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第2章
三十分ほど前。
「山田さん、病院に行くって、何かご病気でもされてるの?」
「もう八十も越えれば身体の色んなところにガタが来るわよ。けどね、病院の先生がイケメンだから通院は楽しみよ」
うふふ、と山田タエは少女のように笑った。これくらいの軽口が言えるぐらいなので、体調に深刻な問題はないのだろう。
静はため息をついた。
「はあ、気をつけてよ、山田さん。それと家の鍵はちゃんと閉めてよ」
「わかったわ、もう行くわね。病院の時間も迫ってきてるわ」
交番の来所者である山田は日傘を差し、再び八月の初め、茹だるような暑さの中、外へ出て行った。
山田と入れ替わるようにして、交番のバックヤードから相勤者の坂元が顔を出す。
「ん? 誰か来てた?」
「二丁目の山田さん、また家の鍵閉めずに出かけてたからさ、ちょっと注意してただけ」
「まあここ田舎だもんなあ、防犯意識も甘いしなあ」
そう言って、坂元は肩を竦めた。
そうだな、と返事をし、静は再びため息をつく。
そして開きっぱなしの交番の自動ドアを手で閉めようとした。最近自動ドアは壊れてしまい、開閉の『開』は反応するのに、『閉』の方は反応しない。山田は気づかずに出て行ってしまったのだ。
外からは蝉の大合唱が聞こえる。周りはのどかな田園風景で、遠くに病院の方へ歩いていく山田の小さな背中が見えた。足取りがおぼつかないように見え、少し心配になる。山田は八十代の高齢者だ。この暑さは堪えるだろう。しかし病院までのバスはまだ運行されていない。
何度会計課へ言っても、予算を理由に修理してくれないドアを閉め、静は書きかけの勤務日誌に再び取り掛かった。
ここ、神田山交番の管内は藤白警察署管内の中でも屈指の田舎である。そして事案が少ないことでも有名であった。
ほとんどが山と田畑。海もあり、自然豊かな地域で、交通事故も車両と動物とがぶつかって、という場合の方が多い。野生動物は強いので、大抵車の方がへしゃげている。
そして住民も高齢者が多い。わかりやすく過疎地域であるこの辺りは特にそうだ。周りも見知った者が多く、先ほどの山田のようにちょっと出掛けるくらいなら鍵どころか、窓も開けっぱなしだ。
再三、静や坂元が防犯講話やパトロール、地区の広報誌を通じて指導をしているものの、あまり効果があるとは言い難かった。
「今日の勤務っと……」
下手をすれば当直中、何もなく終わってしまう可能性が高い。
在所勤務の欄のところに、地理案内と付け足しておき、山田の来所のことを書こうとした時であった。
いつもつけっぱなしで、ラジオのように流していた無線から、緊張した指令が飛び込んできた。
『至急、至急、本部から藤白』
日誌を書きかけていた手を止める。そして急いで坂元を呼んだ。坂元は奥で事件書類を作成している。聞こえていないかもしれない。
「見分やってる場合じゃないぞ、至急報だ、坂元」
「聞こえてるよ、なんだろうね」
テーブルに置かれた増幅器の前に立ち、二人で首を傾げた。
通報自体珍しいのに、それに加えて至急報とは一体何が起きたのだろう。
静が春から一緒に勤務している坂元翔は今まで本部の生活安全部に属していたが、巡査部長に昇任し、任官で藤白署へやってきた。階級は静より一つ上だが、二人は同期である。
ちなみに最近、彼女と同棲を始めたらしい。
『神園町付近、ひったくり事案発生。被疑者は逃走中。被害者、怪我あり。救急車は指令室より手配済み。詳細判明次第、受理番号98番で送信予定。各局は藤白署管内神園町に進路取れ以上』
「神園町って神田山の管内だよな?」
坂元が静に確認した。まだここに来て四ヶ月の坂元は地理に疎い。
「ああ神園駅のとこだよ、行こう」
「なるほどね、飲み屋のとこだ。大体わかった、今日はおれがパト運転するわ」
「よろしく」
二人が出る準備をすると、現場へ急行した。
続報で明らかになったのは被疑者は二人組であること。一人は原付に乗って逃走したが、一人は乗り損ね、徒歩で逃げているらしい。
あとは男二人、身長何センチくらい、服装はだの、細かい情報が目撃者からもたらされる。
「被害者は通報してこないんだな」
「確かに」
坂元の呟きに助手席で静は首を傾げた。どうやら現場に被害者はいないらしい。もしかしたら徒歩で逃走したもう一人の被疑者を追いかけているのかもしれない。
現場は駅前の大通りだった。既に機動捜査隊が到着して、目撃者や通行人に事情聴取を行なっている。
「おれら、検索の方がいいな」
「そうだな……、坂元はパトで回ってくれ、俺は繁華街の方を歩いてみるよ」
「よろしく! 気をつけろよ!」
はいよ、と短く返事をして、静はパトカーの助手席から降りた。
「暑い……乗ってた方が良かったな」
しかし地理に不慣れな坂元を徒歩で行かせるわけにもいかない。パトカーにはカーナビがついているので、最悪道に迷ってもナビ通りに進めば迷子は回避できる。
まとわりつくような湿度と気温に顔を顰める。半袖の夏服の洗濯を忘れ、今日は長袖なのだが、そのことをいたく後悔した。
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