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V
その日はひどい寒波が訪れていた。11月だというのに外は真冬並みの寒さで、俺はクローゼットから引っ張り出してきた黒いコートとマフラーを着て、電車に揺られていた。電車は混んでいるせいで寒くなかったが、駅でドアが開くたびに外の冷たい空気と車内の生温い空気が混ざり合った。
人々はもう冬の様相だった。俺は目的の駅で下車すると、コートのポケットに手を突っ込んで歩き始める。
こんなに寒い日にリサイタルなんて、ついてないな。寒さはピアニストの大敵なのに、と考えながら、俺は楽器屋さん併設のホールへと向かっていた。
今日は、以前ユキさんと結衣と一緒に行ったレストランで生演奏をしていたあの女性のピアニストのリサイタルの日だった。あの後連絡先を交換して、メッセージで直接リサイタルの詳細が送られてきた。
彼女の名前は綾知 澪というらしい。俺より一歳年下で、音楽大学の四年生。この音大は俺が大学でお世話になった教授の出身校なのでよく知っていた。音大生でリサイタルなんて、相当上手くないとさせてもらえない。確かに結構上手かったもんな…と以前の記憶を思い出しながら歩いていると、目的地にはすぐに着いた。
此処は一階と二階は楽器屋さんになっていて、三階にホールがある。受付を済ませ、三階の小ホールへと向かうと既に開場していて、俺は空いていた後ろの方の席に座った。恐らくこのホールのキャパは二百人程度だが、それなりに席は埋まっている。受付で貰ったチラシには彼女の経歴が書かれていた。国内のコンクールで一位や二位を獲ったり、国際コンクールでも入賞したりとなかなか煌びやかな経歴だった。
そんな風に時間を潰していれば、ホールの照明は落とされて客席は一瞬で静まり返る。舞台袖から、青いドレスを身に纏った綾知さんが出て来た。こうしてホールの客席から見るとやはり雰囲気があった。
彼女は熱い照明と拍手に包まれながら礼をすると、ピアノ椅子に座り、一度深呼吸をした。綺麗な黒髪が照明に照らされてつやつやと輝いていた。徐々に拍手が鎮まり、再びホールに静寂が訪れると、彼女は鍵盤の上に手を置いた。
リサイタルはプロコフィエフのピアノソナタ第二番から始まった。彼女は早いパッセージの激しい難曲から、穏やかなゆったりとした曲まで弾きこなしていた。コンサートとしてかなりクオリティが高い。本人の性格の良さや優しさが音から伝わってきた。若々しくキラキラしていて、音楽に対する情熱もあり、何よりピアノを愛している。柔らかい音が俺好みだった。
ピアノを弾く彼女は輝いていた。目の冴える青いドレスと黒髪が揺れ、客席は彼女に夢中になる。人を惹きつける不思議な魅力があった。
約二時間のリサイタルの最後の曲はパガニーニのラカンパネラだった。彼女が俺に聴いて欲しいと言った曲。俺が川崎国際で弾いた曲。俺が結衣に教えている曲。
彼女のラカンパネラは丁寧だった。相変わらず音はキラキラしていて、若々しい。俺の演奏を沢山聴いて練習したらしいが、俺とは違う良さがあると思った。ただ、ラカンパネラを弾いている時の彼女が一番楽しそうだった。
全ての曲目を終え、立ち上がって客席に深々と礼をした彼女は熱い拍手に包まれた。肌には汗が伝い、清々しい顔をしている。彼女がステージを去る時、一瞬目が合ったような気がしたが、きっと気のせいだ。
リサイタルが終わり、ロビーに出ると演奏会後独特の騒がしさに包まれていた。わざわざ招待してもらったんだし、挨拶ぐらいしていったほうがいいかとロビーのソファに座って綾知さんが出てくるのを待っていると、時折周囲の人々からチラチラと視線を感じた。
「あれ、真壁優じゃない?」
「え?」
「ほら、前回の川崎国際ピアノコンクールで優勝した……」
「うわ、ほんとだ!まだピアノやってたのか?辞めたって聞いたけど…」
「真壁優だ」
「え、嘘でしょ。本物?」
「うん、絶対そうだ。ほら見てよ」
「え、ガチじゃん。なんでこんな所に?」
全部丸聞こえだ。やはりクラシックピアノ業界の人間はまだ俺のことを覚えているらしい。誰も俺に寄り付かずに遠くでコソコソと話しているのが落ち着かなかった。溜息を吐いて頬杖をつき、目を閉じる。どうかそのまま誰も話しかけないでほしい。
と思っていたのも束の間、「あの……」と声をかけられた。瞼を持ち上げると、知らない若い女性二人組が居た。
「ま、真壁優さんですよね」
迷った末に、「はい」と答える。
「あの、私達ファンなんです!握手、してもらってもいいですか…?」
断ろうと思ったが握手するよりも断るほうが労力がかかりそうだったので、のそのそとソファから立ち上がると手を差し出した。途端に彼女らは俺の手を取って軽く振った。
「真壁さんのプロコフィエフの交響曲大好きです…!」
「……あ、ありがとうございます……」
帰りたい。彼女らは俺に好意的だが、この場にいる殆どの人間の俺に対するイメージはあまり良いものではない。名のある国際コンクールで優勝した途端業界から姿を消したのだから、当たり前だ。チラチラと向けられる視線で大体わかる。
握手し終わると、俺は軽く挨拶して逃げるようにロビーを後にした。やっぱりクラシック関係者が集まる場所なんて行くんじゃなかった。軽率だった。急いで階段で一階まで降りて、その建物を後にした。綾知さんへの挨拶はLINEでいい。
と俺が建物を出て早足で歩いていると、しばらくして誰かに腕を掴まれた。驚いて振り返ると、そこには青いドレスを身に纏ったままぜえぜえと息を切らしている綾知さんがいた。激しく肩を上下させながら、俺の顔を見ると乱れた髪を軽く整えだす。俺を追いかけてきたのだろうか。
「っはあ、はあ、っす、すいませ……っ」
今にも死にそうな感じだったが生憎水などは持っていない。
「だ、大丈夫ですか…?ゆ、ゆっくり、ゆっくり」
よくそのドレスと高いヒールの靴で走ってきたものだ。真っ青なドレスを着ている彼女は道でとてつもなく目立っていて、通行人は彼女を見たあとそのまま視線を俺に移動させていた。俺は彼女の息が整うのを待った。
「落ち着きました?」
暫くして、彼女の息が整ってきたのでそう訊くと、彼女は「はい」と答えた。
「本当に来てくださると思ってなくて……お礼が言いたくて」
と彼女は言った。
「お礼なんて、そんな。俺こそ良い演奏聴かせてもらって、お礼言わなきゃと思ってました」
俺が言うと、彼女は途端に顔を赤くして口をぱくぱくさせた。困惑している俺をよそに、彼女は突然その場にうずくまった。俺はぎょっとして咄嗟にしゃがみ込んだ。
「えっちょっと、あの…」
と言うと、彼女は瞳に涙を沢山溜めた顔を俺に向けた。彼女が瞬きをすると、それは粒になって頬を伝い、落ちた。
「はあ〜〜ッ…………嬉しすぎておかしくなりそうです……」
彼女は涙を拭う。この人の情緒はどうなっているんだ。青いドレスの美人が道端でうずくまりながら俺を見て号泣しているものだから、周囲の視線はさらに痛くなった。
「うう、ありがとうございます…本当に…」
彼女が涙を拭いながら立ち上がったので、俺も立ち上がる。
「そ、そんな、泣かないでください…」
「あの、よければ……この後一緒にお食事でもどうですか…?」
号泣したせいか顔の赤い彼女は、不安そうな顔で俺にそう聞いた。突然の誘いに「えっ」と声が出そうになるが、咄嗟に飲み込み、視線を逸らす。この後の予定は特になかった。俺は迷った末に、承諾した。
「じゃ、じゃあ少し待っててもらえますか…!?着替えと、あとお客さんに挨拶…すぐ、すぐ済ませるので!すいません!」
未だに落ち着かない様子の彼女はぺこぺこしながらホールに戻ろうとするので、俺はコートを脱いで彼女の肩にかけた。真冬並みの寒さだというのに、彼女はドレス姿でとてもこの寒さに耐えられる服装ではなくて、見ているこちらが寒くなる。彼女は心底驚いた顔で俺を見た。
「待ってますから、急がなくていいです。寒そうなので着ていってください」
彼女はしばらく俺の顔を見て固まって、その後小さい声で「あ、ありがとうございます…」と言ってホールに戻っていった。俺もゆっくりそのあとを歩き、ホールの前の階段に腰掛けて彼女を待った。
コートを貸したのはいいが、やはり寒かったので結局一階の楽器屋さんで待つことにした。並べられた沢山のピアノを眺め、弾いたことのないメーカーのピアノを店員さんに頼んで弾かせてもらった。
四十分ほど経って、彼女は階段から降りてきた。白いセーターに黒のスキニー、ヒール靴を履いて水色のコートを着た彼女は先程よりも落ち着いた印象がある。腕の中には俺の黒いコートがあった。彼女は俺を見ると、コツコツ足音を立てて近付いた。
「すいません……大変お待たせしました。コートも、ありがとうございました…」
と言って綺麗に畳まれたコートを差し出される。それを受け取って、頭を下げている彼女に「全然大丈夫ですよ」と声をかけた。
「あ、あの」
頭を上げた彼女が何か言いたげだったので、「何ですか?」と尋ねる。
「私、真壁さんよりも歳下なので…敬語じゃなくても大丈夫です。名前も、よかったら澪って呼んでください」
まだ二日しか会ったことのない相手に馴れ馴れしく話すのは気が引けたが、彼女が言うんだったらと「わかった」と了承した。
「ご飯、どこ行く?」
「私、近くで良いところ知ってます!イタリアンなんですけど…そこでもいいですか?」
「うん」
コートを羽織って、店の外に出ると刺すような冷たさが身体をつつみ、思わず身震いする。コートのポケットに手を突っ込み、彼女の横を歩いた。
「さ、寒いですね……」
澪は手を擦り合わせながら白い息を吐いた。
「真冬日だって言ってた。リサイタルの日にこの寒さは災難だったな」
「はい、本番直前まで手袋が手放せませんでした」
と彼女は笑った。赤い唇が綺麗な孤を描いた。寒さで手が悴むと思い通りに動かなくなるため、ピアニストは冬は本番直前まで手袋をして手を温めるのが普通だ。
今日の演奏について話していれば、あっという間に店に着いた。小さい店だったが、外にブラックボードの手書きのメニュー表が立てられていて、雰囲気も良かった。店内は落ち着いた様子で、俺たちは店の奥の二人席に案内される。席数は少なく、俺たちの他には一組カップルが居るだけだった。
程よい値段のメニューを眺め、前栽からデザートまでまとまったコースを選んだ。彼女も同じコースを注文し、直ぐに前菜のカプレーゼが運ばれてきた。トマトの赤とチーズの白、バジルの緑がきれいだ。
いただきます、と言って口に運ぶと、トマトの酸味の中でモッツァレラチーズがとろけて美味しい。
「ん、美味しい」
「美味しいですよね。お口に合って良かった」
と彼女は穏やかに微笑んだ。俺を追いかけてきた時の彼女は落ち着きがなかったが、今の彼女は落ち着いていて整った外見そのままの感じだ。
「真壁さんは普段は何されてるんですか?」
一瞬言葉に迷った。けれど彼女は俺がピアノを辞めたことも知っているし、嘘をつく必要もなかった。
「いつもは一日中バイトして、週一回ピアノを教えにいってる」
「ピアノ教えていらっしゃるんですか?」
彼女が驚いた顔で訊いた。
「ああ。中学生の家に土曜日に教えに行ってる。コンクール前なのに前の先生だったピアニストがウィーンに行くことになって、その代わりに」
「へえ…。真壁さんに直接教えてもらえるなんて、羨ましいです。その子の名前は何ていうんですか?もしかしたら知ってるかも」
「浪川結衣」
彼女は記憶を辿るように宙を見て、しばらく黙った。
「すみません、知りませんでした…」
とはにかんで笑った。「これから注目させていただきます!」と元気よく言う。
彼女は美人だが飾っていなくて、素朴で表情豊かな人だった。ドレスを着てピアノを弾く姿は洗練されていて大人っぽい雰囲気があるが、話してみると普通の女の子だ。
俺たちは二人で食事を楽しみながら話した。俺は喋るのが得意なほうではないが、彼女がずっと話してくれるので気が楽だった。
二人でワインを飲み、気付けばかなり時間が経っていた。デザートも食べ終わったので、そろそろ帰ろうかという話になると、彼女が「私が奢りますね」と言ったので咄嗟に止めた。貧乏だけど女の子に奢ってもらうのは流石にプライドが許さない。俺たちはお互い譲らなかった。
「私が誘ったんだから私が奢ります!」
「いや、俺が奢る」
「いえ、私が!」
最終的に、割り勘することになった。
「美味しかったですね!」
「ああ」
ワインで少し身体が暖かくなって、寒い外の空気が気持ち良かった。彼女の家も、俺が向かう駅も方向が同じだというので暫く一緒に歩いた。
駅に着き、改札の前で立ち止まる。
「今日はありがとう」
「こちらこそ!本当に、色々ありがとうございました。また連絡します」
「ああ。じゃあな」
ぺこぺこしながら手を振る彼女に俺も手を振り、改札にICカードをタッチしてホームへと降りていった。
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