VIII

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VIII

ローテーブルに乗ったコーヒーの湯気がゆらゆらと不規則に揺れている。日当たりの悪い俺のワンルームは昼でも少し薄暗く、俺の気分は落ち込んでいた。バイトで失敗して客から怒鳴られるし、それでいて昨日の出来事は忘れられないし。 「先輩元気ないですねえ、何かありました?」 急にアポを取ってうちに押しかけてきた友人の沢渡(さわたり)は、俺の淹れたコーヒーを飲みながら尋ねた。こいつは当たり前のように俺の家に来るのだ。 「んー……」 俺は布団に倒れ込み、もぞもぞと動いた。 「わかった!女でしょ!」 と彼は寝っ転がった俺の顔を覗き込んで来る。俺が途端に静かになると、「やっぱりね〜」と彼は言った。 「先輩イケメンだからなあ〜大学でもモテてたじゃないですか。女の子って、こう…先輩みたいな天才肌でミステリアスだけどピアス付けてる〜みたいなチョイ悪そうな男が好きなんですかねえ」 俺は返事も返さなかった。こいつは放っておいても一人でベラベラ喋る。 「先輩ピアノもめっちゃ上手いし、ミステリアスでかっこいいから後輩の中でもけっこう有名人でしたよ。ピアノ科の真壁先輩!って」 大学時代にこいつがやけに飲み会に誘ってきたのはそのせいか、と思った。 「で、何なんでしたっけ?珍しく好きな人でもできたんですか?」 やっと本題に戻ってきたが、俺は返事を返すか迷った。俺は枕に顔を埋めて、散々迷った後にようやく「うん」と返事をした。 「わあ!珍しいですね!先輩は愛すより愛されたい人なのに。どんな人なんですか?」 俺はゆっくりと布団から起き上がり、ローテーブルを挟んで沢渡と向かい合った。部屋に布団のほこりがふわふわと浮かんでいる。俺は沢渡と目を合わせないまま、俯いて暫く黙っていた。 「その………」 沢渡は静かに俺の言葉を待っていた。俺は覚悟を決めて、ゆっくりと、口を開いた。 「……男なんだ」 「え?」 「俺の、好きな人」 沢渡は静かになった。不安になって彼の顔をちらりと伺うと、彼は驚きのあまり固まっていた。すぐに視線を逸らして、がしがしと頭を掻く。やっぱり言わなきゃよかった、と後悔した。 「ごめん、急に変なこと言って」 と言うと、沢渡が「いや!」と急に大きな声を上げた。驚いて肩がびくりと跳ねた。 「なんにも変じゃないです!」 俺はきょとんとして、沢渡の顔を見た。それからすぐに、また俯く。 「変だろ、だって、俺は男なのに」 と小声で言うと、また沢渡は「変じゃないですってば!」と言った。 「だって、好きなんですよね?その人のこと」 俺は無言で頷く。 「性別なんて些細なことです。好きならちゃんと胸を張って好きだって言っていいと思いますよ」 俺ははっとした。今まで勝手に、男は好きになってはいけないと思っていたから。俺は異常だと思っていながら、気持ちを抑えることができなかったから、性別なんて些細なこと、という言葉が深く胸に刺さる。 「愛なんて、人それぞれですから。真壁先輩が心から好きだと思う人が見つかったみたいで、嬉しいです」 沢渡はにかっと歯を見せて笑った。目頭がじんわりと熱くなったのを感じて咄嗟に俯き、「ありがとう」と小さく言った。 「いやあ、それにしてもあの鉄壁の真壁先輩を落としちゃう人ってどんな人なんですか!?イケメン?」 沢渡が目をきらきらさせながら俺をじっと見つめた。 「ああ、イケメンなんてもんじゃないな」 「えー!!写真は!?」 「ないけど…」 「えー!?今度絶対撮ってきてくださいね!?芸能人だと誰に似てます!?」 「うーん……分からない。正直、こんな人間が生まれてくるのか…と思った」 「ええっ…すごく気になる…」 沢渡は気になって仕方がないという顔で俺を見た。俺は思わず笑い出す。人に話したことで少し楽になった。憑き物が落ちたように心が軽い。 俺は「実際見たらびっくりするぞ」と言って笑った。
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