VI

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VI

あの日から、たまにユキさんから電話がかかってくるようになった。いつも特に要件はなくて、ご飯は何を食べただとか、何の本を読んだとか、そんなとりとめのない話をする。しかし俺は未だにユキさんの“くすぐったい事件”を忘れられず、電話がかかってくる度にそわそわする羽目になった。 しかしあれ以来ああいうことはなくて、あれは幻だったのではないだろうかとも思い始めていた。 土曜日になり、いつものようにユキさんの家に向かう。どんな顔をして会えばいいのか考えながらインターホンを押し、いつものようにお手伝いの萩原さんの出迎えを受け、家の中に入る。 結衣がピアノ椅子に座って待っていた。 「先生やっほー」 「ん〜、ちゃんと練習したか?」 「したよー」 適当に返事を返しながらリビングを横切っていくと、いつもはリビングにいるユキさんの姿が見当たらず、俺は不思議に思いながらピアノ椅子の横の椅子に腰掛けた。 「今日ユキさんは?」 「ああ、なんかお父さんと出かけてる」 「ふーん」 楽譜を開いて指をさらっている結衣の様子をしばらく見ながら手のストレッチをする。 あの人、何か訳ありでこの家にいなきゃいけないって言ってた割には出かけてるよなと思った。 「うわ、先生ピアスつけてる!」 と結衣が俺の耳元を見て驚きながら言った。 「レッスン来る時だけ外してただけで普段はずっと付けてる……やっぱ嫌か?」 「いや、全然。でもなんか印象変わるね。チャラそう」 結衣は俺の耳に付いた銀色のフープのピアスをまじまじと見つめながら言った。手のストレッチも終わったため手を膝の上に戻した。 「じゃあ始めるか。よろしく」 「よろしくおねがいしまーす」 「まず宿題にしてたところから弾いて」 「はあい」 結衣が曲の中間部から弾き始める。レッスンを初めて一ヶ月以上経つが、なかなか良くなってきた。詰めるところはまだまだあるが雰囲気は悪くない。むしろ中学生でこれだけ弾ければ上等だった。 「いいじゃん」 「え?ほんと?」 「ああ」 「妥協してるでしょ?」 それでいて彼女は向上心の塊だった。褒めてやったんだから素直に受け取ってくれればいいのに。 「んー……まあ、直せるところはある」 「なに?」 「跳躍の前の音が雑。跳躍した後は気を遣ってるのがわかるけど前の音まで意識がいってないな」 結衣は楽譜を見つめながら「あー…」と納得していた。 「あとは音の粒もう少し見えるようになったらいい。今もまあまあ見えてるけどまだ出来ると思う」 「なるほど」 ふんふんと頷いて鉛筆で楽譜に書き込んでいる。そろそろ楽譜も黒くなってきた。 その後何回も同じ箇所を繰り返し練習し、確実に細部まで整えていく。彼女の演奏は、面白いくらいにみるみるうちに変化していく。若くて飲み込みが早いからだろうか。 「じゃ、今日はここまでで。そろそろ全部通して弾く練習もしておけよ」 「はあい」 二時間のレッスンを終え、お互いに片付けを始める。コンクールが近付いてきたためかレッスン中は無駄話もせず、ひたすら練習を続けていた。お互いピアノが好きだから、その作業はつまらないどころか達成感すら覚える。 片付けを終えた結衣は珍しくリビングのソファに座り、萩原さんが切ってくれた梨を食べていた。 「今日はユキがいないからくつろげる」 なんて言いながらしゃり、と音を立てて梨を頬張っている。俺は溜息を吐いて一緒にソファに座った。 「前から思ってたけど、なんでユキさんと仲悪いんだ?ユキさんは仲良くしたそうだけど」 俺が訊くと、結衣は梨を飲み込んでから答えた。 「この家、もともとは私とお母さんが住んでた家なの。お父さんとお母さんが離婚して、お母さんは出て行くことになって、私はお父さんの家に移ることになった。そうしたらユキが来て、この家に住むようになった。まるで私達がこの家から出て行くのを待ってたみたいなタイミングだった。それに私よりもお父さんと仲が良いし。だから気に入らない」 淡々と語られる話に動揺した。こんな話聞いてよかったんだろうか。 「やさしい人なのに」 「優しくて死ぬほどイケメンだから余計に嫌い。今までの人生ぜんぜん苦労してなさそーな感じ」 俺は苦笑を浮かべて、梨を一つ食べた。 「あの顔なら絶対にすぐに仕事見つかるのになんでずっとニートやってるんだろ。外出る度にスカウトさんに声かけられてるくせに」 ニートではないんだけどな…と内心思いながら、外に出る度にスカウトされているなんて事実に驚く。まああの顔では必然だろうか。 「先生さあ、ピアノ好き?」 俺が黙っていると、梨を食べ終わった結衣が不意に尋ねた。 「うーん…」 俺は返答に迷った。指を絡めた自分の手をじっと見つめ、暫く黙った。結衣はその間なにも言わずに俺の言葉を待っていた。躊躇いながら、ゆっくりと口を開く。 「ピアノは好きだ。好きだけど………呪いでもある」 「呪い?」 「俺にピアノを続けさせるために俺の母親を苦しめてしまったから。あの人が幸せになれないまま死んでしまったのは全部俺のせいなんだ」 俺は自分の手を見つめたまま淡々と言った。 「お母さん、いないの」 下を向いているから結衣の顔は見えなかったが、声でなんとなく動揺しているのが分かった。 「俺を一人で育てて、俺を音大に行かせるために必死で働いてた。病気を放置して片目が見えなくなってもあの人は働き続けた。俺が唯一好きだったピアノを俺に続けさせるために………でも、再婚相手に貯金を持ち逃げされて、俺はピアノを辞めざるを得なくなった。ピアニストになった俺を見る夢はなくなって、結局心臓の病気で死んだんだ」 同情してほしかった訳じゃない。ただ、話し始めると自然と言葉が溢れ出た。音大を辞める決断をしたときの母の顔が忘れられなかった。悲しみと、不甲斐なさと、怒りが複雑に混ざり合った顔だった。あの時の顔は、きっと一生忘れられない。 結衣は「そっか」と小さい声で短い返事をした。 「私もね、ピアノは好きだけど、何でピアノを好きになっちゃったんだろうって思う」 俺は顔を上げて結衣の顔を見た。結衣はソファに座った状態で膝を腕の中に抱えて、下を見ながら話していた。 「お母さんとお父さんが離婚することになって、お母さんは私を置いて家を出て行った。その時は小学生だったからお母さんに見捨てられたんだと思ってお母さんを恨んでたんだけど、今ならなんでそうしたのかわかる」 結衣は俺を見た。目が少し赤くなっていた。 「お母さんね、家を出るちょっと前に、結衣はピアニストになりたい?って私に聞いたの。私はすぐにうんって答えた。その時、お母さん泣いてた。多分ね、私がピアニストになるなら、音大に行かなきゃダメでしょ?お母さん一人の稼ぎでは私を音大に行かせられないから、お金持ちなお父さんのほうに私を残そうって決めたんだと思う。私、なんでピアノ好きになっちゃったんだろう。ピアノさえなかったら、お母さんと一緒に暮らせたかもしれないのに」 赤くなった結衣の目には涙が溜まり、瞬きをするとそれが粒になって流れ出た。まだ小さい彼女が背負っているものの重さに俺は言葉を失った。精神的に大人びている結衣だが、まだ中学生の少女が受け止めるにはあまりにも辛い。 「ピアニストになったら、お母さんに会いに行けよ」 俺は結衣の背中をさすりながら言った。結衣は驚いた顔をして俺を見た。 「お母さんは多分、結衣がピアニストになって会いに来てくれることをずっと待ってると思う」 結衣はゆっくりと視線を逸らして、暫く黙った。 「そうかな」 と彼女が小さく呟いたので、「絶対そう」と返した。 「だから、まず次のコンクールで結果残そう」 「私、一位なれるかな?」 「なれる」 結衣は少し笑った。 「私、先生のこと今まで冷たい人だと思ってた。優しいし、意外と熱い人だよね」 「そうか?」 「内でメラメラしてるタイプ」 予想外の彼女の発言に思わず笑った。 今までただの大人びた中学生だと思っていたが、彼女の本当の顔を見たような気がした。
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