IX

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IX

12月になり、結衣のコンクールまで残り2週間となった。俺たちは週1回だったレッスンを週3回に増やし、最後の追い込みをしていた。レッスンの回数が増えようとも一回のレッスン料は変わらず、正直に俺は金銭的にかなり満足感を得ていた。俺は完全に浪川家に養われている。 「p(ピアノ)の部分が響かないよね」 結衣はピアノを弾く手を止め、言った。p(ピアノ)とは楽譜に記載されている強弱記号の一種で、弱く演奏しなければならない部分だ。実は弱く美しく弾くのにはかなり技術を要する。音量が小さくなることで響きがなくなるのもその難しい点の一つだ。 「そうだな。小さい音を響かせたい時は…まあ、これは常に言えることだが、手首を柔らかく使うこと。手首はリラックスするが、指先は固く、しっかり鍵盤を捉えること。あとは、小さい音を弾く前に息を吸うといい。気持ちが軽くなって柔らかい音が出るから」 俺は結衣の隣に座り、お手本として該当の部分を弾いてみる。綿毛のように繊細に、それでいてよく響く音が必要になる難しい部分だ。結衣は俺の指さばきや呼吸までに目を凝らし、俺が弾き終わると小さく頷いた。 「やってみて」 ピアノ椅子から立ち上がってまた隣の椅子に戻った。結衣は先程の俺の真似をして弾いた。まだ少しぎこちない。 「もっとリラックス。もう一回」 俺は俺が満足するまで何回もその場所を弾かせた。次第に音の角が取れ、響きのある豊かな小さい音になっていく。満足する演奏が出た時、「今の感じで」と言うと、結衣ははにかんだ。 と、その時結衣のスマートフォンが鞄の中で鳴っていることに気付いた。結衣も気付いたようで、「ごめん」と言いながら鞄からスマホを取り出す。 「お父さんだ」 スマホの画面を見た結衣はそれだけ言って、通話ボタンを押してスマホを耳にあてた。結衣は「え!?」と言ったり、「ああそうなんだ…」と言ったりと話している内容がとても気になる。しばらくして結衣は通話を切り、スマホを鞄の中に戻した。 結衣はためらいながら俺を見て、言った。 「あの……真壁先生が来る前に私の先生してた人が、今から来るって」 「え?前の先生って……ウィーン行ってるんじゃないのか?」 「なんか帰ってきたらしい」 前の先生は直接会ったことはないが、沢渡の友達のピアニストということだけは知っている。ウィーンに行くからコンクールまで結衣の演奏を見てやってほしいというのが、沢渡に伝えられたバイトの内容だった筈だが。まず、コンクールが近い教え子がいるのに後継の先生探しを友達に任せてウィーンに飛ぶ時点で少し印象が悪かった。 俺は首を傾げて、そのままレッスンを続けた。 1時間ほど経って、インターホンが鳴った。萩原さんが玄関まで迎えにいき、ぱたぱたとスリッパを履いた足音が近付いてくる。 「こんにちは〜っ、おっ、結衣ちゃん久しぶり〜!」 飄々とした声と表情。現れたのは俺と同じくらいの若い男だった。明るい茶色の髪をセンター分けにしている掴みどころのなさそうな男。雰囲気は少し沢渡に似ているところがある。リビングで本を読んでいたユキさんは彼と目が合うと、何も言わず本を閉じて二階に上がっていった。男のほうもその姿を視線で追うことはなく、すぐに視線を他所へ移した。 男は俺と目が合うと、恭しく会釈をした。 「はじめまして〜、おれ、星沢 晶(ほしざわ あきら)っていいます」 「初めまして。真壁優です」 俺が名前を言うと、星沢は僅かに首を傾げて俺の顔をまじまじと見た。 「おれ達、どっかで会ったことあります?」 俺は見覚えがないが、どうやら俺の顔に見覚えがあるらしい。ピアニストなら恐らくどこかのコンクール会場で会ったか、川崎国際コンクールの映像を見たかのどちらかだ。俺は「さあ…」と言って軽く流し、それ以上の詮索を避けた。 「どうして急に来たの?星沢先生」 結衣が尋ねた。 「留学のカリキュラムが早めに終わったから帰ってきたんだ。結衣ちゃんのこと心配してたから来ちゃった」 星沢は「カンパネラどんな感じ〜?」と結衣のもとに歩み寄り、楽譜を覗き込んでいる。 「あの……」 そんな中、俺が声をかけると、星沢は「あっ」と声を上げて俺の方を向いた。 「結衣ちゃんのレッスン、次からおれがやるから」 「は?」 当たり前のように軽い調子で言われた事実に、思わず思考が止まる。次第に疑問ばかりが頭に浮かび、結衣もまた困惑しているのか静かだった。 「コンクールまで、っていう約束でしたよね」 俺が声を絞り出すと、星沢は頓狂な顔をした。 「そうかもしれないけど…こうやっておれ帰ってきたんだし。結衣ちゃんのお父さんも快諾してくれたし」 「だからって…………コンクールまであと2週間ですよ。今から指導者が変わるのは確実に悪影響です」 浪川さんはどうやら俺が気に入らないらしい。俺をこの家から遠ざけるには星沢は都合が良かったのだろう。 「結衣はおれの教え子だぞ」 「今は俺の生徒です」 星沢はじりじりと俺との距離を詰める。俺は星沢の目から視線を逸らさなかった。星沢も俺から目を逸らさない。 「浪川さんがおれに頼むって言ってるんだぞ?」 「レッスンを受けるのは結衣でしょう」 「じゃあ結衣はどっちがいいんだよ」 星沢が結衣に視線を向け、結衣はどきりと肩を振るわせる。結衣は「わ、私は……」と言って視線を俺に向けた。助けを乞うような弱々しい目だった。暫く部屋に沈黙が流れる。 「コンクールまでは俺がレッスンをします。浪川さんが俺を気に入らないならレッスン代は要りません。コンクールが終わればちゃんと星沢さんに引き継ぎます」 俺は沈黙を破って毅然とした態度で言った。星沢は信じられないという目で俺を見た。星沢が目的にしているのは恐らく高額なレッスン代だ。正直、こんなに割のいいバイトは滅多にない。しかし俺はこの際お金なんてどうでもよかった。多少やけになっていたのは事実だが、結衣がピアニストになってもう一度母に会うために、同じピアニストを志していた者として最後まで面倒を見て一位を取らせてやる責務が俺にはあった。 星沢は暫く何も言わなかった。そして俺から視線を逸らし、「勝手にしろ」と言って玄関の方へと振り返った。 「話があるからちょっと来い」 背を向けたままそう言われ、俺は大人しく彼に着いて行った。玄関先に向かい、靴を履いて外に出ると星沢はようやく俺を見た。 「金が目的じゃないならなぜ結衣にこだわる?」 冬の空気が刺すように寒い。星沢は怪訝な顔をして俺をじっと見ていた。 「……次のコンクールで絶対に一位を取らせてやりたい。ピアニストならあのコンクールの重要性は分かるだろ」 「そういうことを言ってるんじゃない………何でこの気色悪い家にそこまでして留まりたがるんだよ。普通早く離れたがるだろ」 「気色悪い…?」 俺が聞き返すと、星沢は呆れたような溜息を漏らした。 「この家に住んでる椎原ってやつに会ったことは?あのモデルみたいな男だよ」 「…ユキさんが何か?」 俺がそのまま黙っていると、星沢がまた溜息を吐いた。 「ユキさんって……お前、あいつと仲がいいのか?本当に何も知らないんだな」 「何だよ」 「忠告しといてやるよ。あいつと仲良くするのはやめたほうがいい。この家に入り込みすぎるのもな。この家はおかしい。まともなのは結衣ちゃんだけだ」 星沢の目は切実だった。 まともじゃない?おかしい?星沢は警告はしても肝心なことは何も教えてくれない。俺は無意識のうちに父親に似た浪川創平の目を思い出していた。 妻と離婚し、すぐに家にユキさんを連れて来た浪川創平。「ユキは私よりもお父さんと仲が良い」という結衣の言葉。ユキさんに触れる時の浪川創平の優しい目と声。「僕は本当はあの家にいなきゃいけない」という添い寝カフェでのユキさんの言葉。「あの子は夾竹桃だ」という彼から俺への牽制。 『…しばらくこうさせて』と、俺を家まで車で送ってくれた時、俺を抱きしめて泣いていたユキさん。 帰ろうと踵を返した星沢を、俺は咄嗟に呼び止めた。星沢が此方に振り返った。 違う、そんな訳ない。きっと俺の考えすぎだ。そう思っても、俺の考えは頭の中で大きく、確かなものになっていく。 「ユキさんと浪川さんは____」 星沢がぴくりと眉を動かした。俺はそれ以上言葉が出てこなかった。自分の口では言えなかった。 「自分で聞け」 星沢は俺を突き放すように、それだけ言って、早足で去っていった。雨のにおいとは少し違う、雪のにおいが鼻を掠めていった。
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