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左手が物悲しいと泣いた
確かにいたんだ
たまに、左手が寒く感じることがある。寒く、というよりも物足りないと言った方が正しいかもしれない。
そういうときはきまって、俺が負の感情を抱えたときたった。
たとえば、泣いているとき。
たとえば、悔しいと思ったとき。
たとえば、寂しさを感じたとき。
たとえば、たとえば。たとえば。
挙げたらキリがない。だけど、そういうときはいつだって、俺が「誰かそばにいてほしい」と思ってしまうときだった。
もしかしたら、昔はそういうときに誰かが手を握っていてくれたのかもしれない。だけど、それはどう考えたって確証のない考えで。仕方なく自分の両手を握手させて、足りない温度を補っていた。
そんなことを考えていたのすら、忘れていたときだった。
大学進学と同時に東京へと単身引っ越すことになった俺は、思い出にまみれた自室のクローゼットを整理していた。地元の大学にすれば良いのに、と母さんは出願ぎりぎりまで言っていた。でも学びたい分野が東京にしかないのだから仕方ない。とは言いつつ、結局、受かったとき、一番喜んでいたのは母さんだった。
すでに机やベッドなどは向こうに送ってしまったため、あとは要らないものをごみ袋に詰めるくらいの作業しか残っていない。それもそのはずで、二日後には俺も東京に行く予定になっていた。
まだ時間もあるし、のんびりやろう。
そう思って、思い出がぎっちりと詰められたクローゼットに手を突っ込む。
中からはさまざまな物が出てきた。
小学校のときの図工の作品。
いつからか使っていない、学校指定の手芸道具。
後輩に売ろうと思っていた定期考査の試験問題。
それから、点数の悪いテストの解答用紙まで。
よくもまあこんなに溜めたものだ、と自画自賛しながら、一つひとつをごみ袋へと入れていく。いつもだったら投げ込んでしまうのだが、なんだかそんなに乱暴に扱うのは忍びなかった。
たまに従兄弟にあげられそうな洋服や履いていないぴかぴかの革靴を見つけつつ、救出する。そんなこんなをしているうちに、気がつけばクローゼットの底が見えていた。時間にしてみれば、二時間程度だろうか。ぎっちり詰まっていると思っていたが、始めてみれば、案外、あっという間だった。
そろそろ終わりかな、と思いながら、壁に寄りかかるようにして置かれたアルバムを持ち上げる。それは深い青い色をした、見たことのないアルバムだった。
もしかしたら両親のものかもしれない。
そう思って、興味本位で開けてみる。
するとそこにいたのは、昔の俺だった。一歳か二歳くらいのときの写真だろう。小さかった。自分だったら大して面白くないな、と思いつつ、ぱらりとページを捲る。
すると、
「え……どういうことだ?」
そこには俺がふたりいた。
正確には昔の俺が。
写真に映ったふたりの男の子は、きっと仲が良いのだろう。手を繋いでにこにこと笑っていた。ふたりはそっくりだった。よく見れば違うのかもしれないが、写真で見る限りは鏡に映したかのようにそっくりだった。
だが、本当に鏡に映っているわけではない。現像された昔の写真だから、加工という線も薄いだろう。なんせ、素人が写真加工できるようになったのは本当に最近の話なのだから。
ということは、ここに映っているのは、俺と俺じゃない誰かということになる。
だが、俺は一人っ子だ。兄弟はいない。
それに親戚もそんなに多い方ではなく、従兄弟も三人しかいない。それもみんな、まだ小学校に上がったばかりか、そろそろ上がるくらいの年齢だ。
十数年前、いや二十年近く前に俺と同じくらいの年齢の親戚なんて、いないはずだった。
誰だろう。
そう思いつつ、とりあえずさっさと片付けを済ませようとアルバムを閉じた。
その日の夕方。
アルバム以外の他のものを、従兄弟に譲るものと、次のごみの日に出すものとに分けた俺は、パートから帰ってくる母さんを待った。
どうしても知りたかった。どうせなら実家にいる間に。
「ただいまー」
いつも通りの時間に帰宅した母さんを「おかえり」と玄関まで出迎える。漫画のようにネギをマイバッグに刺した母さんは、
「どうしたの、あんたが出迎えなんて珍しい」
と朗らかに笑った。
靴を脱ぎ、キッチンへと向かう。どうやら冷凍食品を購入したらしく、はやく冷蔵庫に入れてしまいたいらしかった。それを手伝いながら、俺はダイニングテーブルに置いたアルバムの方へちらりと視線を送った。
「いや、聞きたいことがあってさ」
「ん?」
「青いアルバムを見つけたんだ。俺の部屋の、クローゼットの中で」
そう言えば、母さんの動きが一瞬止まったのがわかった。ただそれは本当に一瞬で。ともすれば、見逃してしまうかと思うほどのかすかな間だった。
「そんなのあったかしら」
「ほこりかぶってたけどね。で、その中に俺とそっくりの子が映ってたんだけど、母さんはそれが誰か知ってる?」
「さあ、知らないわよ」
母さんはそう答えてから、「それより、今日はあんたの好きな餃子を作るからね。あとショートケーキも買ってきたのよ。好きでしょう?」と言って、ネギとニラを刻み始める。
「……うん、好き。楽しみにしてる」
いつもであれば、「何か手伝おうか」の一言でも言うところだが、今日はそんな気分にはなれなかった。ダイニングテーブルに置きっぱなしになっていたアルバムを回収し、自室に戻る。そして見事にからっぽになった部屋の真ん中で、大の字に寝転んだ。
天井を見つめる。木目がこちらを見ている気がした。その視線を一身に受けながら、ぐるりと思考を回す。
「……そういえば、俺、なんも知らないんだよな」
思考を回したとて、わかるはずもなかった。
わかったのは、俺はよく昔のことを知らない、ということだけ。
この家に引っ越してくる前、俺はもう少し田舎に住んでいたらしい。それが具体的にどこなのか、母さんも父さんも教えてくれたことはない。これまでは特に気にしていなかった。過去のことだし、と。だが今日のことでわかった。両親は意図的に隠していたんだ、と。
なんで。
ただ、そんな疑問が浮かび上がる。
もう一度、アルバムを開く。ふたりの男の子は、一枚だけでなく他にもいろんな写真に登場していた。ふたりは似た顔立ちにほとんど同じ背格好なのにもかかわらず、同じ服を着ていることは一度もない。靴も違う。それどころか、髪型が違うときもあった。
ひとりの男の子は、いつも決まって車の絵が描かれた服を着ていた。対してもうひとりの男の子は、ちょっと良いところのお坊ちゃん風のスタイルだ。似ても似つかない。兄弟ではなさそうだった。
「あれ、車……?」
車。
それは俺が好きなものだ。
だから大学も車関係の学科を選択した。地元にはないから、と東京の大学を志望して。
ということは、この車の服を着ているのが俺だろうかとあたりをつける。
他に何かヒントはないだろうか、とページを捲ったところで、舞台は急に白い世界へと姿を変えた。
病院だ。
白いリネンばかりが目立つ、病院。
だがそこにいたのは、車好きの男の子ではなかった。先ほどまでお坊ちゃんスタイルで写真に映っていた子だった。その証拠に、彼はギンガムチェックのパジャマを着ている。それにそれ以降のどの写真でも、ミニカーには目もくれず、熱心にジグソーパズルを組み立てていた。
男の子は、何やら治療を受けているらしい。写真ゆえに細かいところまではわからなかったが、多分、心臓が悪いんだろうということは理解できた。
「もしかしてこれって、俺じゃない子のアルバムなのか?」
でもそしたらなんでウチにあったんだ?
しかも俺の部屋に。
疑問が湧き上がる。サイダーの気泡のように、疑問は浮かんでは消えていく。
とりあえず、ともう一ページ捲る。やはり出てくるのは、「きっと俺じゃない方の子」がベッドの上で笑っている姿だった。もう一ページ、もう一ページ、さらにもう一ページ捲っても、光景はほとんど変わらない。
もしかしたら看病日記の代わりだったのかもしれない。そう思うと、「本当の持ち主に返した方が良いんじゃないかな」と考えが徐々に移行していった。
ぺらり。
だが、なんとなくで捲った先にあったのはその続きではなかった。
次のページには、白いベッドの上で車の絵が描かれたTシャツを嬉しそうに着る男の子の姿があった。
両手にはミニカーも握られている。ヘッドサイドテーブルには、「しゅじゅつせいこう、おめでとう」というチョコプレートが乗ったショートケーキがある。
そしてその写真には、さっきまで一度も登場していなかった、若かりし頃の母さんと父さんの姿もあった。
見紛うことなく、俺の両親だった。
ということは、あの男の子は俺だった、ということになる。
あのお坊ちゃんスタイルで写真に映っていた子が、俺ということだ。
どういうことだ、と頭を悩ませる。
そのときだった。不意に受験勉強のときに読んだ英文の内容が頭をよぎった。
「人の好みや性格が急に変わることがある」
元の英文なんてとうの昔に忘れてしまったが、内容がかなりセンシティブだったからよく憶えていた。
確かその英文のテーマは、
「臓器移植──」
写真の男の子は心臓の治療をしていた。
自分の左胸に手を当てる。それは思った通り、どくんどくんと、規則的にリズムを刻んでいた。
俺の心臓はおそらく正常通りに機能している。
でも、
「もしかしたら、これが……」
思わずにはいられなかった。
これはただの推測だ。
それに、子どもの臓器移植は当時の日本ではできなかったはずだ。
そうでない可能性は十分にある。というより、そうでない可能性の方が高い。
それに本当にそうだとしたら、もうひとりの男の子は亡くなっているということになる。そんな確証はなかった。
白さばかりが目立つページを閉じ、ふたりがまだ楽しそうに遊んでいる写真を眺める。するとおおよそ、お坊ちゃんスタイルの男の子の左手を、車好きの男の子の右手が握っていることに気づいた。
左手を見つめる。
どこか物足りなさを感じた俺は、左手を左胸へと押し付けた。
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