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男が二人向き合って座っている。
一人は臨床心理士でこのクリニックの主だ。彼の目の前には患者である男が座っている。
この男、見るからに憔悴しきっており、顔には疲労と苦悩が色濃く出ている。
「先生、俺はもうどうしたらいいか分からないよ」
そう言うと男は頭を抱えて、下を向いた。今にも消え入りそうなぐらい苦悩しているのが誰の目にも明らかだ。
臨床心理士はそんな彼を見ながら
「落ち着いて、まずはゆっくり深呼吸してみましょう。そうしたら今日カウンセリングに来た理由を話してみてください」
と、冷静に話した。この仕事をやっていると、こうした患者に会うのは日常茶飯事だ。
カウンセリングに来るのは様々な理由で悩みを抱えた人であり、よってその治療のプロセスも千差万別だ。
しかし悩みが何であれ、まずは患者に話をさせること。これが最初のステップだ。
男は大きく深呼吸をた。それを三度繰り返すと少し落ち着いたらしく、ようやくぽつぽつと話を始めた。
「俺、悪い癖があってさ。どうしてもやめられないんだよ。悪い事だってのは自分でも分かってる。何度もやめようとした。だけど無理なんだ。気が付くとまたやりたいって衝動に襲われる。そうなるともうダメなんだ。止まらない。何というか自分の体なのに全く制御が効かない感じなんだ」
男はそこまで言い終わるとまた下を向き、親指の爪を噛み始めた。
臨床心理士は男を見ながら、今の発言について考えていた。
話を聞く限り依存症か、強迫性障害だろうか。
依存症なら原因は酒、タバコ、ドラッグあたりが一般的でよくあるパターンだ。
強迫性障害の例としては、手を何度も何度も洗ってしまう。擦り切れて血が出ても洗うことをやめられない。また、頭をかくことをやめられない人は、かき過ぎて傷が頭蓋骨まで達しても、かくことをやめられない。そういったケースもある。
自分でもやめたいが、やめられない。自分でも悪いことをしているという自覚と苦痛を感じながらも、いざやめようとすると不安を感じたり、気持ちが落ち着かなくなる。
そしてまた同じことを繰り返してしまうのだ。
臨床心理士は男の話を聞きながら、そのような症状を考えていた。そして
「自分でもやめたいと思っているんでしょう?」
そう尋ねると
「もちろんだよ。それでもやめられないんだ。先生!何か良い方法はないのか!?」
男は興奮気味で答えた。
「落ち着いて。まずはあなたがやめられない原因を探っていきましょう。最初に始めたのはいつごろですか?」
臨床心理士は落ち着いた口調で尋ねた。男は深呼吸をもう一つすると、ゆっくりと話し始めた。
「最初にやったのは子供の頃だった。俺、昔から仲の良い友達がいてさ。何をやるのもその友達と一緒だった。そいつに言われたんだ。“やってみようぜ、上手くやれば誰にもバレないから”って。それが一番最初さ」
男は頭を抱えながらも言葉を続けた。
「それからはもう止まらないんだ。やっちゃいけない、やめなきゃいけないと思いつつ、気付くとまたやっちまってる。まるで歯止めがきかないんだ」
男はさらに続けて
「何もかも全部あいつのせいさ。あの悪い友達が!あいつがそそのかしたんだ!最初の時だってそうだった。こんなことしちゃいけないと思いつつも、あいつにささやかれるとなぜかそれが最高に素晴らしいことだと思っちまうんだ。そうなるともう暴走する機関車みたいなもんさ。止めようとしても、止まらないんだ!
二回目の時もそうだった!前を歩いている人を見かけただけでもう手を止められなかった。
三回目の時も、四回目の時だって!気付いた時にはもうやってしまっていたんだ!」
男はだいぶ興奮してきたようだ。頭を両手で抱えたまま下を向きながらも口調は熱を帯びている。
しかし、臨床心理士は訝しげに思った。
こいつはさっきから何の話をしている?いまいち話が噛み合わない。
とにかく妄想がひどいようだ。そしてなにより、彼は何がやめられないというのか。
こうなったら思い切って聞いてみることにした。
「君はいったい何をやめられないんだい?」
それを聞くと男はゆっくりと顔を上げ、答えた。
「決まってるじゃないか先生、殺人だよ」
男の顔を見て、臨床心理士はギョッとした。殺人という言葉にもだが、何より男の顔つきに驚いた。
今までの苦悩と困惑に満ち溢れていた男とは全く違う。
今の男の顔は自信と力強さに満ち溢れ、声のトーンまで変わっていた。まるで別人のようだった。
「どうも先生、はじめましてですね」
男は余裕のある口調で答えた。
「はじめましてだって?・・・そうか、やはり君は解離性同一性障害。多重人格なのか」
臨床心理士がそう言うと男は
「ええ、その通りです。もっとも“彼”は私のことを子どもの頃に出会った友達だと考えてますがね。私が彼の中に生まれたのもちょうどその頃でした」
とまるで世間話をするかのようにさらりと話した。
「“君”が“彼”と入れ替わっているうちに殺人をしたんだな。だから彼の記憶はよく曖昧になるんだ。それにしても君はなぜ殺人なんて恐ろしいことをするんだ?」
臨床心理士が尋ねると、男はクスクスと笑い
「なぜ?先生も妙なことを聞きますね。やりたいからに決まっているでしょう。でも彼にはやる度胸がなかった。だから私が代わりにやってきたまでですよ。どうにも彼には弱気なところがありましてねぇ」
男が得意気に話すのを聞きながら、というより正確には冷静に聞いている振りをしながら、臨床心理士は思った。ようやく話の合点がいった・・・が、さてどうするか。
警察に通報するために、なんとか上手い理由を考えてまずは彼をここから追い返さなければな。
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