III

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III

俺が添い寝カフェでユキさんと出会った次の土曜日、俺はユキさんとどんな顔で会えばいいのか考えながらあの家に向かっていた。 「僕はあの家にいなきゃいけない」と神妙な面持ちで言った彼の言葉がずっと引っかかっていた。結衣にも働いていることは秘密にしてと言われたし、ぎこちなくならないようにしよう。表情に出さないのは得意だ。 と長々と考えていた割には、ユキさんは普通だった。レッスン中に時折視線をリビングのほうへ移すと、いつも通りコーヒーを淹れて本を読み、聞こえてくるピアノの音に僅かに首を揺らしていた。ちらちらと視線を向けていると、キッチンに向かう彼と目が合ったので急いで逸らした。 「先生、ここの左手がどうしてもできないんだけど…」 と結衣が言うので、楽譜へと視線を移した。 「ああ、そこ難しいな。左手だけだったらできる?」 「うん」 「じゃあ両手でゆっくりからやろう」 結衣の演奏は最初に比べるとかなり良くなってきたが、まだ楽譜に追いつくのが精一杯で音楽的要素は乏しい。中学生が挑戦するにはかなりの難曲だが、基礎力のある彼女なら出来ないということはないだろう。結衣のピアノの弾き方は小さい頃から先生にしっかり教えられ、沢山練習をして身に付けたかなり模範的なもののように思える。いわゆる「ピアニストらしい」弾き方だ。クラシック界では好まれるしコンクール受けがいい。俺は小さい頃好きでずっと鍵盤を触っていただけだったからピアニストとしては癖のある弾き方らしく、音大の先生によく怒鳴られたのをよく覚えている。 メトロノームをつけ、ゆっくりのテンポで難しい箇所だけをゆっくり弾いてもらう。 「そんな感じ。悪くないけど左手に集中しすぎて右がだめになってる。気を付けて」 「うん」 できたらテンポを早めてまた弾いてもらう。それができたらまたテンポを上げて……と繰り返し、最後には元のテンポに追いつく。 「うーん、早くなると音の粒が見えないな。ここは流れで弾くんじゃなくて一つ一つ音の粒を作るイメージで弾いてみて。えっと…シャボン玉みたいな」 「シャボン玉」 と結衣は笑った。 「何だよ」 「先生がかわいいもの言うと笑える。先生、雰囲気ツンツンしてるから」 結衣はそう言うと、リビングのほうから吹き出すような笑い声が聞こえた。ユキさんに視線を向けると、「笑ってません」と言いたげな顔でわざとらしくコーヒーを飲んでいた。結衣は呆れた顔で「ほらね」と言った。 「俺そんなにツンツンしてるか?」 「うん。笑わないし」 「そうか…」 他愛もない会話をしながらレッスンを進める。結局今日のレッスンは難しい箇所の練習で終わってしまった。 「アレグロのとこからしっかり練習しておけよ。次のレッスンで見るから」 「はあい」 気の抜けた返事をした結衣は書き込みが増え始めた楽譜を閉じて、鉛筆を筆箱に戻してトートバックに入れると「あ」と呟いた。 「今日お手伝いさんが休みだから、お父さんがたまには外食でもしてきなさいって。真壁先生も一緒にってどこか知らないけどレストランのお食事券みたいなやつ貰った。行くよね?先生」 結衣はトートバックから封筒のようなものを取り出して俺に渡した。知らないレストランだったけど、封筒からして高そうな雰囲気が漂っている。肌触りのいい紙に金色の装飾と筆記体で店名が刻まれていた。 「いいのか?すごい高そうだけど…」 「お父さんが用意したんだからいいってことでしょ」 わざわざ俺の分まであるなんて、律儀な人だと思った。こんな高そうなレストラン、バイトかけ持ちの俺が普通に生きてたら絶対に行くことはないだろうな。 「じゃあ行くよ。後でお礼のメールしないとな」 「やった。じゃあ私家で着替えてくるから待ってて」 とトートバックを持ち上げた結衣に、「待ってくれ」と声をかける。 「ユキさんは?」 食事券は三枚セットみたいだった。折角三枚あるのに俺たち二人だけで行って、ユキさんだけ残していくのもどうかと思ったし、結衣とユキさんがあまり仲良くないのも知っていたが、いつも家に居るあの人を出来るなら連れていってあげたい。 「あー………どっちでもいい」 結衣はそれだけ言ってトートバックを持って玄関のほうに歩いて行った。気乗りはしないが断るほどでもないって感じだ。 俺はソファに歩いていって、コーヒーを飲んでいるユキさんに声をかける。 「ユキさん、来ますよね」 彼は瞳を持ち上げて、俺が示した食事券を見た。上を向いて丸々としている目の彼は子犬みたいだ。 「それ、創平さんからもらったの?」 彼の視線が俺に移る。彼は結衣の父親のことを創平さんと呼ぶ。家に居候しているくらいだし、仲が良いのは分かるのだが歳が離れたこの二人はなぜ仲良くなったのだろうか。そんなことを考えながら「はい」と返事をした。 「そっか。うん、行くよ。優くんとご飯行きたかったし!」 彼は柔らかい笑顔を浮かべてソファから立ち上がった。「着替えてくる」と言って軽い足取りで二階に上がっていき、一人残された俺は自分の服装を見た。二人とも着替えに行ったけど、俺はこのままの服装で大丈夫なんだろうか。今日は黒いズボンに黒のTシャツ、その上に黒のジャケットを着ている。全身真っ黒だ。靴はスニーカーだけどサンダルとかじゃなければ大丈夫だろうか。高級レストランのマナーがよくわからない。 あの二人が何も言わなかったんだし大丈夫か…と思いながら、俺はピアノ椅子に腰掛けて鍵盤を触りながら待っていた。
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