七 雨のボートハウス

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七 雨のボートハウス

「ああ、今日も雨ですか」 「何を言う。これで研究が進むじゃないか」 研究員の中田のつぶやき。玲二は微笑んだ。 七月上旬、日光中禅寺湖。植物の研究に来た桐嶋玲二。雨の日はこの別荘にて事務仕事をしていた。 東京から自分に送って置いた資料は山になっている。助教授の玲二。今までの大学での仕事では邪魔が入って研究が進まなかったが、ここには誰も来ない。玲二は初めてと言っていいほど夢中で資料を読んでいた。 晴れの日は。有田旅館の大旦那と山の中へ。雨の日は別荘で研究。晴耕雨読のこの暮らし。彼は大いに楽しんでいた。 「でも。先生。日光の仕事も進めないと」 「うるさい。お前は邪魔ばかりで、あ」 ここで。恵がボートでやってきた。テラスから玲二はそれを見た。 彼女はレインコートを脱ぐと。それを庭の木にかけた。そして入ってきた。 「こんにちは。玲二さん。お昼を作りにきました」 「待っていたぞ」 「ええ?先生。俺の話は邪魔って言ったのに」 恵の訪問を楽しみにしている玲二。彼女もまた雨の日はボートハウスの仕事がない。こうしてやってきていた。 「どうぞ。僕にお構いなく。お仕事をなさってください」 「ああ」 男装している恵。坊主頭の頭を帽子で隠している。今ではその帽子姿がしっくりしていた。元々涼しい面。どこか男か女か。若いのか子供なのか。中性的な顔立ちに見えていた。 ……長い髪の姿を見た事がないが……娘姿はどうであろうな。 「玲二さん?何か僕に御用ですか?」 「い、いや。別に」 つい彼女を見ていた玲二。まずは資料を見ていた。彼の研究は日本における毒草のまとめ。助教授として。論文にまとめ本を出版したいと思っていた。 中田はその助手。好奇心旺盛の若者。二人は資料を読み漁っていた。 そんな二人のために恵は食事を作っていた。 「玲二さん。中田さん、お昼ができました」 「先生。お昼です」 しかし。玲二は本を前に聞こえていなかった。 「ごめんね(けい)君。先生はこうなったら自分の世界で。聞こえないんですよ」 集中している玲二。呼んでも気が付かない。ここで恵。中田が声を掛けるのを制した。 「え?でも食事ができたのに」 「せっかく夢中になっているですから。そのままにしましょう。中田さんはお先にどうぞ」 「……そうするか。先に食べて仕事をするか」 恵は中田に先に食べさせた。やがて玲二。はっと気がついた。 「なんだ。できていたのか」 「先生、お先です」 食べ終えた中田は、もう資料に向かっていた。湖面が見えるダイニングに移動した玲二。不貞腐れた。 「呼んでくれればよかったのに」 ぶつぶつ文句の玲二。恵は食事を温め直した。 「そう仰らずに。玲二さん。どうぞ。スパゲッティです」 「おお。うまそうだ」 「ナスのボロネーゼです」 はい、と出した恵。玲二はテーブルにあったフォークで食べ出した。 「うまい。それにしても。君は料理が上手なんだな」 「お恥ずかしいです……家にいた時、仕入れの板前さんに、教わったんです」 恵がいたのは食材の店。買い物に来た客に調理方法を聞いていた恵。実家にいた時も作っていた。それを作っているだけであったが玲二は感心していた。 「これだって。東京のレストランで食べたら、すごい値段だぞ」 「褒めすぎですよ」 恥ずかしそうに頬染める恵。雨に日はこうして長時間いてくれる。玲二には癒しの時であった。 この日は恵は本当に仕事がないようで、食後もイタリア別荘の片付けをしていた。 「ああ、肩が凝った」 「お茶にしますか?」 「ああ。頼む」 中田は本の前でいつの間にか寝ていた。玲二はこれを無視してやった。梅雨の暗い日。つい眠くなる寒い日。恵は玲二に紅茶を淹れてくれた。 玲二はこのひとときが好きだった。 「うん。いい香りだ……この茶葉は」 「普通のですよ」 「でもうまい。何が違うんだ」 玲二の真顔。恵は微笑んだ。 「お水じゃないですか」 「そうか。なるほど」 「あのですね。玲二さん。お伺いしても良いですか」 突然の真顔。玲二は緊張した。 「なんだい」 「玲二さんは何の研究をされているんですか」 「ああ、これか」 本の下書き。玲二は説明をした。 「私はね。毒草の研究をしているのは知っているね。そのまとめだよ」 「まとめ。どんな毒か、ってことですか」 「ああ。知らずに口にする人がいるのでね」 玲二は例え話をした。 「そうだな。君は春に咲く水仙を知っているだろう」 「はい。綺麗ですから」 「あの水仙には毒があるんだが。春先、あの水仙の葉をニラと誤って食べてしまう人が毎年いるんだ」 「うわ……でも、似てますね確かに」 玲二の研究。内容を知り恵は面白くなっていた。 「では。玲二さんはこの毒の花は、こういう成分で、こういう危険がありますって研究するんですか」 「ああ」 「……そう、ですか」 そう言って資料をめくった恵。玲二はちょっとひっかかった。 「なんだ。どうした」 「いえ?別に」 ……気になるな。 恵はまだ十代の娘。その娘の意味深長な態度。玲二は抑えていたが、やっぱり尋ねた。 「気になる!言いなさい」 「え」 「君の意見を聞きたい。私の資料に何かあるのか」 「そ、そんなつもりじゃないんですけど」 大学の助教授の玲二。恵は彼の本気にびっくりした。 ……ちょっと話せば、気が済むかな…… 恵は率直な意見を言った。 「僕はその。昔の人が、その毒をどう使っていたのか、歴史に興味があるなって」 「歴史?」 「はい」 恵。彼にやさしく打ち明けた。 「全然関係ないですけど。クレオパトラはコブラに噛まれて死んだんですよね?なんか、そういう物語があると、面白いなって」 「クレオパトラ?」 「す、すいません」 玲二。固まった。恵、慌てた。 「すいません」 「いやいいんだ。そうだな、その毒草が出てくる逸話があると確かにいいな……なるほど」 お前の資料は面白くないと言われていた玲二。恵の言葉がヒントになった。 「玲二さん?」 「ここで……そうだ。この話を入れて、こっちを」 また仕事の火がついた玲二。恵はそっとして置いた。そして目覚めた中田も仕事を始めていた。 ……さて。お夕飯を作って帰ろう。 夢中な彼ら。これを微笑んだ恵。材料を煮込んでいた鍋を覗き込んだ。今夜はビーフシチュー。すでにできていた。あとは食べる時に温めるだけ。 ……あ?玲二さんのサラダを作らないと。 玲二は生野菜が好きである。恵はこれを知り、毎食出していた。 ……さすが。植物博士だな。 政の庭で育てた野菜。これのサラダを作った恵。仕事をしている彼らに何も言わず、外に出た。そしてレインコートを着てボートに乗った。 小雨の中。湖に出た。最近はすっかりこの移動に慣れていた。 日光中禅寺湖。火山の噴火でできたカルデラ湖。こんな山上に、こんな大きな湖があるのは誰もが驚く。 この湖。昔は魚がいなかった。そこで明治時代。ニジマスが入れられた。今ではこれが名産である。この中禅寺湖。東京の大使館員たちの別荘が並んでいる。 日本人には馴染みのない避暑地というもの。彼らはこの文化をもたらした。 夏になるとこの日光が外務省になると言われるほど、七月には大変賑やかになる。玲二はそれを知らず、今はここで研究を進めていた。 やがて気がつけばどっぷりの夜。中田はキッチンでビーフシチューを発見した。 「先生。僕が温めます」 「……しかし。少し寒くないか。あれ」 すでに。恵が暖炉に火を入れてくれていた。夜ともなると寒い。玲二は続けて薪をくべた。そして中田と二人で食事をした。 「うまい!この肉が柔らかいですね」 「……ああ。うまいな」 ……優しい味だ。 大学で勤務の彼。それなりに美味しいものを食べている。しかし。恵の料理は安らぎというか、癒しになっていた。 それに加えて。暖炉の火やベッドの支度。大変細やかな気遣いである。まだ幼さが残る彼女の想い。玲二は嬉しさと同時に哀れに思っていた。 ……まだ若いのに。ここまで思いつくとは。 大学で教鞭も取る玲二。学生たちもよく知っている。が、恵の熱心さに感心していた。 今宵も恵が洗濯したパジャマでベッドに入った。窓の外は湖に映る月。さざなみは子守唄。酸素が多い気がする新緑の空気。都会で疲れていた玲二。静かに優しく眠りについた。 ◇◇◇ 翌朝。貸しボート屋。恵は政と一緒に外を見ていた。 「今朝も雨ですか……」 「ああ、釣り客は来ないな」 この二人にお茶を出したナミ。じっと恵を見た。 「ねえ。(けい)ちゃん。たまには休みなさいよ」 時間がある時はイタリア別荘。ナミは恵が働きすぎだと心配していた。 「いいんですよ。京極屋にいた時はもっとですもの」 「いやいや。それなら尚更だ」 「そうだよ。今日は休み!ほら奥の部屋で。のんびりしてちょうだい」 あまりの心配。恵は貸しボートで過ごすことにした。イタリア別荘には政が顔を出した。 「おはようございます」 「あれ?政さんですか」 「恵は?」 玲二の心配顔。政は今日は休ませたと笑った。そして食事を置いて帰って行った。 「ですって」 「……まあいい。今日も資料を進めるぞ」 恵が来ない雨の日。玲二は仕事を進めていた。 「だめだ」 「先生?」 「ちょっと行ってくる」 「はい?」 玲二。車を飛ばし貸しボートの赤い屋根の小屋にやってきた。 「すまない。恵、いるか?」 「はい?玲二さんどうされたんですか」 客がいない店先。恵は帽子をかぶり出てきた。玲二。それを見つめた。 「玲二さん?」 「……あ。ああ。どうもな。頭が冴えなくてな」 ……きっと。行き詰まっているんだわ。 思い詰めた顔。資料を書いている時、よくこの顔になっている。この時に紅茶を出すと玲二がホッとすると恵は気がついていた。 でも。ここには紅茶はない。気が利いた部屋もない。恵はちょっと考えた。 「玲二さん。こっちにどうぞ」 「あ、ああ」 恵。そっと船着場に行った。そこにはクルーザーが停泊していた。恵はここに彼を案内し乗せた。 「これは?」 「点検で、政さんが預かっているんです。僕は掃除を担当で」 「へえ。豪華だな」 豪華な室内。近代的な船。恵はここで彼にコーヒーをご馳走した。 「たまにはいいでしょう?これインスタントですけど。結構美味しいですよ」 「……ああ、うまい。香りが高いな」 「玲二さん。お仕事いかがですか?もしかして、僕が余計なことを言ったから」 ……おっと?これはまずいぞ。 気にしている様子。玲二はカップを置いた。 「そうではない。君を見ていると、なんというか意欲が湧くんだ」 「そうなんですか」 「ああ。だから、気にするな。それよりも、その」 玲二はじっと彼女の頭を見た。恵は気がついた。 ……髪を気にしているんだ。やはり、僕のせいだ。 「僕の髪ですね。見ますか?ええと」 帽子に手をかけた恵。玲二は慌てて阻止した。 「いやいい!無理しなくていい」 「玲二さん。僕はそこまで気にしてないです」 「いやだめだ。女の子がそんなこと言っちゃいけないぞ」 帽子を外そうとする恵。玲二は必死にそれを抑えていた。 「うう……玲二さん」 「恵。あのな。やはり俺は見ない。君は平気かもしれないが」 ……そんなに気にしているとは。知らなかった。 玲二の心の重さを知った恵。帽子を取るのをやめた。 「わかりました。でもですね。今は五センチくらいです」 「まだかかるな」 一緒にいるのは髪が伸びるまで。その約束を思い出した恵。急に寂しくなった。彼はこの約束を守るため髪が伸びるのを待っている。恵はそう受け止めた。 「恵?」 「……いいえ。それよりも、コーヒーを飲んでください。ね?中田さんが待っているんですよね」 彼に促した恵。なぜか胸にぽっかり穴が空いた気がした。 それは弥生に髪を切られた時よりも、ズキンと痛みが来た。 やがて船を降りた二人。雨はまだ降っていた。 先を歩く大学の助教授。都会の男性。知性あふれる素敵な人。それに反して恵。髪なく金なく、親もなく。今更であるが、玲二が眩しかった。 ……早く髪を伸ばして。玲二さんを安心にさせてあげよう。それが、僕が唯一、玲二さんにできることだから。 中禅寺湖に雨が降る。それは冷たい雨だった。 『雨のボートハウス』完
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