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IV
「美味しかったねー」
食事を終えてレストランから出ると、夜の帳が下りた街はすっかりと夜の肌寒さがあった。
タクシーに乗ってユキさんと結衣の家がある住宅街まで送ってもらい、家の前で二人が降りるのを車内で見ていると、ユキさんに腕を掴まれてタクシーから降ろされた。
「えっ」
「何してんの、ユキ」
結衣が怪訝な顔をしてユキさんを見ているのを気にも留めずに、彼は俺の腕に抱き付くとにこりと結衣に笑った。
「僕たち、これからうちで飲むから」
俺の肩にこてんと頭を預けて彼は言った。俺はそんなこと一言も聞いていない。しかし何となく断れない雰囲気があったので、何も言えなかった。
結衣はそんな俺たちをみて「あっそう」と鼻で笑った。
「じゃあ邪魔者は帰りますよーっと。先生ばいばい、また来週ね」
結衣はひらひらと手を振って家に帰っていった。あの子はまだ中学生なのに大人みたいにサバサバしているところがある。手を振り、俺たちは細いのにどこか逞しく見える彼女の背中を見送った。
「勝手にごめんな」
「いえ、全然。俺こそいいんですか?こんな時間にお邪魔して」
「うん。僕以外誰もいないし」
明かりの点いた豪邸が立ち並ぶ通りを歩き、数分すればユキさんの家についた。お手伝いさんはもう帰ったようで、大きな白い家は暗闇の中に佇んでいた。ユキさんは玄関の鍵を開け、中に入ると電気を点けた。電気に照らされた彼の頬は外の冷気で微かにピンク色に色付いていた。
玄関で靴を脱いで、リビングに上がるとユキさんに促されるままソファに腰掛けた。
「優くん、今日のピアニストの人と知り合いなの?」
冷蔵庫の中を物色しているユキさんがふと俺に尋ねた。
「何でですか?」
「話してるとこ見たから」
「ああ、いえ、知り合いというか……あちらが俺のことを知ってたみたいで」
「ふうん」
ユキさんは冷蔵庫からビールを取り出してきて、ローテーブルの上に置いた。
「綺麗な人だったよね」
彼は軽い調子で言った。その顔でも他人に綺麗だとか思うんだ…と思いながら、俺は「まあ、そうですね」と返事をする。
「優くんああいう感じの女の子がタイプでしょ。雰囲気があって、優しそうな綺麗な人」
彼は俺の横に腰掛けて、俺に向かって笑いかけた。彼の表情はどこかあどけなく、まるでクラスメイトとクラスの誰がタイプだとか誰がかわいいだとかを話しているみたいだった。くっついた肩と足からほんのりと彼の体温を感じた。
「わ、わかんないです」
俺は笑いながら視線を逸らした。
「何でわかんないんだよー!じゃあかわいい子か綺麗な子ならどっちが好き?」
彼は俺にずいっと顔を近づけて聞いた。鼻と鼻が触れ合いそうな近さに彫刻みたいな整った顔があって思わず仰反りそうになったが、彼の目をじっと見つめて答えた。
「かわいくて綺麗な子が好きです」
俺たちは弾けるように笑いあった。目を細めて口を大きく開いた彼は「何だよそれ」と笑う。
「どっちもはずるいよ」
周りに水滴が付いた缶ビールをぷしゅ、と開けると、二人同時にそれを喉に流し込んだ。微かな苦味と炭酸が渇いた喉に染み渡った。
「ユキさんは?どんな人がタイプとかあるんですか?」
答えはすぐに返ってこなかった。彼は膝の上に肘をついて、缶ビールを両手でつつみ、何かを考えている様子だ。何となく聞いただけなのに、彼の表情はあまりにも真剣で、ひょっとして聞かないほうがよかったか…と思っていると、考えこんでいた彼が口を開いた。
「ん〜、僕は好きなタイプとかない!優しい人だったらそれでいいの!」
あれだけ真剣に考えておいて答えはそれなのか、と俺は落胆した。
「ユキさんのほうがずるいですよ。なんですかその答え」
大きなため息を吐いて、ユキさんを睨んだ。彼は俺の視線にたじろぐと、見るからに焦りながら言葉を探す。
「えっだって…本当に……見た目とかあんまり気にしないもん」
必死にそう言う彼がなんだかおかしくて、俺はぷっと吹き出して喉の奥でくっくっと笑った。ユキさんも、そんな俺を見てきょとんとしたあと「なんだよ!」と笑い出した。
「優くん、今日泊まってく?」
一頻り笑ったあと、彼は夕飯のメニューを聞くような軽い口ぶりで言った。
「え」とだけ声を漏らしたあと、少し戸惑いと迷いがあり何も言えずにいる俺に、ユキさんは続ける。
「あれからちゃんと眠れた?」
微かに首を傾げて、心配した目で俺を見つめる。先週、添い寝カフェで偶然出会ってしまった時に最近あまり眠れないということを話したのを覚えていたようだ。添い寝カフェの日以来、寝付きは悪いが少しだけ眠れるようになった。それでもまだ、眠りは浅くすぐに目覚めてしまい、長い夜をどうにかして乗り越えるために心労が溜まっているのは相変わらずだった。
俺は返事に困って、「うーん…」と曖昧な返事を返した。
「あの時は眠れたんだよね」
そんな俺を見て、ユキさんは確認するように尋ねる。
「はい」
「じゃあ…今日も一緒に寝る?」
俺の顔を覗き込んだユキさんのくりくりした目と視線がかち合った。思いがけない提案に、「はっ?」と漏れそうになった声を咄嗟に飲み込み、俺は視線を逸らした。誤魔化すようにビールの残りを一気に飲み干す。
空になった缶を机に置いて、もう一度彼を見ると、彼はまだ俺を見て俺の返事を待っていた。
「あの……」
「うん?」
彼は首を傾げた。俺はくっと唇を噛み締め、意を決して口を開いた。
「……い、いいんですか」
彼は一瞬口元を緩ませて、「うん」と言った。綺麗な目が三日月型に細くなり、艶やかな黒髪がさらりと揺れた。俺が空になった缶ビールを飲むふりをすると、彼の声が「ふふ」と愉快に揺れた。
「今度、ピアス付けてきてよ」
彼が俺の耳にそっと触れて、そんな事を呟いた。耳から伝わる彼の手の温度で背筋がぞわぞわした。
「…何でですか」
「似合ってたから」
微笑む彼から視線を逸らして、彼の手をそっと払ってから「ありがとうございます」と呟いた。この人は海外暮らしでもしてたのかと思うくらい距離感が近くて困る。
「あの…」
「なに?」
「ユキさんって、女の子にもこういう感じなんですか」
俺の質問を聞いて彼はきょとんとした。わざとやっているのか無自覚でやっているのか知らないが、この距離感で女の子に接しているならそれはまずすぎる。無自覚ならさらに悪質。そのうち誰かに刺されかねない。そんなことを考えている俺をよそに、彼は口を開いた。
「いや?優くんが友達だからだよ」
彼はきょとんとした顔のまま言った。よかった、その顔でたらしだったら俺は痴情のもつれに巻き込まれる前に縁を切るところだった。
「あ、え、僕たち友達だよね?」
何も言わない俺に困惑したユキさんはあたふたしながらそう聞いた。
「はい、友達ですよ」
俺はふ、と軽く笑って言った。
「早くお風呂入っておいで」
と言ったユキさんの言葉に従い、俺は着替えを借りてシャワーを浴びた。綺麗に掃除された広い浴室にはジャグジー付きの大きな白い浴槽があった。やっぱりとんでもなくいい家だな、なんて考えながら、シャワーを浴び終わると浴室から出て、ふわふわしたバスタオルで身体を拭いた。彼が貸してくれたのはてろっとした素材の白いTシャツと黒いスラックス。パンツも借りる?と聞かれたが断った。身体を拭き終わってそれを身に付けると、ふわりとシャンプーの良い匂いの中にユキさんの匂いがした。添い寝カフェで会ったときは女の甘ったるい香水の匂いがしていたけど、それ以外の時は彼はいつもほのかにムスクの香りがする。俺はその匂いが好きだった。
バスタオルを頭の上に被って脱衣所を出ると、彼はソファに座りながらテレビを眺めていた。俺が「お先です」と言うと、彼はこちらを見てから立ち上がって、「テレビでも見てて」と言いながら着替えを手に取ると脱衣所に入っていった。一人になった俺は、ソファに座って言われた通りテレビを眺める。今の時間は午前二時。テレビでは知らない深夜ドラマが流れていた。ミステリーもので、今刑事が犯人を暴いているところだった。タイミング悪いところでユキさんをお風呂に行かせてしまったようだ。録画してあるよな…と考えながら、ぼんやりした頭で画面を眺めていた。
ユキさんはすぐに戻ってきた。
お風呂上がりで温まって節々は赤くなり、鼻先や頬は微かに色づいている。血色の良いピンク色の唇、濡れた黒髪。シルクの柔らかいシャツに、白のゆったりとしたズボンと上も下も白い服を着ていて、同じ色のタオルを被って脱衣所から出てきた彼の姿に俺は思わず息を呑んだ。顔はそろそろ見慣れてきてもいい頃なのに、新しい姿を見るたびにその容姿に新鮮に驚いてしまう。
そのあとは二人でドライヤーで髪を乾かし、リビングの電気を消して二階の寝室に向かった。裸足だからか、歩くとフローリングの冷たさが足に伝わった。
「俺、二階上がるの初めてです」
「え?ああそっか。使ってない部屋ばっかだけどね、二階は」
階段を登ってすぐのところにユキさんの寝室はあった。彼がドアを開けて電気をつけると、広々とした寝室がそこにはあった。あたたかいオレンジ色の照明と、大きな窓に真っ白なカーテンがかけられている。床にはペルシャ絨毯みたいな模様の絨毯が敷かれていて、上を歩くとそれが足音を吸収した。大きなベッドは枕からシーツまで全て綺麗に整えられていて、まるでホテルみたいだ。きっとお手伝いさんが毎日こうして綺麗にベッドメイキングをしているんだろう。ユキさんがよく馴染む綺麗な部屋だと思った。
「さ、早く寝よー」
ユキさんはさっさとベッドに入り、俺に入れと言うように掛け布団を捲った。俺はおずおずとベッドに入った。ベッドは程よく身体が沈み、枕は丁度良い硬さ。掛け布団に包まれると、太陽の匂いとともにユキさんのムスクの香りがした。「電気消すね」と彼が一言言って、部屋が薄暗くなった。
向かい合って横になっているから、薄暗闇の中でもユキさんの顔がよく見えた。
「前みたいに抱きしめたほうがいい?」
彼はいつもより低めの位置で響く声で、少し笑いながらそう聞いた。
「い、いいです」
俺が答えると、彼は「遠慮しなくてもいいのに」と言って俺の髪を撫で付け、それから俺の耳を撫でるように触った。俺は自分の鼓動が少し早くなったことに気づき、とまどった。相手は友達だし、ましては男だし。知らないうちに現れた俺の胸の中に渦巻く奇妙な感情を、俺はまだ知らないふりをしていた。相手がイケメンすぎるから、少し緊張しているだけだ。男相手にドキドキするなんて、ありえない。
ユキさんは俺の背中に手を回した。抱きしめるまではいかないが、何となく包まれているような心地になるとともに俺の鼓動は余計に早くなった。彼は俺の顔を見て微かに笑う。
「緊張してる?」
「…してない」
「そう?」
彼は俺に深く掛け布団をかけなおした。絶妙な距離感のなか、俺たちはお互いに見つめ合った。睫毛の長い彼の綺麗な目は暗闇の中でも良く見えた。
「おやすみ」
彼は顔を近づけて、呟いた。彼の声は夜の空気に低く溶けていく。俺は目を瞑り、彼の温かい体温の中で自分の意識の輪郭がだんだんとぼやけていくのを感じていた。
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