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首途
陶芸教室を終えて、小夜と私は互いの住む駅の中間地点まで戻った。
小夜が巷で美味しいと言われているイタリアンを見つけたというので、その店に向かった。
路地裏にひっそりとある一軒家レストランだ。
予約もなしに入れるものかと思い、扉を開け、名前を告げるとすんなりと席に通された。
なんと予約をしてくれていたらしい。
店内の入り口にほど近い席には、手書きで書かれた季節のメニューと、コースメニューが書かれていた。
テーブルの上は、小さな蝋燭が置かれていて、店内の空調に揺られ、規則的に、それでいて同じ形にはならずに限られた小さな空間を確かに照らしている。
前菜にサラダとオリーブ、スープを頼んだ。
柑橘類が乗った洒落たサラダが出される。
ワインを一本頼み、互いに一杯ずつ注いでもらった。
「こういうところ、よく来るの?」
小夜が悪戯な笑みを浮かべながら聞いた。
私には、小夜の笑みが少し寂しげに見えた。
「たまにね」
当たり障りのない返事を返す。
昔は彼女と特別な日を過ごすときに背伸びをして、イタリアンやフレンチの店に行っていた。
マナーや楽しみ方を二人で覚えていた事を思い出す。
こうした所作の一つの中にも、かつての思い出が滲み出てしまうのは、付き合いが長かったからか、歳を重ねたからか、あまり積極的に答えたくはなかった。
暫しの沈黙とカチャカチャと食器の触れ合う音だけが心と会話を埋めた。
ウェイターがそんな様子を察してか、
「今日はどこかお出かけされたんですか?」
と会話を提供してくれた。
それからは今日あったことを改めて話し、完成が楽しみだね、と小夜が笑う。
なんて平和なのだろう。
つまらないことを考えるのはやめて、今はこの場を楽しもう。出される料理や酒を楽しみながらあっという間に時間は過ぎていった。
会計を済ませると、小夜が
「少し酔ったみたい。まだ終電まで時間あるし、少し散歩しよう」
と提案してきた。
これは俗に言う良い感じというものなのだろう。
普段よりも妙に距離が近い。小夜の髪の香りがした。栗毛色の綺麗なミディアムヘアは、月夜の明かりに照らされて綺麗な輪を描いていた。
透き通るような白い肌に、すっきりとした鼻筋、月の曲線と重なるような睫毛の先はキラキラと輝いている。
少し酔いの回った目元は、赤らんでいて、潤んだ瞳には店の照明が映し出されていて、絵画から出てきたかのような惹き込まれる目をしていた。
「あぁ、今日だ。」
呟くでもなく、しっかりと自分の口を通して出た決意は、夜の帳に消えてしまわないように、言葉を掴むようにして小夜の手を引いた。
「どうしたの?」
照れ笑いを浮かべ、進もうと上げた足を私の方に踏み込み、凭れかかってきた。
受け止めるようにして、顔を近づけると
「好きだ。付き合おう」
と振り絞るように伝えた。
小夜が潤んだ目を大きく見開いて、言葉を確認すると目尻を下げた。
「私も。嬉しい」
そう答える小夜は、少し泣いているようにも見えた。
アルコールの酔いなのか、この雰囲気に飲まれてか、そのまま夜に溶け出してしまわないか不安になるほど幸せだった。
こんな簡単な言葉が、なぜだかとても難しく、口を出るまでに何度も何度も形を作っては崩れてゆく。出した言葉は戻らない。
戻らなくていいんだ。
この日大きく踏み出した一歩は、果たして正しかったのか。間違っていたのか。
この時の頭の中は、一言も入る余地のないほどに埋まっていた。
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