III

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「あの人誰?」 「超イケメンなんだけど…」 「俳優?アイドル?見たことある?」 「俳優っぽくない?すご〜……顔…」 「誰だろう…?すっごいイケメン」 店に入って席に案内されている間、座って食事をしていた人々が騒つくのがわかった。お客さんの視線を集めているのは勿論俺ではなくユキさんだ。家でのゆったりとした格好から着替えた彼は、黒のハイネックのセーターを着て、綺麗なシルエットの黒いスラックス、そしてその上からブラウンの秋物のコートを羽織っていた。靴は品の良い革靴。一方でラフなままの髪の毛は美しい顔立ちをより引き立たせており、雰囲気はまさに芸能人だった。顔が小さくて、すらりとした長身だけでも目立つのに、この顔立ちでは目立つどころか人だかりが出来そうだった。席に案内してくれたのは女性の店員だったが、彼女もまたユキさんの顔を見るやいなやこっそりと前髪を手で直しはじめていた。 「ありがとうございます」と席に案内されたユキさんが店員に微笑むと、彼女は顔を赤らめて小さな声で「ごゆっくりどうぞ」と言って逃げるように去っていった。 「めっちゃ席近いどうしよう…!?」 「うわあほんとイケメン…」 「声かけてくれば?」 「隣の人もなんかかっこよくない?」 「えー、そう?」 周りの席に座っているお客さんの囁き声が嫌でも耳に入ってくる。落ち着かなくてむずむずしている俺とは反対に、ユキさんと結衣は落ち着いていた。 「先生、気にしないほうがいいよ。ユキと出かけるといつもこうなの」 俺の様子に気付いた結衣は俺にそう言った。とは言ってもこんなにちらちら見られて落ち着けるものか。 「優くん、ごめんね。落ち着かないよね……やっぱり僕帰ろうか」 「いや、いいです。大丈夫です」 申し訳なさそうな顔をしているユキさんの提案をきっぱりと断り、メニューを手に取るとそれに視線を落とす。外出する度にこんなに騒がれたら俺だったら外に出るの嫌になるな。サングラスとマスクで顔を隠したとしてもユキさんならオーラが隠しきれずに「芸能人ですか?」とかけられるのがオチだろう。顔が良すぎるのも良いことばかりではないみたいだ。 「ここ、ピアノの生演奏があるのかな」 ユキさんが呟いた。案内された席はピアノから一番近い席で、左を向くと明るく暖かい色の照明の下で黒く輝くグランドピアノがあった。 「良いピアノですね」 俺がそう言うと、ユキさんは「そうなの?」と呟いた。 「ベヒシュタインっていうドイツのメーカーのグランドピアノです。けっこう好みが分かれるピアノなんですが……お店の人のこだわりでしょうね」 「へえ、さすが優くん、物知りだなあ」 「一応ピアニスト志望でしたから、このくらいは普通です」 と言ってまたメニューに視線を落とす。しかしメニューの値段はどれも非現実的だった。自分で払うわけではないのに、出来るだけ安いものを選ぼうと無意識のうちに目が動いている。何でこんなに高いんだ。ちらりと結衣とユキさんの様子を伺うと、二人は慣れた様子でメニューを吟味していた。結局俺は無難なアーリオオーリオを注文した。 注文したものを待っていると、店の奥から黄色のドレスを着た女性が歩いてきた。ゆるいウェーブのかかった黒く長い髪、細身で肌は白く、女性にしては背が高くて雰囲気があった。 彼女はピアノの前まで来るとお客さんに向かって一礼し、ピアノ椅子に腰掛けると、静かにピアノを弾き始めた。 クラシックの調和の取れた響きと、艶のある音がレストランを穏やかに包み、食事をしていた人々はその美しい音とピアニストの彼女に釘付けになった。 ドビュッシー作曲、プレリュード第一集の第八曲。日本では「亜麻色の髪の乙女」という曲名で知られている名曲だ。西洋の昼下がりを彷彿とさせる穏やかな曲調は美しく、ドビュッシーの作品の中でも最も愛されているものの一つである。ベヒシュタインのピアノの音は透明感が高く、奏者の癖や特徴、性格までもがより強く演奏に現れる。優しくて丸い音を出す彼女はきっと優しい人なのだろう。 「先生、この曲弾いたことあるの?」 「え?」 結衣が俺に突然聞いたので、俺は思わず聞き返した。 「指、動いてるから」 テーブルに置いていた指がどうやら無意識のうちに動いていたらしい。 「ああ…、高校生くらいの時に弾いた」 「ええ、そんな昔に弾いた曲よく覚えてるね」 「一回弾いたら忘れないんだよ」 「ふうん」 そう言ってピアニストの彼女に視線を移すと、彼女と目が合った。彼女はピアノを弾く手を止めないまま暫く俺を見つめ、また鍵盤に視線を落とした。 「あの」 俺がお手洗いに行って席に戻ろうとしたとき、通路で声をかけられた。振り返ると、そこにいた人物に思わずぎょっとした。俺に声をかけたのは黄色いドレスのピアニストのあの女性だった。今は休憩時間なのだろうか。 「な、何でしょう」 綺麗な人だと思った。顔立ちは端正で、それでいて雰囲気は柔らかく嫌みがない。 「ピアニストさんなんですか?ピアノの近くに座っていらっしゃいましたよね」 彼女は金色の小ぶりのピアスを揺らして俺に尋ねた。 「あ、はい。今は弾いてませんけど…一応、昔は」 彼女はそれを聞くとまたもじもじと「あの…」と言った。まだ何か言いたいことがあるようだ。 「…ま、真壁優さん……ですか?」 彼女の口から俺の本名が出て来てあまりに驚いて暫く固まってしまった。 「三年前の川崎国際ピアノコンクールで優勝された…」 彼女の情報に間違いは一つもなくて、確かに俺は三年前の川崎国際で優勝した。第10回にして初めて日本人が優勝し、快挙として報道されたが、本選の演奏で引退すると決めていた俺は毎回優勝者が開催するリサイタルも開催せず、クラシックピアノの世界から姿を消した。いくら世界的に知名度のあるコンクールとはいえ二年以上も活動していなければ流石に名前なんて忘れられるものだと思っていた。 「…そうですけど…」 と答えると、彼女はぱあっと笑顔を咲かせて俺の手を取り、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。 「やっぱり!やっぱりそうですよね!?うわあどうしよう…!私、本選を川崎の会場で聴いてて…あなたの演奏を聞いてすごく感動したんです…!」 興奮した様子の彼女に俺はただ「あ、ありがとうございます…」と返すしかなかった。ピアノを辞めてからは仕事も上手くいかずに自殺まで考えた俺は彼女の輝く目を直視できなかった。 「でも、よく、覚えてますね…そんなこと」 「覚えてますよ!少なくとも日本のクラシックピアノ業界の人はみんな覚えてると思いますよ。川崎国際を最後に行方をくらました天才ピアニストだって」 「…は、はあ」 俺はそんな風に言われていたのか。栄光を無下にしてしまった自分が更に申し訳なくなってくる。 「あの…今度わたしリサイタルするんです。よければ観に来ていただけませんか…?貴方の演奏を何回も聴いてラカンパネラを練習したんです」 今の俺は敬われるような人間ではないのに、彼女の目はまさに憧れの人を前にしたきらきらした目で気遅れした。はじめは断ろうかと思ったが、彼女の目を見ると断る言葉が出なくなって結局承諾してしまった。
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