16.覚えていなくてよい

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16.覚えていなくてよい

 一日が短いと思ったのは初めて。バエルとお仕事の部屋に行って、お茶飲んでお菓子食べて、アモンに会えた。お名前を聞いてもらうの、嬉しい。バエルが付けてくれた僕だけの名前だよ。胸を張って堂々と名前を言える。僕はちゃんとここにいて、カリスだよって。 「バエル、様って偉い人につけるの。僕は一番下だから、みんなにつけないといけないね」  ふと思い出した。奥様に言われたんだ。僕は一番下の人間だから、他の人はすべて「様」で呼びなさい。そう教えられてたのに、バエルもアガレスもアモンも、そのまま呼んじゃった。いけない子だから、お仕置きされるかも知れない。足の裏や手のひらを叩かれるのかな。  怖いし痛いから嫌だけど、悪いことしたらこうするの。両手をバエルの前に差し出した。手のひらを上に向けて揃える。それから痛みを耐えるために歯を噛み締めた。お仕置きは泣いたり叫んだりすると、さらに酷くなるから。  目を閉じた僕の手に、柔らかな何かが触った。温かい。目を開けると、バエルが僕の手を握っていた。包むみたいにして、大切そうに。どうして? 「過去に言われた言葉は全部不要だ。俺と出会う前は忘れろ」  難しいよ。過去って、どこまで? どこから覚えていていいの? 「俺と出会った場所を覚えているか? カリスが冷たい地面に横になっていた」 「うん、奥様が僕はもう要らないって置いてったとこ」  なぜかバエルが痛そうな顔をした。どうしたの? バエルの手が僕を掴んでなければ、頬を撫でてあげたいのに。そう思ったら、僕の手を頬に当ててくれた。バエルはいつも優しい。 「あれより前は忘れて、その後だけ覚えていればよい」  バエルがいない時のことはなくして、綺麗なバエルを見た後だけ覚える。うん、出来ると思う。頑張るから一緒にいてね。にっこり笑うと、目を手で覆われた。ごろんと倒されて、ベッドの上で柔らかなクッションに包まれる。ふわふわして、温かくて、とても気持ちがいいね。  僕はそこで目を閉じた。体から飛び出したみたいな、不思議な感じがする。遠くでバエルとアガレスの声が聞こえるのに、何を話してるかわからないの。でも不安はなかった。バエルの手がずっと僕の目の上を覆ってるから。離れてない。一緒にいる。  覆っていた手が消えて、すぐに抱っこされた。足の先までバエルに触れてる。横に寝転がったのかな。綺麗なバエルに触っていたら、僕も綺麗になれるかも知れない。大好き。ごろんと転がって、バエルにしがみついた。  僕はバエルの息子になって、一緒にいる。くっついても怒られないし、もう殴られる心配もしなくていいんだよね。寝てる間にバエルが消えないように、大切な人だから強く腕に力を込めた。  これが夢じゃありませんように。目が覚めても、一緒にいようね。
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