IX

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部屋に戻り、申し訳なさそうな顔をしている結衣を慰めて家に帰す頃には、午後九時手前になっていた。 萩原さんはその間何回かユキさんの寝室がある二階と一階を何度か行き来していて、俺は二階から降りて来ないユキさんが気になっていた。 「夕飯、今日は椎原さんが召し上がられるか分からないのでもし召し上がらないようでしたら冷蔵庫に入れていただけますか?」 お手伝いの萩原さんは俺にそう伝え、俺が分かりましたと承諾すると「ありがとうございます。では失礼しますね」と言って家に帰っていった。 リビングには俺一人だけが残った。二階の寝室にはユキさんがいる筈だ。俺は下に降りてこないユキさんが少し心配になって、寝ているのか確認をしに二階へ向かった。今日は食欲がないのだろうか。そう言えば、俺がレッスンしている間もソファに座って一歩も動かなかった。体調が悪いのだろうか。 俺は二階に上がり、寝室の大きい扉を控えめにノックして、「俺です」と言う。 「入っていいよ」 とドアの向こうから小さい声が微かに聞こえた。 なんだ、起きてるのか。と思ってゆっくりドアを開けると、月の光に照らされた薄暗く青い寝室のベッドの中に、ユキさんの姿が見えた。 俺がベッドの側に歩み寄ると、いつもより少し弱々しい雰囲気のユキさんが真っ白な布団を被っていた。月光の青白い光に照らされる彼は、薄らと白く光っているように見えた。 「ごめん、ちょっと体調悪くて……もうこんな時間になっちゃったね。帰れる?」 ユキさんは眉を下げて笑った。 「俺は大丈夫です。ユキさん、大丈夫ですか?ご飯、たべられますか」 ダイニングには萩原さんが作った夕食がラップにかけられて置いてある。俺はベッドの側で膝をつき、ユキさんと視線を合わせて尋ねた。 「……せっかく作ってもらったのに、萩原さんに謝らなきゃ…。今日はたべられないかも」 「じゃあ、あとで冷蔵庫入れておきますね。どこか痛いとことかないですか?ついでに薬とってきますよ」 俺はすっと手を伸ばし、彼の額に触れる。どうやら熱はないみたいだ。彼は心配そうに見つめる俺が面白かったのか、くす、と小さく笑った。 「僕に弟ができたみたい。薬はそこの棚にあるから、お水だけ持ってきてもらってもいいかな。ごめんね、働かせちゃって」 ユキさんはそう言ってベッドの近くの棚に視線を遣った。寝転んだままでも届く距離だ。俺は「わかりました」とだけ言って、部屋を出て寝室を降りていった。 ラップのかかった夕食のおかずを大きな冷蔵庫に入れて、透明なコップにウォーターサーバーの水を入れて、また二階に登る。家が広いとこれだけの作業でも意外と距離あるなあ、なんてぼんやりと考えながらまた寝室のドアをノックして、部屋に入った。 「ありがとう」 俺がベッドの脇のテーブルに水を置くと、ユキさんはそう言ってそろりそろりと身体を起こした。一瞬痛そうに顔を歪めたので、俺は心配になって起きるのを手伝った。 「からだ、いたいんですか」 ユキさんは少し黙ってから「ううん、大丈夫」と言った。起き上がると、ユキさんは持っていた頭痛の薬を取り出して飲んだ。 「ごめんね、もう帰っていいよ。疲れてるでしょ」 ユキさんの柔らかい素材のパジャマから、白い首筋が覗いていた。唇はいつもより色がなく、顔色も少し悪い。どうして今まで気付かなかったんだろう。 「心配なので、ユキさんが寝るまでここにいます」 と言うと、ユキさんは「そっか…」と少しだけ笑って、またそろそろとベッドに横になった。 「じゃあ、入ってきてよ」 ユキさんが布団を捲ってそう言うので、俺はそっと布団の中に入った。布団をかぶると、布団はぽかぽかと暖かく、枕からはユキさんのムスクの香りがした。 お互いに向かい合って、目が合う。 こうして同じ布団の中で目を合わせるのは何回目だろうか。よく考えたら、俺たちは変な関係だ。 ユキさんは俺の手を取り、指を絡め、そしてぴたりとお互いの手のひらをくっつけた。 「前から思ってたんだけど、手大きいよね。僕より大きいよ」 確かにこうして重ね合わせてみると、俺の方が手が大きかった。 「指が長いのかな?」 ユキさんは微かに微笑んで、重ね合わせた手をじっと眺めていた。俺は肌が白いとよく言われるが、ユキさんの肌は僕と同じかそれ以上に白かった。 「ピアノやってたからだと思いますよ」 と言うと、彼は納得して「あ〜」と少し頷いた。 「ピアニストの手だね」 彼の丸い瞳とぴたりと目が合い、少し心臓の鼓動が早まった。俺は視線を逸らしてすっと手を引いた。 「…ねえ、コンクールが終わったら、本当に辞めるの?」 ユキさんが控えめに聞いた。 「…はい。星沢さんに引き継ぎます」 「……そっかあ。僕ら、あと何回会えるのかな」 「五回、くらいですかね」 ユキさんはベッドの中で少しだけ俺に近付いて、静かに目を閉じた。 「さびしくなるなあ……」 そう呟く彼の長くて美しい睫毛を眺めながら、彼の髪のほつれた部分をそっと撫で付けた。 「外で会えませんか」 と聞くと、彼は薄らと目を開けた。そして、俺と目を合わせることはないまま、また目を閉じた。 ユキさんは答えなかった。 「……会いたいね」 目を開けてそれだけをぼそりと呟いて、彼は少しだけ笑った。今にも壊れてしまいそうな弱々しい笑顔だった。 俺達は暫く見つめ合った。ユキさんはそっと手を伸ばし、俺の唇を指でなぞった。 俺たちは自然な流れでゆっくりとベッドから身体を起こし、手を重ねたまま目を合わせた。 甘さと、やさしさと愛おしさが混ざった目。重ね合わせた手のひらからはほんのりとぬくもりを感じた。 俺達は磁石のように自然に近付いた。 そして、そのまま唇を重ねた。 初めて触れる彼の唇は温かく、湿っていた。唇を重ねるだけの子供みたいなキスだった。
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