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VII
11月も後半になりすっかり冬の匂いがし始めた。午後7時になってもぎらぎらと明るい東京の繁華街は、楽しげに会話する人に溢れていた。
俺はコートのポケットに手を突っ込み、とある百貨店に入った。化粧品売り場独特の粉っぽい匂いが鼻を掠める。空いていたベンチに腰掛け、スマホを開いて相手が来るのを待った。
「真壁さん!」
数分して彼女は来た。オレンジ色のニットと柄物のスカートを身に着けた綾知 澪は、俺の顔を見つけると名前を呼んで駆け寄った。こつこつこつ、と黒いブーツの音が鳴った。俺はすっと立ち上がる。
「すいません、お待たせしましたか?」
彼女の耳に付けられた真珠のピアスが少し揺れた。
「いや、今来たところ」
むしろまだ約束の時間の10分前である。律儀な人だなあなんてぼんやり考えながら、行きましょうかと言われたので歩き出した。
以前彼女のリサイタルの日に食事をしてから、時折彼女とは連絡を取っていたのだが、つい先日『よければまた一緒に食事でもどうですか?』とメッセージが来たため、迷った末に承諾した。
外に出ると、夜風に吹かれて彼女の綺麗に巻かれた黒髪が揺れた。白い肌に黒髪が映える。私服の彼女はドレスを着た時とは異なり、身近な美しさがあった。
「もう冬ですね。すっごい寒い」
彼女は笑いながら手を擦り合わせた。
「そうだな。冬は嫌い?」
隣を歩く彼女は俺を見た。
「うーん……あんまり好きじゃないです。手が悴むから……真壁さんは?」
「俺は好きだ」
「どうして?」
「湿気がないし。あと、雪が降るから」
澪はふふ、と小さく笑った。
「雪が好きなんですか?」
「ああ。昔からずっと。何歳になっても初雪はちょっとわくわくする」
俺が少し笑って言うと、澪はまた笑った。
「かわいいですね」
「そうか?」
「はい。今年、雪降りますかね」
彼女は空を見上げて言った。今日の夜空は晴れているらしいが、建物に隠れて月は見えず、周りが明るいからか星も見えなかった。
「東京は雪があまり降らないから寂しいよな」
「去年は降らなかったですもんねえ」
きっと雪が好きなのはその珍しさも理由だと思う。とくべつに寒い日だけちらちらと降り、うっすらと東京を白く染める。その非日常感がどうも好きで、冬はずっと雪が降るのを密かに待っている。
「今年はふるといいですね」
と、彼女が穏やかに呟いた。
俺たちが向かったのはおしゃれな居酒屋だった。店内は赤い壁が印象的で、暖かい色の照明がぼんやりと光っていて雰囲気がある。俺たちは二人用の席に座り、一番人気な肉料理と生ビールを頼んだ。しばらくして、ビールが運んでこられたあと、店員が料理を運んできた。肉汁に包まれた赤さの残る牛肉のステーキが、照明の下でてらてらと輝いている。ビールを乾杯して、一気に喉に流し込んだ。冷たい液体が喉に染み渡る。
「真壁さんはお酒強いんですか?」
少しだけビールを飲んだ澪が俺に聞いた。
「ん、まあ。強いほう。澪は?」
「私も強いです!友達の中ではいちばん」
「へえ、意外だな。好きなお酒は?」
「うーん……そうですね、ベタですけど、果実酒はすごく好きです」
「ああ、すっきりしてて美味いよな。頼むか」
「いえ!まだ大丈夫です!ビールも好きです」
結衣はにこりと笑った。赤色のリップを塗った唇が控えめに弧を描く。店内がおしゃれだからか周りは女性客が多く、黒い服でピアスなんかを付けた俺は少し目立っているように感じた。
そのまま彼女と一緒に食事をしたが、彼女は俺たちの唯一の共通点であるピアノの話をしなかった。俺に気を遣っていたのだろうか。
「去年の冬におばあちゃんの家に帰ったんですけど」
「うん」
「私のおばあちゃん、北海道でペンションを経営してるんですよ」
「へえ、一人で?」
俺が聞くと、彼女は控えめに「はい」と答える。
「元気なおばあちゃんだな」
「はい、すごく元気なんですけど……私が帰った時、記録的な寒波が来てて。おばあちゃんと同じ部屋で寝てたら、あまりにも寒くて目が覚めたんです。隣で寝てたおばあちゃんもいないし。びっくりして外に出たらおばあちゃんがすごい顔してボイラーを調べてるんです!」
「え、ボイラー…壊れたのか?」
「そうなんです。あまりの寒さで壊れちゃったみたいで……びっくりですよね。その日、マイナス十七度だったんですよ」
「同じ国とは思えないな………それで、ボイラー壊れて大丈夫だったのか?」
「お隣さんの家に泊めてもらいました。でも、その次の日もひどかったんです!急にドドンってすごい音がしたかと思ったら、ペンションの水道管が破裂して、水が天井から吹き出してたんですよ!吹き出した水はすぐに凍るから、氷の家になってました。びっくりです」
「うわあ……それは……」
「おばあちゃんも流石にびっくりしてました。北海道行ったことありますか?雪の量とかすごいですよ」
その時、鞄の中でスマホが鳴っていることに気付いた。鞄からスマホを取り出して発信者を確認すると、画面には「ユキさん」と表示されていた。
「あ、ちょっとごめん。電話」
澪に断って席を立ち、男子トイレに急ぐ。扉を開けて手洗い場の前に来ると、壁にもたれかかって通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あ、もしもし?ごめん、忙しかった?特に用事がある訳じゃないから忙しいなら切るよ』
「いや、大丈夫です。寝てただけ」
本当は早く切って澪のところに行くべきなのはわかっていたが、こうして嘘をついてしまうのはどうしてだろう。電話がかかってくる度にどうも俺は少し高揚した気分になる。
『そう?いや、何してるかなって。寝てたのかあ』
「ユキさんは?」
『僕はねー、庭の掃除してた』
「え、庭の掃除とかやるんですね」
『するよー!萩原さんのお手伝い。どうせ暇だし、僕だけ怠けてるのも悪いし』
「寒くなかったですか?」
『すっごく寒い!凍りそうだったよ〜』
スマホを耳に当てたまま俺はちらりと鏡を見た。無意識のうちに口角が上がっている。なに笑ってるんだよ俺、と思い、無理矢理真顔に戻した。
「ご飯は?食べました?」
『うん!今日は鍋だった』
「いいですね、鍋」
『優くんは?ご飯食べた?』
「俺は……まだです」
『そっか。寝てたんだもんね』
彼は「美味しいもの食べてね」と笑う。彼が電話の向こうで笑う度に、脳裏に彼の顔が思い浮かぶ。細められた丸い目と、美しい三日月を描く赤い唇。優しく和らいだ表情を、声だけで鮮明に思い出すことができた。
『早く土曜日にならないかなあ』
彼の不意な呟きにどきりとしながら、「どうしてですか?」と尋ねる。
『会えるから』
余計に高鳴った心臓に俺はとまどった。他意はないはずなのに、俺はそんな呟きにさえ少し嬉しさを覚えているのだ。これじゃまるで_________
俺は余計な考えを振り払い、鏡を見てまた顔を真顔に引き戻した。
「からかわないでください」
『からかってないよ?』
「面白がってるくせに」
『ほんとだよ。最近は優くんと話してるときが一番楽しい』
ただの、友達なのに。友達なら普通の言葉が、俺には思わせぶりな言葉に聞こえてしまう。俺はやっぱり最近どうかしてるんだと思う。
「もう切りますよ」
『えー、もう?』
「また連絡します。じゃあ」
俺は逃げるように通話を切った。スマホの電源を切り、早足で席に戻る。
澪は出来るだけ料理にもお酒にも手を付けずに俺を待っていた。
「悪い」
「いえ、全然!大丈夫ですか?急用とかだったんじゃ…」
澪は申し訳なさそうな顔をして俺の顔を伺った。咄嗟に彼女から視線を逸らす。
「いや、大丈夫。食べよう」
それだけ言って、俺はぬるくなったビールを喉に流し込んだ。それからの会話をしながらの食事は、なぜか随分と長い時間に感じられた。
「美味しかったですね!また来たいです」
食事を終え、少しだけお酒でふわふわとした雰囲気のある澪はそういって俺に柔らかな笑顔を向けた。
「そうだな」
大通りは人が多いからと裏道を通って駅に向かっていた。居酒屋が並んでいた地域を離れると、人通りは一気に少なくなる。点灯と消灯を繰り返す街灯が光る細い道は、俺たち以外誰もいなかった。もうすぐ地下鉄の入り口が見えて来る筈だ。
すると、突然横を歩いていた澪が立ち止まって、俺の手を掴んだ。俺が振り返ると、その瞬間街灯がまた消えて暗くなった。
ふわりと香る香水と微かなアルコールの匂い。街灯がまた点くころには、澪は俺の腕の中に収まっていた。
「……え、」
「かえらなくちゃ、だめですか」
彼女は俺の胸元でそう呟き、俺の顔を見た。驚いて少し目を見開いた俺と暫く目が合った。
彼女はゆっくりと俺の首に手を回すと、少し背伸びをして、俺に口付けた。暖かくて柔らかい唇の感触がした。
「……酔ってる?」
「わたし、好きなんです」
彼女は恥ずかしそうに視線を逸らした。
「…真壁さんのこと」
そう言って、また茶色の彼女の瞳と目が合う。ピアスがきらきらと光って揺れていた。
俺たちはあの後近くのホテルに入った。
寂れた雰囲気のその場所は、部屋に入ると埃っぽい匂いがした。鞄をソファに放り投げ、シャワーも浴びずに彼女を古いベッドに押し倒した。真紅のシーツに彼女の黒髪が散らばる。薄暗い部屋で彼女の白い肌だけがぼうっと光って見えた。
俺は赤い唇に口付け、貪るようなキスをした。唇を重ねながらオレンジ色のニットの中に手を入れて、ブラジャーの輪郭をなぞる。背中に手を回すと彼女は自然と背中を持ち上げ、俺はホックを外した。オレンジ色のニットの中から現れた白いブラジャーを投げ捨て、首に口付けを落とす。彼女は唇を薄く開いて、時折甘い声を漏らした。
あのセックスに愛がなかったことを俺は今ここで懺悔する。腰に走る鈍い快楽は罪悪感をより強くさせ、最中でも俺の脳裏にはあの人の声とぬくもりがこべりついて離れなかった。俺の下でよがる彼女のなかを執拗に掻き回し、乱暴に抱いたのに、彼女はただ俺を受け入れた。肌と肌を重ねて、お互いに汗を流しながらの行為は熱を帯びていたが、それは最後までどうしようもなく冷たかった。
「ごめん」
朝が来て、目を覚ました澪に俺は開口一番そう言った。澪は掛け布団で胸元を隠しながら、巻きが取れた黒髪を手櫛で軽く整え、俺ではなく朝日の差し込む窓のほう見た。
「……澪とは付き合えない」
澪は俺を見なかった。自分でも最低なことを言っているとわかっているから、自然と声が小さくなる。朝のせいで声は掠れていた。
澪はしばらく何も言わなかった。一度溜息を吐いて、ゆっくりと俺のほうを見た。
「……どうして?」
静かな声だった。
俺は視線を逸らし、長い間考えた。何度も同じ思考をぐるぐると繰り返して、また始めに戻る。認めるか、認めないかという葛藤と、彼女に対する罪悪感が俺の口を重くした。自分の両手の指を絡め合わせる様子をじっと見ながら、俺は長い時間考えて、そして、やっとのことで口を開いた。
「……好きな人がいる」
澪は俯いた。俯いたきり、静かになった。細くて白い手で布団をぎゅっと握りしめていた。長い黒髪で隠れて、俺にはその表情は分からない。
「……わかってました、昨日ので」
澪は俯いたまま、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「ずっと私のことを見てないのがわかりました。私じゃない、誰か違う人を見てた」
俺が行為に及んだのは、決して彼女に肉的な欲望を抱いたからではなかった。ユキさんという男にどうしようもなく惹かれる自分を、認めたくなかった。あれは一時的な気の迷いだと思っていた。女の子を抱けば、俺はノーマルだという証明が自分に出来ると思ったし、ユキさんに抱いた熱い感情も忘れられると思った。けれど、できなかった。むしろ、あの冷たい行為は俺の思いが彼女ではなく彼にあることを証明してしまった。
「…私じゃダメなのかなあ」
と、彼女は泣くように、自嘲するように呟いた。
「……本当に、ごめん」
俺はただ謝ることしかできなかった。朝日は雲に隠れてしまったのか、部屋の中は薄暗かった。
「もう、帰ります」
彼女はベッドの周りに散らばった服を着て、部屋を飛び出していった。俺は止めなかった。
誰も居なくなった部屋で、乱れた赤いベッドのシーツだけが虚しく残っていた。
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