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「痛た……」
まだ殴られ顔が腫れていた恵。口の中も切っていた。
……ちょっと頭がぼおとする。
満身創痍の恵。それでもとぼとぼ坂を下っていた。お金は釣り客がくれた駄賃や釣った魚を売った金。そして冬子に投げつけられたお金も持っていた。
政と玲二からの給金はまだ受け取っていなかった。政に関してはおいてもらっている身。受け取るつもりは最初からなかった。
今はただ。亡くなった父親の墓参りをしたかった。優しかった父。いつも笑顔が絶えなかったあの頃。その匂いに触れたかった。
この短い髪。怪我をした顔。きっと娘とは誰も思わない。駅に行き、野宿でもいい。とにかくお墓に行くことだけを思っていた。
玲二を思ってやったこと。しかしそれは自分の気のせいで佐藤は良い人かもしれない。だが、あの書斎の出来事は恵には異様に見えた。
玲二に嫌われたままでも。彼の資料が残ればそれでいい。恵はそう思っていた。
部屋に広がっていた紙の資料。裏に鉛筆で番号を付け、一枚も無くさず、屋根裏部屋に同じ配置に置いたつもり。余計なこと、勝手なこと、使用人にあるまじきこと。しかし、玲二のために、恵は決行した。
暑さと傾斜の鋭い坂道。下るのも楽ではない。さらに蹴られた脇腹が痛んでいた。前にも蹴られて肋骨にヒビが入ったことがある恵。それに似た痛みを抱えていた。
男の子のふりをしている自分。病院にはいけない身であった。
「はあ。まだまだか」
長い坂道。バスでもよかったが。お金と節約と、京極に見つかることを恐れた。
足も痛んできた恵。明智平という開けた場所で脇に腰かけて休憩していた。すると車の音が聞こえてきた。
……ずいぶん、慌てている車だな。
その車はまっすぐ恵、目掛けて走ってきた。そして停めた車から彼が降りてきた。
「恵!」
「玲二さん?」
……怒っている。やっぱり私のした事は間違いだったんだわ。
駆け寄ってくる玲二。恵。まずいと思い逃げ出した。しかし、あっという間に捕まった。玲二は背後から恵の手を捕まえた。
「おお。恵」
「ごめんなさい!」
「恵。ああ、よかった」
玲二。恵を抱きしめた。彼は震えていた。恵は驚きで固まった。
「……恵。本当に助かった。それに、すまない、ひどい目に遭わせて」
「玲二さん。何か遭ったんですか?」
自分を見つめる恵。唇は切れて頬は腫れ、目の周りは青あざになっていた。なんと痛々しい顔。玲二は胸が張り裂けそうになった。
……なぜ。なぜ、守ってやれなかったのだ。
ここまでの傷。自分の資料を守ってせい。なのに出て行こうとした娘。玲二は恵を胸に抱きグッと目を瞑った。
「恵……本当にすまなかった。お前を信じられなくて」
「玲二さん……では、資料は大丈夫だったんですね?誰にも、取られなかったんですね」
「おお。恵」
まだ玲二の心配をしている恵。玲二は恵に頬寄せた。
「ああ……大丈夫だ。お前のおかげだよ」
「よかった。僕もほっとしました」
「恵?」
その頬、熱があった。玲二、急ぎ車に乗せ貸しボートに戻ってきた。
「ああ?見つかりましたか」
「よかった」
老夫婦の安堵の顔。中田は有田温泉から戻っていなかった。
「でも、熱があるので車で寝かせています。私は医学の資格もあります。別荘で看病させてください」
「それが良いですな。着替えを後で届けます」
こうしてイタリア別荘に戻った玲二。恵を抱き抱えて客間のベッドに寝かせた。息が苦しそうな娘。玲二は衣服を緩ませた。
……これは。顔を殴られたのか?肩にも古い火傷の跡がある……
娘の白い肌にある傷痕。玲二は思わず目を背けてしまいそうになった。帽子を外した短い髪。少し伸びて耳にかかるようになっていた。
服を脱がせて自分のシャツを着せた玲二。熱で苦しむ恵のそばにいた。
やがて。帰宅した中田。恵の着替えを持ってきていた。看病を代わるという中田を断り、玲二はずっとそばにいた。それは責任感ではない、離れたくなかった。
「う」
「恵。いかがした」
「……水」
「水か。待て」
玲二。口に含み、口移しで飲ませた。熱でうなされる恵。これを静かに飲んだ。
……よかった。薬もこれで飲ませよう。
玲二。この方法で恵に薬を飲ませた。一晩中。彼は恵のそばにいた。
「玲二さん」
「ん」
「玲二さん……重いです」
「おっと?」
ベッドに眠る恵。この上に覆い被さって寝ていた玲二。恵に言われて急に起きた。
「すまない?して、熱はどうだ」
「多分……大丈夫だと思います」
「どれどれ」
自分のおでこをくっつけて測る玲二。恵は恥ずかしくて目を瞑った。
「ん。下がったな。まあ、こんなもんだろう」
「もしかして。ずっといてくれたんですか」
朝日が入る東向きの客間。湖畔の朝。あくびの玲二はうなづいた。短い髪の恵はそっと体を起こした。
「すいません。僕のせいで」
「……恵。あのな」
玲二の白いシャツをブカブカに着ている短髪の女の子。玲二。彼女の小さな手を握り、自らの頬に当てた。
「当たり前だろう。お前は私にとって、大切な娘だ」
「玲二さん」
「頼むから。黙って行かないでくれ……お願いだ」
涙ぐむような訴える声。一晩中、看病してくれた彼の疲労の様子。恵も涙が溢れてきた。
「恵?」
「私……こんなに心配されたことがないです」
「おいで」
嗚咽のような涙声。玲二、抱きしめた。
「恵。私がいるぞ?……だから、そんなに泣くな」
優しい香り、温かい胸。恵はじっと目を瞑った。
「はい」
「約束だぞ?勝手にどこにも行くなよ」
小刻みに震える玲二。彼の愛の深さ。恵、今は素直に受け止めた。
ここで、部屋のドアがノックされた。
「……熱はどうですか……あ」
抱き合う二人を見た中田。玲二は抱いたまま恥ずかしそうに中田を見た。
「ああ。元気になった。怖い夢を見たようだ、な?」
「はい。すいませんでした」
恥ずかしそうに離れた恵。中田は笑顔を見せた。
「よかった!じゃ、俺が作った特製のお粥を食べてもらおうかな」
「なんだ、その色は。食べ物か?」
「ニンジンを大根おろしで擦ったんです」
「ふふふ」
真っ赤なお粥。玲二、眉を顰めた。
「恵。私が今から作るから。そっちにしなさい。これはやめておけ」
「そんな?」
「いいです。食べたいです。中田さん、ありがとう」
「恵君……君は天使だよ」
「恵!?くそ、俺も食べるか?」
笑顔の朝。避暑地の湖畔の別荘には朝日が入っていた。傷だらけの使用員。無愛想な大学の助教授。天然ボケの研究生の中田。
窓から入る爽やかな風。眩しい湖面の光は三人を優しく照らしていた。
十話『避暑地の出来事』完
第一章『誰もいない湖』完
第二章『うたかたの思い』へ
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