登場した思わぬ人物を見上げ、口をあんぐり開けた。物置同然の部屋に追いやられたとはいえ、同じ建物内で働く社員同士だ。出くわす可能性だって普通にあると考えられるだろうにと、恒輔は彼女の浅はかさに多少呆れた。
「あなたは、『まゆりちゃん』じゃないですよね?」
彼女の顔面から、わかり易く血の色が消えた。それでも、その顔には懐かしい面影があった。しかしやはり、今となってはあの幼い親友と彼女が同一人物と考えるより、他人と考えた方が恒輔にとって余程合点がいった。
「あなたは誰なんですか?」
意地の悪いことではあるが、恒輔は鬼の首を取ったような気になっていた。相手は謝るか逃げ出すかのどちらかだと想定していた。だから、強張らした口角を吊り上げ彼女が突然笑い出したのには、まったく意表をつかれた。
「あんた、本当にわかんないの?私がまゆりじゃないって、そこまでわかってて、『はすみん』って、それでもわかんないの?」
笑っていたはずの彼女と目が合った。彼女はむしろ怒っているように見えた。彼女の頬は赤く染まり、そこに眼の表面で滲んでいた涙が零れ筋をつくった。
「ほんと、さいあく」
スマートフォンと書類とを抱えた彼女は立ち上がり、恒輔の横を通り過ぎ、扉の閉まったエレベーターには見向きもせず非常階段の方に向かって行った。
恒輔は彼女の背中をただ見送り、それが見えなくなった後は体が覚えている帰宅ルートにただ乗った。
嘘を吐いていたのはむこうで、酷い目に遭わされたのはこっち。それでなぜ、こっちが「最悪」と言われなければならない?
「最悪なのは、そっちだろ」
恒輔は家で、ただ酔う為だけに買った発泡酒をスーパーの弁当をつまみに飲んだ。あの場では突然の考えもしなかった展開に準備もできておらず、ただ圧倒されていただけだったが、会社から帰る道すがら頭の中で状況の整理を進めるうちに彼女への怒りが大きくなり、自宅に近付く頃には恒輔はすっかりカッカとのぼせ上がっていた。
どうして最も非難したかった人間に非難されてしまったのか。不意打ちを喰らったからだとしても、あの場で一言も反論できなかった自分が情けなくて仕方がない。
「あーっ…」
行儀よく座ってもいられず、床に寝っ転がる。クッションもカーペットもない、フローリングの冷たく堅い感触が頭に伝わった。
彼女は泣いていた。いや、彼女は嘘つきだ。それは間違いない。けど、あの時の表情は、自分の嘘を誤魔化すだけの演技だとは思えなかった。
恒輔は上半身を起こして座り直すと、ちゃぶ台に置いていたスマートフォンを手に取った。
少し考えた。そうしたところで他に教えてもらえそうな当てもなく、相手に余計な勘ぐりを入れられないことを祈りながら電話を掛けた。四回の呼出音の後、相手は電話に出た。
「あ、もしもし?……うん。元気。……うん。ちょっと母さんに聞きたいことあって。すごい昔のことだけどさ、俺が幼稚園に通ってた時の友達のことなんだけど…」
住宅街にあるカフェは、都会のそれとは客層が違った。恒輔が普段、仕事終わりや休日に利用するカフェの席は大体が学生とサラリーマン、フリーランスらしき人々で埋まっているが、今日の待ち合わせ場所にやって来ている客は、高校生、パート帰りの主婦、仕事をリタイアした年配の人々といった感じだった。
一人の小柄な女性が店に入って来た。その女性が店内を見回しているのに向かって、恒輔は手を挙げ大きく振った。目が合うと、女性は恒輔の座る席までの短い距離を小走りに駆け寄ってきた。
「お待たせ―!ごめんね、パート終わりにトラブっちゃって」
化粧っ気のない汗だくの顔、簡単にまとめただけのボサボサの髪、くたびれ気味のTシャツとデニムのパンツ。二十年以上振りの友達に会うというのに気負うことのない、まったくの普段着で現れた「まゆり」の満面の笑顔を見て、懐かしさのせいなのか、恒輔はあと少しで涙ぐんでしまうところだった。
恒輔は自分でも思いがけなかった感情の昂ぶりを抑え、できるだけ歳なりの話し方を意識した。
「まゆりちゃん、久しぶり。ごめん、忙しい中突然連絡とったりして。驚いた?」
まゆりの方は、恒輔の努力が馬鹿馬鹿しくなるような無邪気さで答えた。
「驚いたー!でも、今日、楽しみにしてたよ。生まれて最初にできた親友との再会だからね」
知らない人が見れば、まゆりは生活に追われる平凡なアラサーの主婦以外の何者でもない。しかし、恒輔にとっては子供の頃の特別な友達。そして、二十年以上の時を経たというのに、よそよそしさや気まずさを感じない不思議な相手だった。
まゆりは恒輔と向かい合った席に着くと、帆布のトートバックからハンドタオルを取り出し自分の顔の汗を大ざっぱに拭いた。そうしている間に来た店員に彼女が注文をし終えたのを見届けてから、恒輔は聞いた。
「パートしてるんだ」
「そう。下の子が幼稚園に通うようになってから始めたの。スーパーのレジ係。やってみたら結構大変。でも、最近はちょっと慣れてきて、今日も先輩パートさんに褒められてって…わたしは、そんな感じ。コウちゃんは?どう?」
「こっちは…今年に入ってから会社から解雇されて、でも、なんとか再就職できたよ」
「よかったじゃん」
「うん。それで、新しい会社で経理として働いてたんだけど、そこで、はすみちゃんに会った。まゆりちゃん、聞いてない?」
まゆりの元々が大きな目が、わずかにより大きく見開かれた。
「…聞いてない」
「もしかして、あんまり連絡取り合ってない?」
「そんなこともないけど、でも、コウちゃんのことは聞いてなかったな」
「はすみん」と呼ばれていた彼女が何者なのか。それは、実家の母に掛けたたった一本の電話ですぐに判明した。
『あなたが幼稚園の時の友達って、まゆりちゃんのこと?』
「やっぱり、まずあの子のこと思い出すんだ」
『そりゃそうでしょ。あんた、あの子にべったりだったんだから』
「それ以外に、仲良かった子っていなかった?」
『えー…ともくん、ゆうちゃん、あとは…なおくん?あの子は小学校上がってからだったっけ?なんで、そんなこと今頃聞くの?』
「女の子で誰かいなかった?まゆりちゃん以外に。は、とか…はす、なんとか、とか」
『はすみちゃん?』
「……」
『えっ?あなた、はすみちゃんのこと覚えてないの?まゆりちゃんの、双子の妹じゃない。いつも二人一緒で、やっぱ双子ってニコイチなのねーって私たちがいつも言ってた子」
その後、まゆりの実家の連絡先を聞いてみたものの、母は知らなかった。恒輔はまゆりの小学校時代の知り合いを辿って、辿って…そうして連絡が通じた
彼女の母に知らせてもらい、まゆりと待ち合わせ再会することができた。
恒輔は大人になったはすみと会社で出会ってからの出来事を、なにもかもまゆりに話した。途中、悔しさとやる瀬なさで言葉が続かない状態にもなって、どう見られているのか恥ずかしい気にもなった。だが、まゆりには幼い時に泣きべそをさんざん見られている。開き直ってそのまま話し続けた。
ビルのエントランスではすみに罵られたところまで話し終えると、恒輔はまゆりに尋ねた。
「どうすればいいのかな」
恒輔が話している間、短く相槌を打つだけだったまゆりは即答した。
「辞めれば?その会社。あ、訴える?でも、戻るつもりがないなら新しい道に…」
「待って。いや、辞めようかとは俺も考えてるけど、でも、最近職場近くに引っ越したばっかだし、経済的にすぐには辞めたくないというか…えーと…、そうじゃなくて、はすみちゃん、そう、はすみちゃんのことだよ」
「はすみちゃん?」
「そう、その、そもそもがはすみちゃんが起きてもいないことを周りに言いふらすだか誰かに訴えるだかして、こんな状況になったんだし」
「まぁ、そうだね」
「その、姉であるまゆりちゃんから、何か言ってもらえればなー…なんて……」
まゆりは目を伏せ気味してコーヒーを啜り、カップをソーサーに戻してからは、黙り込んだ。昔もよく、こういうことがあった。いつも人一倍おしゃべりで声も大きいまゆりだが、たまに突然無口になった。そういう時は二つの場合があって、ひとつは、怒っている時。
「いや、まゆりちゃんを巻き込むことじゃないよね。…俺やっぱ、はすみちゃんに謝った方がいいかな?」
「なんて?なんについて?『忘れてて、ごめん』って?逆効果じゃない?それよりも、うーん…、もうちょい考える」
もうひとつの場合は、考えごとをしている時。どうやらまゆりを怒らせしまったわけではなかったらしく、恒輔は有力な味方を失ってはいなかったようだとホッとした。その後、二、三分経ってから、まゆりは伏せていた目をぱっちりと開いた。
「ねぇ、コウちゃん。二十年ぶりに会った時に、はすみちゃんのこと、どう思った?印象はどうだった?」
「印象……なんか、違和感感じたかな。顔は確かにまゆりちゃんの面影あるんだけど、それでも変な感じで」
「それって、はすみが綺麗になってたからじゃない?」
「……」
抑えることも出来ず自然と恒輔の目尻が引き攣った。
「再会した彼女は今、都会で働く洗練された大人の女性。幼い頃には身近だったあの子は、もう自分には遠い、雲の上の存在…」
「…まゆりちゃん?」
「昔は彼女を意識したことなんてなかったのに、どうしたことだろう?ほんの短い時間、一緒の時間を過ごした末に新たに芽生えた、この思い。しかし、今の彼女の相手に自分は相応しくない。すっかり華やかに様変わりしてしまった彼女には…。そして、噂に聞けば、どこぞの御曹司と交際しているとか?ああ、やっぱり彼女は僕なんかが近付いてはいけない人なんだ」
「……」
「って感じで、どう?」
あっけにとられる恒輔を置いてけぼりにし続けていた謎の小芝居から、まゆりは飄々とした表情で戻って来た。
「どうって、何が?」
「だから、はすみちゃんと再会してから今に至るまでの、コウちゃんの心の動き。こんな感じのことを、私からはすみちゃんに伝えておいてもいい?」
「…はすみちゃんに対して、なんの思いも芽生えてないけど?」
「芽生えたでしょう?違和感という思いが」
「……」
今度は恒輔が黙り込む番だった。さっきまでのまゆりのセリフをゆっくりと思い返してみた。そうしたところで、まゆりの意図はさっぱり汲み取れなかった。
「俺、はすみちゃんのこと、好きになったりとか付き合いたいとか、思ってないけど。むしろ嫌いと言うか二度と関わりたく…」
「大丈夫。『好き』とか、そういう単語は入れないから」
「それは、詭弁というか…どう考えたって、そういう感じで受け取られるというか…」
「寧ろ、そういう感じで受け取ってもらいにいこうよ」
急に、まゆりがそれまでとは違う表情を見せた。ひどく優しいようでいて、諦めてしまっているような、子供が絶対にしない表情だった。
「『はすみん』とか呼ばれてるの聞いても、『はすみちゃん』を思い出せなかったんでしょ?はすみちゃんを完全に忘れてて、それが本人にも知られて……勘違いでもなんでも、今のはすみちゃんをちょっとくらい持ち上げてあげてもいいじゃん。それぐらいしてあげたって、いいじゃん」
恒輔はまゆりは完全に自分の味方をしてくれているのだと思っていた。でも、彼女は恒輔の味方である前に、はすみの双子の姉なのだ。今の二人の関係はどうだか知らないが、昔はニコイチと言われるほどいつも一緒にいた双子の姉妹だったのだ。
随分と遅らばせながら、恒輔は気が付いた。
それからはもう、何もかもがそれまでのことが嘘だったかのように元通りになった。
恒輔は上からの命令で、あっという間に資料室から経理部へと舞い戻った。しかし、そうはなっても不思議とあまり嬉しくなかった。発言力のある人間の気まぐれで自分のキャリアが簡単に左右されることに、虚しさばかりを強く感じた。
はすみとは、恒輔はその後何回かエレベーターの中で遭遇した。その度、彼女は恒輔とは目を合わせず、気取った後ろ姿や横顔だけを見せつけてきた。
多分、はすみとって恒輔は、今はただの彼女の崇拝者なのだろう。それでもいいかなと、恒輔は思った。幼かった頃のはすみを軽く扱っていた過去の、その罪滅ぼしと割り切れた。
あの後。住宅街の喫茶店で数十分を過ごした後、まゆりと別れる際に、恒輔は彼女にまた連絡してもいいかを聞いてみた。彼女はきっと無意識にだっただろう、自分の左手を見た。それから、「いいよ」と当たり前な風に言った。
そうして別れて以来、恒輔は彼女に一度も連絡をとっていない。これからも多分、このままだろう。もしかしなくても、彼女とはもう一生会うことはないかもしれない。
それでもまた、もし、自分に危機が訪れたら、まゆりに相談してしまうかもとも恒輔は思っている。そして、しっかり者の彼女ことだから万が一にもないが、だが、もしまゆりが辛い状況に陥った時には、自分が同じように、頼れる…とまではおこがましいが、悩みを話せる存在であればいいな、などと思い続けていたりもする。
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