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由布子さんとの楽しい日々は、あっという間だった。
「あのね、サナちゃん。私、明後日にはここを出て行くのよ」
まるで、今度の日曜日にはクッキーを焼きましょう、っていうぐらいのいつもの笑顔で由布子さんから告げられたのは、同居して1ケ月後のことだった。
「……、何を言っているの? 由布子さん。出ていくって、どこに?」
「すぐご近所よ、ほら介護付きの老人ホームが出来たじゃない。この間、契約しちゃった」
「どうして? なんで相談してくれなかったの? もしかして、私がここに来ちゃったりしたから?」
「そんなわけないじゃない。最後にサナちゃんと一緒に暮らせて、私とっても楽しかったし、幸せだったのよ? ホームはね、前々から探していたの。それが見つかっただけのこと。それでね、サナちゃん」
スッと私の前に置かれたのはこの家の登記証。
「私には子供もいないでしょう? いつかサナちゃんが貰ってくれたらなあと思っていたの」
お願い、とギュッと私の手を重ねるように握りしめられて、由布子さんの温もりが遠くなってしまうことに気づき涙が零れた。
「泣かないで、サナちゃん。本当にすぐ近くなの、いつだって会えるわ、ね」
祖母よりも長く一緒にいたのだから、私にとって由布子さんは本当のおばあちゃんのような存在だった。
物心ついた時から、ずっと側にいた由布子さんと離れる日が来るなんて思ってもいなかった。
嫌だ、と頭を振ると止めどなく落ちる私の涙を由布子さんはハンカチで拭ってくれる。
小さな頃から、いつだってそう。泣きじゃくる私を、こうしていつも慰めてくれた。
私が出戻った日だって。
実家に戻るより先に、由布子さんの家に顔を出した私は、30を過ぎていたというのに大声で泣いた。
だって、おかえりと言ってくれた由布子さんの笑顔が、あまりに優しかったから。
『サナちゃんにも、きっとね、いつか王子様が現れるのよ。偽者の王子様じゃなくて、今度こそ本物の王子様が』
ああ、そうだ。あの時、由布子さんはそう言って慰めてくれたんだっけ。
いつか、王子様が、の口癖。
由布子さんらしい慰め方に、最後は泣き笑いしたんだ。
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