第5章

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第5章

 最近は、すこぶる機嫌が悪い。  それもこれも、一週間前に合ったひったくり事案の時のせいだ。  警察とは狭い組織で、噂はすぐに広まり、なおかつ誇大して吹聴される。 「石川くん、被害者の王子様に一目惚れだーって告白された挙句、現場でキスされたんだって?」  噂好きで有名な警務課の女性係長にそう話しかけられた時は卒倒しそうになった。誤解を解くのにはかなり苦労した。  本署に着いた後、地域課長と副署長には指導されたものの、花村から苦情も来ていないらしい。特にペナルティもなく、普段通りに勤務している。  今は当直明けである。静が残務処理をしている時だ。  副署長の席は一階にあり、警務課と交通総務課のデスクを隔て、一番奥に設置されている。  副署長の席の前に立ち、静は強く言い放った。 「絶対に、嫌です」  静の返答に、副署長は、困ったなあ、と頭を掻いた。 「だがもう石川君が住んでいる官舎は耐震の設備を満たしていないから、人は住めないんだ。急に言われて、代わりの場所も確保出来なかったところを親切で提案してくれている訳だし」 「嫌です、あいつの家で世話になるぐらいなら交番に住みます、それか野宿した方がマシです」 「それは困るなあ」  静は今、県内でも屈指のオンボロ官舎に住んでいる。  どれぐらいオンボロかというと、二階建て全部で八室あって、人が住めるのは一階の103号室だけ。あとは畳が腐っていたり、風呂が壊れていたり、なんだかんだ理由がつけられ、使用できるのがそこだけなのだ。  取り壊しは決まっており、それは来年から、という話だった。それに向けて、静も住まい探しをしている途中である。  しかし建物が古い以前に耐震性や耐久性に問題が見つかった。それで明日にでも出て行け、と言われている。  もちろん新しい住まいなんか突然見つかるはずもない。  そこで花村天嗣が、花村本邸の一室を静に貸し与える、と言い出してきたらしい。  あの事案の後、静は花村天嗣について調べた。花村家は、元はこの辺り一帯の地主の一族で、今でもかなり裕福な家系だ。天嗣は花村本家の三男で医者であった。東京の大学病院に勤めていたが辞め、最近地元へ帰ってきたらしい。  そしてこの地方では一番大きい花村総合病院に勤めている。院長は兄の花村永嗣だ。  その花村本家一族が昔、住んでいた大豪邸が本署の近くに建てられている。今は天嗣一人がそこにいる。  一度、警らの際に見たことがあるが、白く高い壁が張り巡らされ、そこだけ城のように見えた。  あんなに広い敷地に建てられていて、今は天嗣一人だけ住んでいるのだから、そりゃあ部屋は有り余っているだろう。  だが、だからと言って、一緒に住むなんてとんでもない。 「俺、説明しましたよね? いきなりそいつに手を握られて、みんなの前で告白されたって。そんな奴と一緒になんか住めませんよ」  自分は至極真っ当なことを言っていると思う。  これでどうして、副署長が困った表情をするのか、理解できない。 「花村さん、助けてもらってから、石川くんのことを大層気に入ってるんだよ」 「警察官として当たり前の行動です、そこに私情を挟まれても困ります」  被疑者に襲われている被害者を助けただけだ。静にとっては、毎日のパトロールと同じくらい当たり前の行為だった。 「いや花村さんは心配してるんだよ? 命の恩人があんな危ないところに住んでいるなんてって。部屋も親切心から言ってくださっていることで……」  副署長はいきなり声のトーンを小さくする。 「今度、新車のパトカーを寄贈してくれるそうなんだよ、あと官舎の建て替えの時の費用ももう少し多くなるよう、お兄さんたちに働きかけてくれるって……」 「なっ……、そんなこと、俺には関係ないでしょう!」 「去年、パトカー水没させたのは石川くんでしょ?」  言いたいことはあるが、静は押さえた。  パトカーを水没させたのは事実だからだ。  去年の台風の時期、川が雨によって氾濫したため、静は住民の避難誘導を行なっていた。だが見立てよりも川の増水量は多く、危険と判断され、静にも退去指示が出たのだ。  しかしまだその区画には高齢者が多く取り残されていた。それを見捨て、帰署するという選択肢はなく、静はその指示を無視して、避難誘導に当たった。  その結果、高齢者の避難は完了したものの、静が使用していたミニパトが一台水没し、廃車となってしまった。  高齢者の避難はできたものの、指令を無視したこと、パトカーを廃車にしたこと、下手をすれば殉職事案に発展しかねないこのことは警察内部で大きく取り沙汰されてしまった。  それを庇ってくれたのが、今の副署長である。  副署長は静や坂元の元担任教官であった。可愛い教え子が身体を張って現場で戦ってくれたことを守るのは当然だ、と言ってくれた。  静は奥歯を噛み締める。激昂した静が花村に殴りかかろうとした今回のことも副署長は庇ってくれた。 (冷静になれ……、副署長の顔もある……)  花村はきっと強引な男なのだ。それに副署長は花村の機嫌をあまり損ねたくはない。そして、これで静が断れば、副署長の顔を潰すことにもなりかねない。  静は絞り出すように言った。 「……秋異動まで。それまでです。それまでは花村さんの家で世話になります」  秋異動は十月に発令されることが多い。あと二ヶ月もない。  その間だけ我慢すればいい。すぐに出て行ってやる。 「良かった、これが先方の連絡先。また自分たちでやり取りしてくれよ」  副署長から渡されたメモには花村の個人用携帯の電話番号が書かれている。 「……付き合っちゃえば? 花村さんなら大切にしてくれると思うよ」  副署長のつぶやきにかっとなり、頰に朱が差す。 「付き合いません!」  堪えきれなかった静はメモを引ったくるように奪い、足音を鳴らしながら立ち去った。
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