VI

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結衣と二人でピアノの話をしていると、玄関のドアが開く音が遠くから聞こえた。間を開けずに、「ただいまー!」と元気の良いユキさんの声が聞こえた。 「帰ってきたんだ」 俺がソファから立ち上がると、結衣もゆっくり立ち上がって、玄関に迎えに行こうとする俺に付いてきた。 萩原さんも洗い物を止めて、エプロンで手を拭きながら玄関に向かう。 玄関にはユキさんと、結衣の父の浪川さんが居た。ユキさんはキャリーケースを持ち、ピンクの小綺麗なコートを着ていて、まるでどこかの俳優の空港ファッションみたいだった。 「お邪魔してます」 ユキさんの隣の浪川さんに挨拶をする。 「今日は土曜日だったね。いつもレッスンありがとう。家で結衣が練習するのをたまに聴くのだけれど、素人耳にも上手くなっているのが分かるよ」 浪川さんは柔らかく微笑む。初めてレッスンに来た時ぶりに会ったが、物腰は柔らかでどこまでも品が良い。中学生の父親とは思えないほど若々しく、すらりと背が高かった。 「こ、光栄です…」 浪川さんの雰囲気に圧倒されて俺がそう言うと、ユキさんがぷっと吹き出した。ちらりとそちらを見ると、彼は「ありがとう」と言って萩原さんに荷物を渡していた。白々しい。 「あ、みんなにお土産買ってきたから!」 ユキさんはピンクのコートを脱ぎながら笑顔で言った。ふわりと雨の匂いに似た外の空気の匂いがした。 俺たち五人はリビングのソファに座った。うちのワンルームには確実に入らなさそうな大きなソファが二つもあるので、五人が座っても窮屈さは全く無い。一方で浪川さん、結衣、ユキさんと萩原さんと共に俺がここに座っているのは精神的には窮屈だった。場違い感が否めない。 「はい、ええと…これが萩原さんの!」 ユキさんが沢山の紙袋の中から白の花柄の紙袋を渡した。 「わあ、バターサンドですか?ありがとうございます!嬉しいです。こんなにいいんですか…?」 萩原さんは頭を下げて紙袋を大事そうに置いた。浪川さんが「ご家族で召し上がってください」と微笑む。 「これが……結衣ちゃんの!」 二人が帰ってきてから静かな結衣はユキさんからピンクの紙袋を無言で受け取った。一人で紙袋の中を覗いているので、何が入っていたか尋ねる。 結衣は紙袋の中に手を突っ込んだ。彼女が紙袋の中から取り出したのは、赤色のかわいらしい毛糸の手袋だった。 「結衣ちゃんのピアノのコンクール12月でしょ?冬だから手が冷えたらいけないと思って。かわいくない?それ」 結衣は綺麗にラッピングされた手袋をじっと見つめた。本人は気付いていないかもしれないが、嬉しさで口元が緩んでいる。彼女は出来るだけ感情を出さないように気をつけて「ありがと」と短く言った。そんな結衣を見てユキさんの顔まで緩んでいる。 「で、これが…優くんの!」 俺はユキさんから巨大な白い紙袋を受け取った。何でこんな大きいんだ。 恐る恐る中を覗き、中にあるものを見た瞬間俺は思わず吹き出した。 それを掴み、紙袋の中から引きずり出す。 結衣が「くふっ」と笑った。 俺が貰ったのは巨大なねこのぬいぐるみだった。しかもとてもふてぶてしい表情をしている。 「優くんに似てたから買っちゃった」 とユキさんが笑いながら言った。似てるのか?と思いながら眠たそうな目をしたねこのぬいぐるみと目を合わせる。結衣が小声で「そっくり」と呟いた。 俺は未だに納得しないままありがとうございますと言った。 「ユキがどうしても買うと聞かなくてね」 浪川さんが笑いながら言うと、「ひとめぼれしちゃった」とユキさんも笑った。これ、電車で持って帰るの恥ずかしいな。 「結衣、もうじき暗くなるから先に帰ってなさい」 と浪川さんが言った。結衣は「うん」と短く返事をして、貰ったピンクの紙袋を大事そうに抱えて、荷物を持って玄関のほうへと歩いて行った。萩原さんがその後をついていく。家まで送って行くようだ。 「ユキも、二階で着替えてきなさい。新しく仕立てたシャツがあるだろう」 浪川さんにそう言われて、ユキさんは「うん、そうするね」と大人しく言って、ピンクのコートを腕の中に抱えて階段の方へと歩いて行った。その背中を見つめていると、去り際に振り向いた彼とぴったりと目が合った。彼はすぐに目を逸らして、階段を登って行った。 リビングには俺と浪川さんの二人だけが残った。 浪川創平。以前に興味本位でその名前をインターネットで調べると、驚くくらい沢山の情報が出てきた。インターネットサービスの提供を主軸とした人気企業の代表取締役。高学歴で物腰も柔らかく、文句の付け所がないエリートだ。誰しもが好印象を持つであろう微笑みが印象的だが、この家に初めて来て挨拶を交わしたあの時から、俺はどうもこの人が苦手なようだった。理由はわからない。住む世界が違いすぎるからかもしれない。 「真壁くん」 名前を呼ばれて心臓が跳ねた。「いや、先生と呼ぶべきかな」と彼は目尻を和らげる。 「やめてください、先生なんて」 「君みたいな子がレッスンに来てくれて嬉しいんだ。クラシックは嗜む程度だけれど、真壁くんが大学生のときの演奏の動画を見させてもらったよ。人生の重みが詰まっていてとても大学生の演奏とは思えなかった。天才だと言われるのも頷ける」 落ち着いた静かな声だった。外は雨が降り始めていた。庭が見える巨大な窓に幾つもの水滴が見える。 「ありがとうございます」 俺は窓から浪川さんに視線を移して、言った。 薄いシワがいくつかある切れ長の目。全体的に涼しげな顔立ちをしていて、どちらかと言うと可愛い顔立ちの結衣とはあまり似ていない。優しい微笑みを浮かべる彼は、何故か微かに毒気を含んでいるように見え、冷ややかな雰囲気があった。 「ユキと、仲が良いみたいだね」 彼は相変わらず静かな声で言う。 「まあ…はい。仲良くさせてもらってます」 彼は薄く笑った。黒目は全く動かない。 「ユキが好きかい?」 「えっ」 心臓がびくりと跳ねる。 「友達として、だよ」 雨の音が強くなった。日は既に落ち、巨大な窓の外は塗り潰したようなのっぺりとした闇が広がっている。闇の中で、雨の軌跡だけが時折白く見えた。 俺の心臓の音がこの人に聞こえてはいまいかと落ち着かない気分だった。なのに、声が出ない。重い緊張感と雨の音だけがこの部屋に満ちている。 そんな俺を見て、彼は顔を変えずに続ける。 「あの子は夾竹桃だよ」 「夾竹桃」 知らない言葉を無意識に繰り返す。 「君は彼を美しい蝶だとでも思っていそうだから」 彼の黒い瞳と目が合い、背筋がぞわりとした。今ようやく分かった。俺がこの人を苦手な理由はこの目だ。丁度今窓から見える真っ暗な闇のように、どこまでも黒くてじっとりとした目。 この人の目は俺の父親に似ていた。癇癪持ちで、俺と母親を何度も殴ったあの父親に似ている。その目を見て、俺はふと、女の匂いを思い出した。母が家を空けるようになった時期から、俺の家に漂うようになった女の臭い。むわっとした甘ったるくて鼻につく臭いだった。あの臭いが濃い時はきまって父親の部屋から女の喘ぎ声がした。 今まで忘れていたそんなことを思い出し、気分が悪くなる。俺は何も言わないまま立ち上がった。 「創平さん」 突然声がした。ユキさんが着替えを終えて一階に戻ってきたところだった。彼は花の刺繍が施された水色の柔らかなシャツを着ていた。 「かわいいね、これ。素材もすきだし」 ユキさんは浪川さんの横に座り、シャツを見せるようにひらひらとさせた。 「おまえはなんでもよく似合うね」 浪川さんはユキさんの黒髪に手を伸ばすと、ほつれた部分をそっと撫でつけた。「おまえ」と親しげに呼ぶ声は慈愛に満ちていた。俺と二人でいた時の冷ややかな雰囲気は今は全くない。 「雨がひどくなってきたから、真壁さんを送って差し上げなさい」 ユキさんは何か言おうとして口を開きかけたが、「わかった」とだけ言った。ユキさんは俺を見た。ようやく目が合った。 「猫のぬいぐるみ、ちゃんと持って帰ってね」 ユキさんは玄関に向かって歩き出した。俺は荷物と猫のぬいぐるみが入った紙袋を持ち、後ろをついていった。 「家まで送っていくよ」 と言って彼は玄関でコートを羽織り、傘を一本持って靴を履いた。 「駅までで大丈夫ですよ」 「そんな大きい紙袋持って乗るの恥ずかしいだろ?混んでるし」 彼が玄関のドアを開けると、細かい雨粒が頬に飛んだ。彼は赤い傘をさして、傘に入るように俺の肩を抱き寄せた。じっとりとした空気の中でムスクがふわりと香る。彼はそのまま歩き出した。 「創平さんに何か言われた?」 赤い傘に庭の照明の光が当たって、彼の白い頬や首を赤く染めていた。 「……いえ」 俺は短く返事を返した。 「ほんとうに?」 俺は彼の顔を見ずに「はい」と返す。浪川さんの言葉は俺に対する警告だったのだろうか。あの目は確かにこれ以上ユキさんに踏み入るなと言っていた。しかし未だにその真意を掴めずにいる。 庭を歩いているとすぐにガレージに着いた。ガレージには車が三台停まっていた。車種は分からないが高級車であることだけはわかった。 「ユキさんが運転するんですか?」 「え、うん」 「運転手でもいるのかと…」 免許を持っているのが意外だった。俺は助手席に乗り込んでシートベルトを付けた。 運転席に乗り込んだユキさんもシートベルトを付け、エンジンをかけた。エンジン音は驚くほど静かだった。 「ここに住所いれてくれる?」 とカーナビを指される。俺は表示されたキーボードで住所を打ち込んだ。音声案内が開始されると、彼は車を発進させた。 「大学のときにね、夏休み暇だったから免許取ったんだ」 ユキさんが不意に言った。 「へえ。俺はめんどくさいから取りませんでした。車に乗ることもないし」 「ま、東京に住んでたら車なくても困らないよね」 音大時代を思い返す。周りの学生たちはみんなお金持ちで、車を持っている人が多かった。俺は家に車がなかったし、免許を取るつもりもなかった。 「ユキさん、大学は何学部だったんですか?」 そういえば大学の話は聞いたことがなかった。こんなかっこいい人が大学にいたら、モテるどころの話ではなさそうだ。俺の大学でもどこの科の誰がイケメンだとか、そんな話を女子から聞いたことがあったが、正直誰もユキさんとは比にならない。 「ん?僕は外国語学部」 意外だった。なんとなく理系かと思っていた。 「へえ……英語ペラペラだったり?」 ユキさんがくすっと笑った。 「まあ、英語は結構不自由なく話せるかな」 俺は尊敬の眼差しを向けた。英語のほかに音大でイタリア語を学んでいたが俺は語学がてんで駄目だった。 「尊敬します…」 「大したことないよ。高校生のときホテル業界に憧れてたんだよね」 運転する彼の横顔を見た。静かな顔だった。 「今は違うんですか?」 と聞くと、彼は「うーん……」と考え込んだ。 「わからない。僕、これからどうするんだろうね」 彼はやけに明るく言った。自分のことなのに他人のことみたいだ。俺は浪川さんのことを思い出していた。ユキさんは彼に秘密で添い寝カフェのバイトをする一方で、今日の二人の様子は親子のように親密だった。ユキさんを「おまえ」と呼ぶ甘い声が妙に耳に残って胸をざわつかせた。悪い人ではない筈なのに、俺の父親に似た目が頭にこべりついて離れない。 それでも浪川さんとのことをユキさんに聞く勇気は出なかった。俺が考えすぎているだけだ。 暫く沈黙が続き、家の近くになると見知った風景が窓の外に見えた。車だとユキさんの家から二十分程度で着くみたいだ。ユキさんが「案外近いね」と呟いた。 俺の住む安アパートの前で車は停まった。 「ここであってる?」 「はい、ありがとうございます」 ユキさんが俺に赤い傘を差し出した。 「え、いいですよ」 「濡れるだろ、猫ちゃんが」 と俺の持っている紙袋に視線を落とした。俺は思わず笑い出した。笑いながら「ありがとうございます」と言って傘を受け取る。 紙袋を抱えて車から降り、傘をさして車内のユキさんに手を振る。ユキさんは少し笑って手を振り返した。 俺は早足で歩き出し、雨が凌げるドアの前に急いだ。ドアの前に着き、傘に叩きつける雨の音が静かになった。俺が傘を閉じようとすると、その手を突然誰かに掴まれた。 驚いて振り返ると、そこにはユキさんがいた。肩は濡れ、髪からは水滴が滴っている。 不意に引っ張られ、彼は突然俺を抱きしめた。突然といってもその手つきは優しく、まるで割れ物を扱うかのようにそっと包み込まれた。持っていた赤い傘は開いたまま乾いた音を立てて落ちて、転がっていった。もう片方の手で持っていた猫のぬいぐるみの入った紙袋も手から滑り落ちてばさりと音を立てる。ユキさんは動かない。彼の濡れた髪が冷たかった。 彼は両手で俺をひしと抱きしめ、肩と首あたりに顔を埋めた。俺よりも背の高いはずの彼が小さく感じる。 「……しばらくこうさせて」 彼は小さく呟いた。俺は返事を返す代わりに、ユキさんの背中に手を回した。彼の湿った息と香りが満ち、甘く絡みついてくる。 俺を抱きしめる彼の手は震えていた。彼はきっと泣いていたのだと思う。 どうして泣くんですか、と聞けばよかった。この人はふとした時にどうしようもない暗いものを纏っているような気がする。 俺はこの人のぬくもりが好きだ。死ねなくて生きているだけだった俺は、この人の暖かさを知ってしまった。高めに響く優しい声、俺より少し高い背丈、暖かくて大きな手、美しい目、彼のあらゆるものにどうしようもなく惹かれている。 「つらいならひとりで抱えこまないで」 と俺は言った。 「……うん」 彼はほんの小さな声で返事をした。抱きしめていなかったらきっと雨の音で聞こえなかった。 「おまえもね」 俺の背中を優しく撫で、そう付け足す彼の声は綺麗で、優しく、甘かった。 雨が降って冷たい空気の中、彼だけがぼんやりと暖かかった。 もうすぐ冬が来る。
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