II

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毎週土曜日のレッスンに行くと、結衣は集中してレッスンを受けてくれて、それでいてたまに雑談なんかもしてくれて楽しかった。俺は顔に出るタイプじゃないから、結衣に「先生ごめん……レッスンつまんないよね」と突然謝られたことがあるけれど、これでも俺はかなりやりがいを感じているし楽しいと弁解すると彼女は笑ってくれた。黒く艶やかなピアノから奏でられる温かい音が好きだし、それにあの家にはいつもユキさんがいた。 彼はレッスンの時はいつもリビングに居て、レッスンが終わると俺に美味しいコーヒーを淹れてくれる。日差しがたくさんさしこむ明るいリビングのソファに二人で座って、他愛のない話をする。ユキさんは現実離れした綺麗な顔だけど、意外と感情豊かで表情は目まぐるしく変わり、ころころとよく笑う人だった。彼は笑うと目が少し細くなって、花が綻ぶような笑顔を向けてくる。俺の性的嗜好はノーマルだけど、彼の笑顔には思わず目を奪われる。男とか女とか、そういうものを超越した美しい人だ。 そんな明るくて尊く、あたたかい時間のおかげかレッスンの前の日はよく眠れるし、朝も気持ち良く起きられる。 ただしそれ以外の日は別だ。俺は元々寝付きが最高に悪い。特にメンタルが弱ってる時なんて一睡もできずに朝を迎えるなんてザラだった。 最近も俺はあまり眠れていなかった。 どれだけ目を瞑っても眠気がこない。落ちるべきところに落ちてくれない意識。毎日ろくに眠れないストレスと、朝日が出るまでの暗く、長く、孤独な時間は俺の心労をより蓄積させる。 今までの経験だと隣に誰かが居ると眠れた気がする。というのを沢渡に話すと、 「人肌恋しいってことじゃないすか?先輩かわいいですね〜〜」 「うるさい」 「ま、それだったらあれじゃないすか?彼女作るか、風俗か、それか……あ、添い寝カフェとか?」 と言った。 彼の発言は的を得ていた気がする。後日、そう思って俺は一枚のチラシを手にしていた。家を片付けた時に出てきた添い寝カフェのチラシだ。しかも女性向けの。世の中は男性を対象にした添い寝カフェがほとんどなのに、わざわざ女性向けの添い寝カフェを選んだのは俺の純粋な同性の添い寝フレンドがほしいという気持ちからだ。 「いらっしゃいませー」 意を決して店内に入ると、受付の店員に一瞬物珍しそうな顔をされた。そりゃそうか。受付を簡単に済ませて、案内された個室に入る。荷物を置くテーブル、間接照明、ベッドだけがある簡素な部屋だ。一体どんな人が来るんだろうかとベッドに腰掛けて待っていると、しばらくしてドアがノックされて開いた。 「失礼します〜」 「え……」 入ってきた人の顔を見た瞬間、俺はついに頭がおかしくなったのかと思った。あまりの衝撃に脳の活動が一瞬停止する。部屋に入ってきた店員は、どこからどう見てもあのユキさんだった。 ユキさんも俺の顔を見た瞬間に固まった。 何が起こっているのかよくわからない。 「な、なんで……?」 先に口を開いたのはユキさんだった。 「え、なんで、?」 彼は口をぽかんと開けて目をぱちくりさせている。何回瞬きしても俺の顔は変わらない。 俺は一旦深呼吸をしたあと、夜眠れないこと、誰かが添い寝してくれたら眠れる気がした、という旨を話した。 「なんだ、そういうことかあ〜」 俺の話を聞いたユキさんはなぜか安堵した表情で言った。 「僕でいいの?」 とユキさんが言うので、俺は「はい」と返事をする。 「むしろ、すいません…顔見知りで」 「僕は全然大丈夫!電気消すね」 電気を消して部屋が薄暗くなると、彼にベッドに入るよう促されて、俺はそそそとベッドに入った。どこを向いたらいいのかわからなくてひとまず壁の方を向いて、ユキさんに背中を向けていると、後からベッドに入ってきた彼が後ろからそっと抱きしめるようにして俺に腕を回した。想像以上の距離の近さに思わず心臓が跳ねる。ユキさんからはふわりと女の甘い香水の匂いがした。 暫く彼は無言だった。俺が少し動く度に静かな部屋にはシーツと擦れる音がして、落ち着かない。 「ピアス、つけてるんだ」 彼が呟いた。いつもは高めの位置で響く彼の声が今は耳元で低く響く。レッスンの時に会うどこかふわふわしたユキさんとは別人のような気さえする。 「いつもは付けてるんですけど……結衣に怖がられるかと思って、レッスンの時は外してます」 彼はふふ、と短く笑った。 「律儀だね。知らなかった」 「…ユキさんは、ずっとここで働いてるんですか」 彼の息遣いや温もり、心音までが全身で感じられる。きっと俺の心音も伝わってるんだろうなと思うと恥ずかしい。誤魔化そうと思って必死に話題を探した。 「僕に合ういい仕事でしょ、添い寝。ここの店長が僕を気に入ってくれてね、働かせてもらってる。僕けっこう売れっ子なんだ〜」 「ふーん、分からないですけど…女の子のお客さんはユキさんみたいな人に添い寝されて生きた心地がするんですかね」 「どういうこと?」 「こんなイケメンに抱き締められたら添い寝どころじゃない、って話です」 と俺がくるりと向きを変えてユキさんに向き合って言うと、視線がかちあって彼ははまた小さく笑った。自分から向きを変えてしまったけど、超至近距離でのユキさんの顔を見てやっぱり壁の方を向いておけばよかったと後悔した。なんでこんな顔がいいんだ。 「わかんないけど…僕の顔見て緊張しすぎて吐いたお客さんはいるよ。あれはショックだった」 「本当ですか」とその話に俺が思わず笑い出すと、俺を見ている彼はきょとんと物珍しい顔をした。 「な、何ですか…」 「優くんって笑うんだね」 なんて少し嬉しそうに言われてしまい、また笑みが溢れる。 「人間なんだからそりゃ笑いますよ」 「だっていつも話してても笑ってくれないし……優くん笑ってるほうがかわいいよ」 「なんですかそれ…」 俺は鼻で笑って、またくるりと壁の方へ向いた。 「もうねます」 と呟くと、彼は「そっか、はやいね」と短く返事をしてまた後ろから俺に腕を回した。 「おやすみ」 彼の温もりが心地良かった。俺を控えめに抱きしめる腕は思っていたよりもがっしりしていて、手も大きくて暖かい。俺より少し身長も高くて程よく鍛えているけれど線の細いユキさんは包容力があって、気付けば瞼が重くなっていく。あたたかくふわふわした眠気のなか、俺は久しぶりに穏やかに眠りについた。 「優くん、おきて」 その声とゆさゆさと肩を揺すられる振動で、俺は眠りから覚めた。頭の半分はまだ泥のように無意識の感覚に留まっている。 「おはよう」 まだとろんと眠気の残った声で言う彼は、「僕までねちゃった」と少し笑った。 久しぶりに深く眠ったからかまだ意識と身体が繋がっていなくてうまく動かない。彼の手を借りて起き上がり、しばらくぼんやりとすると俺はのそのそと起き上がった。 「ありがとうございました」 とへなへなした礼をすると、彼は「どういたしまして」と俺の背中を軽く叩いた。 「また眠れなかったら言ってね」 「はい、ありがとうございます」 俺が荷物を持って部屋を出ようとすると、不意に手首を掴まれた。驚いて振り返ると、彼はひどく神妙な顔をして微かに俯いていた。 「あの、」 「はい?」 彼は困ったように視線を右往左往させたあと、俺を見た。 「お願いがあるんだけど…」 「何ですか?」 「…僕がここで働いてること、創平さんには内緒にしてほしい……結衣ちゃんにも」 彼の顔に怯えのような影が走るのがわかった。今まで見たことないような、今にも泣き出しそうな顔だった。 「なんで……?」 理由を訊いてはいけない雰囲気だったのに、俺の口は勝手にそう呟いていた。ユキさんはやっぱり困った顔をして俺から視線を逸らした。 「…とにかく、お願い。秘密にしてほしい。僕は本当はあの家にいなきゃいけないんだよ」 怖気きった顔つきで彼は小さく呟く。なんで、どうして、と疑問ばかりが頭に浮かんだが、俺は不安で小さくなった彼の肩を軽くさすった。 「わかりました。言いません、絶対」 彼は俯いて「ありがとう」と小さく言った。今にも壊れてしまいそうなくらい弱々しかった。 「…じゃあ、また今度」 「…うん、」 俺がそう言ってドアを開けると、彼はすこしだけ笑顔を作って俺に手を振った。彼をその部屋に残し、ドアを閉めて店の外に出ると、外はもう薄暗くなっていた。 あんな顔、見たことなかった。家では綺麗な天使みたいな人なのに、あの人はあの家に囚われていたのだろうか。それとも、外に出てはいけない理由が何かあるのか。仲良くなれたと思っていたのに、彼の弱みを握ってしまったみたいで俺の気分は沈んだ。
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