10.カリス以上に不憫な存在を知らぬ

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10.カリス以上に不憫な存在を知らぬ

 与えられた名を呼ばれる。一緒に食事をする。風呂に入る。並んで眠る――子どもなら、親から当たり前に与えられる環境だった。どれひとつとして、カリスは知らない。孤児より酷い生活を送ったのか?  細い体は温もりを求めて縋り付く。そんな当たり前の本能すら、遠慮が垣間見えた。離れたくないと伸ばした手は、触れる直前で丸められる。抱き寄せると逆らわないのに、自分から手を伸ばさなかった。  哀れで憐れ、何も与えられずに育った子は、何かを得ることから恐れる。失う心配より、得てはいけないと刷り込まれたのだ。失うことを恐れるのは、幸せだった時期を知る子どもだけ。その経験すらないとしたら、カリス以上に不憫な存在を知らぬ。  昨日と味の違う食事に目を輝かせ、疑うことなく口を開く。虐待された形跡はあるのに、その心はどこまでも真っ直ぐで純粋だった。愛された経験がないから怯えるのに、欲しいから離れられない。手を離した親や家族に返してやる気はなかった。この子はもう、俺のものだ。悪魔の頂点に立つ、序列一位の悪魔の契約者だった。  家族以上に距離が近く、恋人や配偶者より親密な存在だ。この子がそれを自覚するまで、俺は父親役を買って出よう。汚れていた髪は洗えば銀色に輝いた。同じようにこの子を磨き、カリスの名に相応しく育てる。  本契約を結んだことで、アガレスもカリスを認めた。ただの哀れな捨て子ではなく、この城に住まうに相応しい契約者だ。愛らしい微笑みを見せたと思えば、言葉で足りる願い事に身を投げ出す。不安定なカリスを支えるのに、周囲の協力は必要不可欠だった。  遠慮がちなカリスに気付きながら、自分で願いを口にするよう促す。それでも手を引っ込めた子どもに巣食う闇と根が深いことを知った。 「アガレス、招集をかけろ。それに合わせ、我が息子カリスの披露を行う」  悪魔の大招集、それは人間との対決を意味する。悪魔の大半は、ようやく重い腰を上げる彼の決断を支持するだろう。それはアガレスとて例外ではない。 「かしこまりました」  人間との対決を決断した原因が、この幼児にあるなら……それを広めるのもひとつの手か。そんなアガレスの計算を知りながら、咎めない。これこそ答えだった。  調査に出した悪魔が情報を持ち帰るまで、わずかの猶予をくれてやろう。  愛らしい寝顔を披露するカリスが、魘される。息を詰めて、怯えて体を丸めた。強ばった手は握り込まれ、胸の前で固まる。優しく抱き起こし、背中を摩った。温もりを全身で伝え、落ち着かせようと指先で軽く叩く。  ようやく落ち着いて呼吸が穏やかになったのを確かめ、握りしめた拳を解いた。痩せて乾いた手のひらに食い込んだ爪の跡を癒しながら、額や頬にキスをする。  起きている時は怯えるかも知れないが、こうして慣らしていけばいい。 「あなた様が、そのように穏やかな顔をなさる日が来るとは……思いませんでした」  再びという言葉を省いたアガレスを一瞥し、自嘲した。一番驚いているのは、お前ではなく俺の方だ。膝に抱き上げたカリスは、憐れなほど軽かった。この子が起きるまで離さずに抱いていよう。目覚めた時、どれほど驚くだろうか。想像すると口元が緩んだ。
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