IV

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「優、お母さんね、結婚しようと思うの」 俺が家でピアノを弾いていると、母が部屋に入ってきた。俺がピアノを弾く手を止めると、母はそう言った。中学生だった俺は最近母に新しい恋人がいることを何となく察していたが、わざわざ干渉するようなことはしなかった。音大に行きたいという俺のために母が働きすぎているのは知っていたし、申し訳なく思っていた。結婚すれば経済的に余裕が出来るだろうし、母も幸せになれるだろう。 「そっか。おめでとう」 だから俺はそう言った。母は「ありがとう」と言って俺を抱きしめ、部屋から出て行った。 俺の父親はどうしようもないクソ野郎だった。大手企業に勤めていて稼ぎもあり、表ヅラは真面目なエリートだったが家では小さなことですぐ怒る人だった。あの人は怒ると手が出る。いつも殴られていたから、初めて殴られたのがいつかは覚えていない。あの人が帰ってくる時間が近付くにつれ、俺と母には緊張が走る。あの人の怒鳴り声を聞くと全身が強ばるのがわかった。やがて、母は「友達の家に泊まってくる」と言って夜に家を空けることが多くなった。あの人は、家に帰ってきて母がいないことに対しては何も言わなかった。二人は俺が知らないうちに離婚して、俺と母は家を出た。母はそれから身を粉にして働くようになった。いつか倒れるのではないかと心配している旨を伝えると、「優を音大に行かせてあげたいから」とだけ言った。俺が「お金ないならいいよ、音大は」と言っても、母は諦めることはなかった。 そんな時に出た母の再婚の話に反対する理由はなかった。 「優、今日からこの人がお父さんだよ」 「よろしくな、優」 最初の父親よりもその人は背が高くて若かった。人見知りの俺が見知らぬ人と生活するのはストレスが溜まったが、家に居る時はほとんどピアノの部屋に篭っているからあまり関わらずに済んだ。 しかし義父と母は結婚してから一年も経たずに喧嘩をよくするようになった。どうやら金の使い方と義父の女関係が問題だったらしい。俺は二人には干渉しなかったが、俺が大学二年の時に事件は起きた。 義父が俺の学費のための貯金を持って消えたのだ。 喧嘩の絶えなかった母を苦しめるためにそうしたのか、最初からそれが目的だったのかはわからない。義父との連絡は一切途絶え、俺は学費を払えなくなった。音大は実家の太さが全てというのはウソではない。 「先生、俺、川崎国際に出たら大学を辞めようと思います」 先生は止めなかった。学費を払える目処がなかったからだ。 「真壁くんみたいな才能のある人を失いたくなかったんだけどね」 と大学の先生は口々に言った。 大学を辞めてから、今までピアノしかやってこなかった俺を雇ってくれるところはなかなか見つからなかった。やっとのことで雇ってもらった職場の労働環境は最悪だったし、上司に理不尽に怒鳴られまくった。 ある日俺が家に帰ると、母が倒れていた。 慌てた俺は急いで救急車を呼んだが、心臓が止まっていた母は結局助からなかった。 医師から、母は目の病気で左目が見えなくなっていたと聞かされた。 目が病気になっていたのは知っていたが、母は「もうすぐ治るから大丈夫」と言っていた。 俺は母のことを何も知らなかった。 あんなに近くにいたのに、何も知らなかった。 目を覚ますと、見知らぬ天井が広がっていた。 あたたかな朝日が薄いレースのカーテン越しに差し込んでいる。 そうだ、昨日俺はユキさんの家に泊まったんだ。 ぼんやりとした頭のまま隣を見ると、ユキさんはいなかった。今は何時だろうかと思いながらゆっくり起き上がると、頬に生温いものが伝うのを感じた。 自分の頬に触れて初めて、俺が泣いていることに気が付いた。 「…最悪」 泣いていることに気付くと、余計に涙はぼろぼろと溢れ出す。これは以前から稀に起こる症状だった。自分の意思とは関係なく勝手に涙が落ちるのだ。 ユキさんの布団を汚さないようにとベッドから出て、窓際の壁に寄りかかった。窓の外からは綺麗な庭が見えた。青々と茂った木々が朝の白っぽい空気に包まれている。何回か深呼吸をして、心を落ち着かせると自然と涙は止まっていく。服もユキさんのものだったから袖で拭うことはできず、何度も何度も自分の手で涙を拭った。この歳にもなって泣くなんて恥ずかしすぎる。なんでよりにもよって今なんだ。 「……はあ…クソ…」 どのくらい経っただろうか。時間と共に涙は止まった。寝室にあった鏡で顔を何度も確認し、寝室から出ると一階のリビングへと下りた。 「おはようございます」 リビングではキッチンで洗い物をするお手伝いさんとソファに座っているユキさんが居た。朝に急に二階から結衣のピアノ講師が現れて、お手伝いさんは驚かないだろうかと思ったが、彼女は俺を見て「おはようございます」と微笑んだ。どうやら事情は既に聞いているようだ。 俺がソファに座ると、ユキさんは俺の顔を見て少し驚いた顔をしてから「おはよ」と言った。泣いていたのがバレたと思ったが、彼は何も言わなかった。 それからユキさんと一緒に朝食を食べた。誰かと一緒にきちんとした朝食を食べたのなんていつぶりだっただろう。 「今日は何するの?」 「昼からずっとバイトです」 「そっかあ」 彼はピザトーストを頬張りながらつまらなさそうな顔をした。 「ユキさん、仕事あるんじゃないですか」 と俺がお手伝いさんを気にしながら小声で聞いた。 「ん〜?ああ、あれは仕事…っていってもバイトだし……週に三日くらいしか出勤しないんだよ。ていうか、萩原(はぎわら)さんは全部しってるから小声じゃなくてもいいよ」 と言って彼はお手伝いさんを見て「ねー」と笑った。お手伝いさんは萩原さんというらしい。添い寝カフェであんなに神妙な面持ちをしていたから気を遣ったのに。 「ふうん…。じゃあ、今日は何するんですか」 「うーん、何しようかな…本読む」 「何の本?」 「ニーチェ」 「難しいのを読むんですね。実存主義でしたっけ」 「そうそう。読んでみたら面白いよ」 「へえ。今度貸してください」 彼と過ごす朝は穏やかだった。俺は泣いていたことも忘れて、あたたかい時間に心身を委ねていた。 ごちそうさまでしたと言ってダイニングから席を立ち、昨日着てきた服に着替えると、借りていた服は萩原さんの言われた通りの場所に置いた。 「着替え、ありがとうございました」 「んー」 「そろそろ帰ります」 コーヒーを飲んでいたユキさんは、俺がそう言うと立ち上がって「玄関まで送ってく」と言った。リビングの去り際に萩原さんにもお礼を言って、ユキさんと二人で玄関まで歩いた。 「優くん」 俺が靴を履くと、ユキさんが俺を呼び止めたので振り返る。彼は何も言わずに俺の頭に手を乗せて、くしゃくしゃと撫でた。俺がくすぐったそうな顔をして「何ですか」と言うと彼は短く笑った。 「大丈夫?」 「え?」 「……いや、何でもない。バイト頑張れよ」 彼はそっと手を引っ込めると優しく微笑んだ。きっと俺が泣いていたのを知ってて心配してるんだろうな。 俺は「ありがとうございます」と言って笑った。 ひらひらと手を振って、俺は彼の家をあとにした。 外に出て歩き出すと朝のさらさらした爽やかな空気が身を包んだ。もうじき冬の匂いがし始めそうだ。
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