第3章

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第3章

 高卒採用枠で警察官となった静は警察学校卒業後、初め忙しい大規模署へと配属され、その次に藤白署へと配属された。現在、藤白署に来て三年目になる。  警察官六年目、今年で二十五歳。後輩は多数いるとは言え、まだまだ若いもの扱いされる年頃だ。  また静には捜査員の経験はない。地域課で、交番勤務と自ら班勤務を往復しているのだ。  刑事課や坂元がいた生活安全課、交通課、警備課、警務課と、内勤は色々あるものの、自分は巡回連絡をして地域の実態把握に努めたり、子供たちの登下校を見守ったりするような活動をする方が性に合っていると感じている。それに何より捜査よりもそちらの方が楽しかった。  (黒いTシャツ、ジーパン、男、痩せ型……やっぱりもういないな、きっと遠くに逃げてる)  発生時間から二十分ほどは経っている。正直微妙なラインだ。それに未だに被害者から通報がないことが妙に気にかかっていた。  まだ昼なので、飲み屋は軒並み閉まっている。通行人もそんなにいない。駅裏では大騒ぎになっているのに、呑気なものだ。  一通り歩き終わり、現場の方へ戻ろうとした時であった。 「離せって言ってんだよ!」 「離さないさ! 鞄を返してくれ!」  何かがぶちまけられる音と共に男性二人が言い争っている声が聞こえてきた。  静は瞬時に声と音がした方へ走る。  路地裏だ。ゴミ箱がぶちまけられ、放置されていた角材を黒いTシャツ、ジーパンの痩せ型の男が手に取っているのが見えた。  男の足元に、後ろから見ても上等なスーツを着た男性がこちらに背を向け、尻餅をついている。  男はスーツの男性に向かって、手に持った角材を振り上げる。何事か叫んでいるが、静には何を言っているのか、理解できない。  目の前で被害者が男に襲われていた。  そのことだけを理解すれば、警察官として、静は反射的に身体を動かすことができる。 「やめろ!」  左手で、無線機の緊急通報ボタンを押下しながら、右手で左腰から警棒を抜く。そして被害者を庇うようにして、男へ掴みかかった。  ピピピという無機質な電子音が無線機から流れた後、遅れて自分の怒号が無線機越しに聞こえた。  被疑者の男は静の登場に驚き、一瞬怯む。それを逃さず、手元に警棒で一発入れた。男が取り落とした角材を遠くへ蹴り捨てる。  警察学校時代、剣道、逮捕術の成績は良かった。つい昨日も本署の道場で、夏季集中術科訓練を行なった。  それに静はこういう粗暴な手合いの扱いには慣れている。  被疑者の男ともみ合いになり、かぶっていた活動帽がどこかへ飛んでいってしまった。  警察官が来た、ということで、被疑者はだいぶ動揺しているようだった。隙をつき、逃げられないよう、抑えているが、最後の力を振り絞って、何をしでかすかわからない。  静は男の膝を蹴り、相手の体勢を崩すと、一気に制圧した。 「暴れるな!」 「クソっ! 離せ!」  うつ伏せで制圧し、手首を背中に固定しながら、首元を膝で押さえる。しかし相手の息を止めるわけにはいかないので、相手の顔から目を離さず、具合が悪そうだったらすぐに力を緩められるよう調整する。 「確保、確保! 被害者もいる! 場所はアーケード街! 居酒屋さちの近く!」  ひとまず無線で状況を入れた。無線会話の作法を全て無視しているが、緊急通報ボタンが押下されているので、通信統制が敷かれているだろう。つまり静と本署以外は無線通話ができないということだ。  被疑者はクソッと悪態はついているが、抵抗する気はなさそうだった。静に見つかった時点で半ば諦めていたのかもしれない。 (そうだ、被害者の怪我!)  一報では被害者は怪我をしており、指令室から救急車を手配したと聞いている。  ひどい怪我をしているなら、最悪この男は後回しにして、被害者の救護を優先しなければならない。  静は振り向き、初めて被害者の方へ顔を向けた。  上等なスーツが汚れていた。革靴も大きく傷がつき、もう使い物にはならないだろう。  三十代半ばの男性だった。スーツと同じく気品が感じられる顔立ちで、はっきり言えば静の好みである。  しかしそんなことは瞬時に頭の隅に追いやり、呆然としている男性に静は尋ねる。 「怪我は⁉︎ 救急車なら駅前に来てる! 歩けるかっ⁉︎」  血は出ていないが、よく見れば顔に青あざができている。もしかしたらもみ合っている内に殴られたのかもしれない。  男性からは返事がなかった。しかし怯えている様子でもない。  ただ呆然と、これもまた品のいい形をした薄い唇を少し開け、静を見つめている。 「おい! 大丈夫か! 頭でも打ったのか‼︎ 怪我は!」  相変わらず返事をしない。焦ったくなった静が、おいっ、ともう一度大きな声で呼びかけようとした時、サイレンが聞こえ、応援の警察官が続々と集まってきた。    静が取り押さえた男はひったくり犯の一人だったが、被害者の鞄は所持していなかった。逃走したもう一人が持っているのだろう。  そして被害者が怪我をしていること等、さまざまな事柄を鑑み、臨場した刑事課員によって、男は強盗の現行犯で逮捕された。 「お疲れ、大丈夫だったか?」  一番最後に応援に来たのは坂元だった。呑気に歩いてやってくる。  静は飛んでいってしまった活動帽を拾い、被り直す。 「おせーよ、何してたんだ」 「お前の緊通聞いて、やばいと思ったんだけど、道に迷っちゃってて……」  申し訳なさそうに頭を掻いている。坂元らしいと言えば坂元らしい。それに坂本よりも近くに他の局がおり、すぐに応援に駆けつけてくれた。 「まあいいよ、近くに機捜とか刑事とかいたし。後でピザ奢れよ」 「それくらいで許してもらえるならありがたいわ」 「オレンジジュースの二リットルもつけろ」 「相変わらず綺麗な顔に似合わない子供舌だな」  『綺麗な顔』に反応し、静が坂元を睨みつけると、ごめんごめん、と言って、坂元はどこかへ行ってしまった。  そして、静は自分の頬に手で触れた。  顔のことを揶揄されるのがこの世で一番嫌いだ。  母子家庭であったので、父親は知らないが、美しい母とほぼ同じ容貌、さらに小顔で色白とくれば学生時代、散々いじられて過ごしてきた。なので、もうこの手の話題はうんざりしている。  この女顔のせいで、高校在学中はなめた態度を取られ続け、そんな奴らを拳で黙らせてきた過去もある。  警察学校へ入ってからも『静御前』とあだ名をつけられてしまい、あまりにも悔しくて、人一倍努力した。その結果、逮捕術大会で一番になったこともある。  坂元は本部自らの若い隊員と何か話していた。きっと静の地雷を踏み抜いてしまったので、しばらく近寄らないでおこうと思っているのだろう。  坂元から目を外し、静は、こんな田舎には場違いなほどの気品を漂わせていた被害者の男性を探した。  案の定、すぐに見つけた。今は所轄の刑事課員と話している。一見してひどい怪我はないように見えた。 (鞄は残念だけど、酷い怪我はしてないのは良かった)  静にはひとつ反省することがある。それは被害者の怪我の有無を確認することなく、被疑者の方へ行ってしまったことだ。  最悪、被疑者が逃げても今は防犯カメラの精査や鑑識活動などを通じて、検挙に至るケースが多い。  検挙より、被害者や怪我人の救護が最優先だ。  その当たり前のことができていなかった。  静は、自分が頭に血が上りやすいことを自覚している。なので努めて冷静に、と常日頃、荒れた現場であればあるほど言い聞かせていたが、今日の現場ではそれができていなかったのだ。  そういう反省をしながら、静が遠くから見つめていると、男性と目が合った。  やはり左頬に小さい青あざができている。痛そうだ。おそらく右手で殴られたのだろう。  男性は静に気がつくと、刑事課員との会話を中断し、こちらへ近づいてくる。静の前に立つと、優雅に微笑んだ。 (モデル……いや、王子様みたいだ)  身長は静よりも十センチ以上高いだろう。汚れているが、三揃いのグレースーツがよく似合っている。ダークブラウンの髪は後ろに撫でつけられているが、先程の騒ぎで一房、額にかかっており、それがやけにセクシーに映った。 「さっきは助けてくれてありがとう、君がいなかったら、僕はひどい怪我をしていただろう」  耳障りの良い低い声だ。気品は声色にも漂っている。  なんだか緊張してしまい、言葉がしどろもどろになってしまった。 「いえ……その顔の痣は……」 「ああこれはね、ひったくられた鞄を取り返そうとして、自分で転んだんだ。大したことはないよ、みっともないだろう。さっきの刑事さんにも自分で取り返そうとしないで、すぐに110番通報するように怒られちゃったんだ」  形の良い唇が緩く弧を描き、悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。  ひとまず殴られたわけではなさそうだ。そこは安心する。 「ご心配ありがとう」  そう言い、被害者の男性はいきなり静の右手をとり、ひざまづいた。 「えっ!」  何をしようとしているのかわからず、静は驚く。固まってしまい、手を振り払うこともできない。 「かっこいいお巡りさん、僕の名前は花村天嗣と言います」  ちゅ、と優しく右手の甲にキスが落とされる。  何をされたのか理解が追いつかず、思考も身体もフリーズする。 「君に一目惚れした。僕の恋人になってほしい」
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