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目覚めると、視界いっぱいに白が広がった。起きたばかりでぼやぼやとした頭が、その白は病院の天井の白色だとようやく理解した。身体は指の先まで鉛のように重く、起き上がる気力は湧いてこない。消毒液のアルコールや薬品の匂い、そして人の匂いが混ざりあった病院独特の匂いがする。 ああ、俺は生きてしまったのか。 開かれた窓から吹き込むそよ風で黄色いカーテンはふんわりと膨らんで、昼のてらてらとした太陽の光が透けていた。やっぱりそう簡単に死ねるもんじゃないな、と俺は溜息を吐いて、常にふわふわと形を変えるカーテンを眺めることにした。 その日から、つまらない入院生活が始まった。毎日のようなカウンセリングにはもううんざりだ。睡眠薬を多量摂取して自殺しようとした理由なんて、聞いて何になるというのか。俺の心に土足で踏み込んで俺をわかったつもりになっているのが不快だった。 「ただの気の迷いです。苦労して生きていくほど、自分の人生に価値を感じなかっただけで。もう大丈夫ですから、本当に」 俺はカウンセリングでそればかりを繰り返し、さっさと病院を退院した。俺が死んでも悲しむ人はもういないから、あの人たちももう放っておいてくれればよかったのに。俺よりももっと救ってあげたほうがいい人が沢山いるはずだから。 俺はタクシーを拾って家に帰った。 ワンルームの家は自殺を図った時そのままの状態で、ドアを開けると足の踏み場もないほど荒れていた。 「うわ……」 とにかくこれを片付けないと寝る場所もない。もう死ぬからいいやと思って心ゆくまで散らかしたのに、結局片付ける羽目になってしまった自分に嫌気がさす。靴を履いたままずんずんと部屋の中を進んで、キッチン周りの棚から四十リットルのゴミ袋を引っ張り出してきた。これだけ散らかってても、こういうものがどこにあるかは意外と分かるものだ。俺はあらゆるところに散らばったゴミをひたすらゴミ袋に詰めていった。 こうして見ると色々なものがあった。脱ぎっぱなしの服、読みかけの音楽雑誌、自分で書いた楽譜、機器はないのに何故かあるレコード、元カノが忘れていった化粧品たち。あいつらは今頃どこで何をしているんだろうか。俺みたいに堕落していないことを祈っておいてあげよう。どこで貰ったのか分からないチラシもたくさんあった。チェーン店のクーポン付きのもの、歌舞伎町の風俗、メイド喫茶、ライブハウスのライブ予定のチラシまで。添い寝カフェのものもあった。今時はそういうのもあるんだな。そういえば、女性向けの添い寝カフェが今少し話題になっていると小耳に挟んだことがある。世の中は何が流行るかわからない。 のそのそと片付けを進めていくと、次第に人間らしい部屋が取り戻されてきた。埋もれていた電子ピアノや黒のアコースティックギターが顔を出した。 俺の母親は「ピアノ弾ける男の子はモテるから」という理由で俺が物心つく前からピアノを習わせた。俺もピアノは好きだったようで、毎日暇さえあれば鍵盤に触っていた俺はみるみる上達してクラシックコンクールでも良い賞を貰ったりと最終的に母親が予想していたよりも遥かに本格的なピアニストとして成長した。ピアノのほかにギターと作曲も嗜みながら、そこそこ有名な音楽大学のピアノ科に進学し、典型的なプロピアニスト街道を歩いていた俺だったが、大学二年生の時に最悪の転機が訪れた。母親の再婚相手である生ゴミよりも価値のない義父が俺の学費を持ち逃げしたのだ。それからは不幸の連続だった。大学を自主退学し、防音のマンションから格安のマンションに引っ越し、部屋に入らなくなってしまった自分の半身とも言えるグランドピアノを断腸の思いで売り払った。その後にピアノへの思いが断ち切れずに電子ピアノを買ったんだけど。一旦ピアニストになることを諦め、何とか見つけた仕事もパワハラが酷く、労働時間も長い最悪の仕事だった。極め付けは母親が心筋梗塞で死んだことだった。メンタルが不安定な時に母親が突然死したのはかなり堪えた。パワハラに耐えながら孤独に生きるのは何よりも辛く、俺は早急に死ぬことを決意した。しかし、結局死ぬこともできずに死に損ないの二十三歳はこうして今自分の部屋を片付けている。 思い返すとまた死にたくなるが、痛いのが嫌で睡眠薬を選んだのに結局死ねなかったからしばらくは生きようと思う。 布団をベランダで軽くはたいて、部屋に引きずりこむとそこに倒れ込むように寝転がった。部屋の中にふわふわと埃が舞う。 明日からまた仕事探さないとな…とぼんやり考えていると、自然と瞼が重くなってきた。 と、その時俺のスマホがけたたましい着信音と共に震えた。寝転がったままそれに手を伸ばして掴み取ると、画面に表示された発信者を見て思わず溜息が漏れた。俺は渋々ボタンを押す。 「もしもし」 「先輩!よかったあ、生きてたんですね!」 「……俺を病院に運んだの、お前だろ」 「まあそうなんですけど〜」と笑う彼は沢渡涼太。いつも屈託のない弾ける笑顔を浮かべている太陽みたいに明るい男だ。俺が以前通っていた音楽大学のヴァイオリン科に通っており、一度コンクールで伴奏をしてから仲良くなってそれ以来大学を辞めた後も何かと繋がりがある。 「真壁先輩、塩対応だけど電話はちゃんと出てくれますからね。何回かけても出ないから心配で家まで行ったんですよ!感謝してくださいホント。リビングで倒れてる先輩見て寿命縮まりました」 「ああ…」 「あ、あのヤバい家片付きました?」 「まあな、大体は」 「言ってくれたら手伝いにいったのに〜」 「ありがとな。用事ないなら切るけど」 と言うと、沢渡は焦って「あっ用事!用事あります!」と言った。 「なに」 「先輩、バイトしませんか?」 「バイト?」 思っていたよりも魅惑的な用件に思わず声が上擦った。 「はい。ピアノの先生してください!」 「は?」 沢渡は「まあまあ」と言いながら話を続ける。 「俺の友達がレッスンしに行ってた中学生の女の子なんですけど。急にその友達がウィーンに行くことになっちゃって……でもその女の子もコンクールが近いんです。だから、代わりに誰かピアノ教えられるやついない?って聞かれたんで、先輩どうかなーと」 「いや、俺、もう2年くらいまともに弾いてないんだけど」 「大丈夫ですって。3ヶ月後のコンクールまででいいですし!」 沢渡はやけに明るい声色で言う。 「そういう問題じゃないだろ……なんで俺なの?ピアニストの友達他にもいるだろ、おまえ」 「それは……その、曲が…」 「曲?」 「パガニーニのラカンパネラなんです」 曲名を聞いた瞬間、ああそういうことか…と沢渡の考えを全て理解した。 「先輩が大学辞める前、最後に出た川崎国際ピアノコンクールの二次予選で弾いたのがラカンパネラでしたよね。先輩が一気に優勝候補に躍り出た先輩の伝説の名演です。俺、あの演奏を聴いた時の感動は今でも忘れられないです。だから曲名を聞いた時、先輩しかいない!って思いました」 あれは俺がピアノと決別するために出たコンクールだった。二次予選の曲は単に「好きだから」という理由で決めた。コンクール当日はすこぶる調子が良く、音が良く聞こえ、指も良く動いた。本番にしては自分でも驚くくらい良い演奏が出来て、曲を弾き終わってホールを包み込んだ拍手と熱気は今でも忘れられない。世界中から若いピアニストが集まる川崎国際ピアノコンクールで、当時全く注目されていなかった俺は二次予選の演奏によって一気に優勝候補に名を連ねることになった。 「うーん…」 それでも2年のブランクは大きすぎる。しかも人に教えるのは慣れていないし… 「あそうだ」 俺が渋っていると、沢渡が何かを思い出した。 「その女の子のお父さん、めっちゃ金持ちなんで多分バイト代は結構出ますよ」 魅力的だ。万年金欠の俺にとってはそれが何よりも魅力的で俺の心は簡単にぐらついた。 「…わかった。やるよ」 「やったあ!」 また連絡しておきますね〜詳しい事は今度!と、沢渡は声を踊らせながら電話を切った。 「はあ……」 また、しばらくは死なない理由ができてしまった。 俺は家でラカンパネラの楽譜を引っ張り出して、電子ピアノで軽く楽譜をさらってみたが、あれだけ練習したからか指はまだこの曲を覚えていた。グランドピアノで同じように弾けるかが問題だ。 悩んでいる暇もなくはじめてのレッスンの日はやってきて、俺は電車に揺られてその家へと向かった。 家は有名な高級住宅街にあった。そこは休日でも閑静で、たまに珍しい犬種の犬を散歩している人とすれ違った。 「ここ、だよな……」 俺の目的地は綺麗な白い家だった。緑が美しい庭に、ガラス張りの一階部分がよく見える。俺が住んでるワンルーム何個分だろう、なんてぼんやりと考えながら、シャツの襟を整えてインターホンを押した。暫く待つと段々と足音が近づいてくる。 ガチャンと音を立てて扉が開くと、50代くらいの女性が居た。エプロンを身につけて、髪をゆるく纏めている。お手伝いさんだろうか。 「は、はじめまして…真壁優です。ピアノのレッスンに伺いました」 と俺が言うと、彼女は柔らかく微笑んだ。 「はじめまして。お話は聞いています。中へどうぞ」 と促されて家の中に入る。木の良い匂いがした。一階の広いリビングを抜け、庭に沿って歩いていくとそこには黒く美しいグランドピアノが鎮座していた。ピアノ椅子には一人の女の子が、近くのソファには40代くらいの髪を綺麗にセットした男性が座っていた。二人は俺を見ると立ち上がった。 「はじめまして、レッスンに伺いました真壁優です。よろしくお願いします」 「はじめまして、真壁先生。浪川結衣です。」 「結衣の父の創平です」 二人とも見るからに質の良い服に身を包んで、お辞儀をした。沢渡が言っていためちゃくちゃお金持ちなお父さんがこの浪川創平さんか。 「あまり接待できませんが、よろしくお願いします。申し訳ありませんが私は仕事があるのでこれで…」 と浪川さんは柔らかな微笑みを浮かべ、玄関のほうへと歩いていった。娘はそれを見届けると、俺のほうを向いた。 「先生、よろしくお願いします。私のことは結衣って呼んで」 彼女はぺこりと頭を下げて、ピアノ椅子に腰掛けた。俺もピアノ椅子の横の椅子に腰掛けて、楽譜を手に取る。 「中学生でラカンパネラなんて、随分難しいのを選んだな」 「この曲、好きだから」 「そっか。俺もこの曲好きだ」 「先生の演奏聞いた。上手かった」 「え、なんで聞いたの……」 「YouTubeに上がってたから。ラカンパネラって調べたらすぐ出てくる」 「ああ…あれな…」 その動画は沢渡がアップしたものだ。まあまあな再生回数があって困る。 「家、広いな」 と話題を逸らそうと思って俺が何となく呟くと、結衣は俺の方を見た。 「私が住んでる家じゃないけど」 「え?」 「私の家はもっと広い。ここはお父さんの友達が居候してる家。家から近いし響きがいいからピアノだけここに弾きに来てるの」 「い、居候……?」 「そう」 この広さの家が別荘と聞いて俺は開いた口が塞がらなくなった。金持ちって怖い。 と、その時ぺたぺたと裸足の足音が此方に近付いてくるのが聞こえた。其方に視線をやると、背の高い誰かがリビングのほうから歩いてきた。 その人の顔を見たとき、俺は比喩ではなく一瞬呼吸が止まった。 「あ、こんにちは」 こんな美しい人がいるのかと思った。少しぼやぼやしていた意識が、その人を見た瞬間すうっと透き通ったのがわかった。歩いてきたのは一人の若い男性だった。マグカップを片手に持ち、すらりと背が高く、真っ白のTシャツに黒のスラックスというシンプルな格好なのに全身から上品さが漏れている。 アーモンド型の綺麗な目とキリリとした眉毛は誠実そうな印象を与え、整った輪郭と、ラフに整えた黒髪、艶めかしい唇は嫌味のない品の良さと優しさを漂わせている。全てのパーツが完璧な位置に配置されていて、こんな人間が生まれてくることがあるのかと俺は感心すら抱いた。 白く綺麗な家に恐ろしい程馴染んだ美しい人。 「ほら先生、あれが居候」 俺がその容姿に目を奪われて固まっていると、結衣がそう言って俺を揺さぶった。 「あ、ああ…そうなんだ……はじめまして」 俺がふわふわとそう言うと、彼は「はじめまして」と優しく微笑んだ。 「聴いててもいいかな。ピアノの音、好きなんだ」 と言って、彼は近くのソファに腰掛けた。黒髪がさらりと揺れる。 「先生、まず弾いてみてよ。私先生のが聞いてみたい」 と、結衣がおもむろに言った。 「ええ…あの動画みたいに上手くないけど…」 結衣は「いいから」と言ってピアノ椅子から立ち上がり、早く座れと俺に視線を送った。俺は渋々座り、黒と白の鍵盤を前にしてふうと深呼吸をした。ソファに座る彼は俺に期待の目を穏やかに向けていた。弾ける、弾けるから緊張するなと自分に言い聞かせて、高鳴る心臓をどうにか落ち着かせる。気持ちが凪いできたら、ふわりと手を鍵盤の上に乗せて、ラカンパネラをそっと弾き始めた。 最初は優しく、遠くに響く鐘の音を。一度弾き始めると指は勝手に動いた。跳ね返る鍵盤の感触は懐かしく、弦から鳴る丸く暖かい音が心地良い。俺はピアノを好きな気持ちを思い出した。俺はこれが好きだったんだ。 俺が弾き終わり、鍵盤から手を離してすぐ俺はソファに座る彼に視線を向けていた。彼は驚いた顔をして、小さく拍手をしていた。俺と目が合うと、彼は唇を美しい三日月型に伸ばして花が綻ぶような笑みを浮かべた。 「先生!やばいね!ちょー上手いじゃん!」 興奮した様子の結衣の言葉は俺の耳には入っていなかった。俺はあの人にずっと目を奪われていた。
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