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八 晴れた日
「今日は暑そうだな」
「先生。そうでもないですよ」
寝起きの玲二はそう言って湖を眺めながらあくびをした。晴れのこの日。彼は有田旅館の大旦那と山に行く日である。陛下の散策コースを設定する役目がある彼は、害となる毒草の確認をするのが目的だった。
このところ雨続きであったので久しぶりの調査である。少し億劫な気分の玲二は、すでに届いていたサンドイッチを食べながら、中田が運転する車に乗り込んだ。
「先生、忘れ物はないですか」
「ない。弁当は持ったから」
「それが一番肝心ですからね」
バッグには恵が作ってくれたおにぎり。水筒には紅茶。玲二はそれだけが楽しみで出かけていた。
そして二人は有田旅館にて大旦那を乗せ、現場へ向かっていた。日光の自然あふれる緑の道を中田が運転する車が駆け抜けていた。
「どうだい?先生、散策コースは決まりそうかい」
「はい。有田さんのおかげで。非常に助かっております。自分だけではどうにも行きませんでした」
「あはは。そうだろう」
当社は助言をもらうつもりであった玲二であるが、今はこの有田の案で進めていた。山の達人であり、歩くコースを熟知している彼は、幼い頃からここに住んでいる恩年八十三歳。しかも山草や毒草。他には蛇やクマにも詳しい。大学の助教授の玲二はまだ知らないこともたくさんあり、彼に現場の知恵を教えてもらっていた。
「お前さんたちは地図で決めようとしているが、いかんせん。そこを歩くのは人間だからな。地図には足元が泥なのか石なのか載っておらんじゃろう」
「おっしゃる通りです。傾斜や岩場なども関係ありますよね」
線は細いが熱心な玲二を有田老人は可愛がってくれた。地元の若い人も自然に無関心の昨今。玲二のような若い人が研究してくれる事に有田は嬉しさに目を細めていた。
有田が揺れる後部座席で玲二に尋ねた。
「ところで。先生は、イタリア別荘におるじゃろう」
「はい」
「どうだい、実際は?やはり立派か」
地元の人も入ったことがない別荘と話す有田に玲二は、説明した。
「はい。外国様式の調度品が見事で、あそこにいるだけで癒されますね」
「へえ」
「今度、有田さんもご招待しますよ」
「俺はいいや、そうか。立派か……」
老人はふと窓の外を見た。緑の木々が続いていた。
「いや何ね。先生達が来る前かな。京極屋で知っている娘さんが、あそこで住み込みで掃除をしていたもんだから、ついな」
……恵のことだ!有田さんは恵の事を知っているんだ。
突然、恵の話題が出てきたので、玲二は戸惑った。だが、確認しようと彼を向いた。
「その娘さんが、どうかしたのですか」
「消えた……いなくなっちまった。だから、心配なんだよ」
……これは、本当に心配しているんだな。
玲二の目には、有田は純粋に恵の事を案じているように見えた。実家では冷遇されていた恵。そんな彼女を他人でありながら心配している有田に、玲二は恵がいることを言うかどうかためらったが、有田の方が話を続けた。
「だがな。いないってことは。死んでないってことだ。だから、俺は又会えると信じているんだ」
「そうですよ。きっと元気ですよ……」
恵に聞かないと勝手に真実を告げられないと玲二は思った。こんな玲二の気休めであったが有田は満足そうに笑みを見せた。
「そうか?おっと、この道じゃねえか。行き過ぎだぞ」
「え?ここでしたっけ。中田、戻ろう」
「はい!って言うか、道なんかありましたっけ?」
中田のおとぼけで車内は笑い声になった。こうして三人は目的の場所にやってきた。
玲二がしていることは陛下の散策コースの選定である。植物に詳しい陛下が散策されるので、多くの植物が生育しているのが条件である。しかし、それに伴い毒草もある。
さらに険しい道や蛇は多いなど危険なものがあってはまずい。
これらを条件にした玲二と中田は、有田老人の案内を聞きながら、候補のコースを何通りか選定していた。
この日の調査の道は坂道である。実際に歩いた玲二は、上りはいいが、下りは危険と判断した。
そして昼になった。
「お。今日はおにぎりか」
「はい」
「わしもだ。ははは。でかいだろう」
玲二達は頭上の太陽を遮るために白樺の下の草原で弁当を広げた。元気な有田は妻を亡くし息子夫婦と暮らしている。釣りと山歩きが趣味という話は玲二には羨ましい暮らしだった。こうして仲良く食べている時、有田が話しかけてきた。
「時に先生は。独身か」
「はい。まだそんな身分ではないですよ」
「そうか?仕事をするには家庭を守ってくれる人が必要だろう」
老人は遠くの山を見つめた。
「だがな。出会いとはそんなにある物ではない。縁を大切にした方が良いぞ」
「はい」
……縁か。確かに。今までの俺は研究室にこもってばかりだったしな。
青い空、白い雲。太陽に照らされた土の匂い。夏の虫の声が賑やかだった。風は草の匂いで彼の汗を心地よく撫でくれた。
……ああ、俺も自然の一部なんだな。
弁当を食べ終えた玲二は、ゴロンと寝そべった。目を瞑り風の音を聞いた。
日光の夏は、玲二を再生させるかのように緑で包んでいた。
◇◇◇
……さて。今夜のお料理を作らないと。
イタリア別荘にて、恵はキッチンに立っていた。料理はできるが、身内以外に食事を作るのは初めてである。食材を前にした恵は、緊張していた。
……先生はきっと、東京で美味しいものを食べているから、ここにしかない食材が良いかな。
そう思った恵は彼らのために必死に工夫しながら調理をしていた。
この夜は和食にしようとしていた恵は、政の経由で京極屋にて購入した食材を使っていた。
……それにしても。私の事は探していないみたいね。
政の家に配達をしてくれていた京極屋の従業員は普段通りだったと政は話してくれた。もう自分を探していないことは、恵にとって安心する話だった。
連れ戻され家事をさせられるくらいなら、いっそ自分のことを忘れて欲しいくらいだった。
……よし! できたわ。こんな感じでどうかな。
完成したのは湯葉の料理。ホッとした恵は、玲二達が帰ってくれるまで椅子に座っていたがつい、うとうとしてしまった。
「ただいま」
「あれ。先生、恵君は?どこかな」
明かりがある。どこかにいるはず、と玲二がふと見ると、彼女はデッキチェアで眠っていた。
「そこにいたんですか? 今、僕が起こします」
「いや。疲れているんだろう。寝かせておきたい」
玲二はそういうと、まるで彼女を隠すように自分の上着をそっとかけた。
筋の通った小さな鼻。伏せたまつ毛。それは幼さを滲ませていた。
……なんと無邪気な。
寝顔は危険なほど女の子。玲二は中田に見せぬようにそっとしておいた。そして中田が料理を温めた料理を二人で食べ出した。
二人の声で目が覚めた恵は、申し訳なさそうに二人の前にやってきた。
「すみませんでした。お出迎えもせず」
「いいんだよ。勝手に食べているから」
「恵君。これ、うまいよ!美味しい」
「よかったです。他にもあるんですよ、お待ち下さいね」
……しまった。うっかり寝ちゃった。
恵はキッチンに戻り、慌ててまだ出ていないサラダを出した。玲二の好きなサラダ。トマトを乗せていた。
「どうぞ」
「いいんだよ。気にするな」
「あ?俺、このスープ美味しいんで、お代わりしてきます」
「僕がやりますよ」
「いいから、いいから。恵君は休んでくれよ」
中田はそう言って自分でキッチンに行ってしまった。広いテーブル。立っていた恵は何かしないといけないと思い、食べ終えた食器を片付けていた。
「恵。今日はな。収穫があったぞ」
「そうですか」
「ああ。毒草を探していたら、珍しい花を見つけたんだ」
「どんな花ですか」
「後で資料を見せてあげるよ」
嬉しそうな恵に玲二も嬉しくなった。
そもそも玲二は教員である。好奇心旺盛で若い恵に色んなことを教えてやりたいと、純粋に感じていた。
さらに恵は地元の娘。玲二は自分の仕事の感想を聞きたいこともあり、食後、書斎で二人で本を広げた。
ランプの灯火、イタリア様式の調度品の本棚の囲まれた世界は、まるで魔法の部屋のようで、二人は夢中で図鑑を広げていた。
「あった。この花だよ」
「……日本の固有種なんですね」
「ああ。最近は外来植物が多くてね。この花は少なくなっているんだ」
「僕。前から思っていたことがあるんですけど。玲二さん、聞いてくれますか」
「なにかな」
隣に立つ少女の質問に、大学の助教授の玲二はなんでもどうぞ、と肩を落とした。
「植物と。虫の関係です」
「おっと。ここに座りなさい」
「はい、失礼します」
素直に隣に座った恵は、玲二が持っていた図鑑の榎のページを開いた。
「これですね」
「榎か」
「はい。僕の実家の森に日本の国蝶のオオムラサキって蝶がいるんです。あの幼虫ってこの榎の葉を食べるんですよ」
「そうだね」
「『餌になる榎がないと、オオムラサキがいない』という考えが普通かもしれませんが。僕は反対なんじゃないかと思うんですよ」
玲二は肘を突き、じっと恵を見た。
「どういう意味だ」
少女の質問を聞くだけのつもりだった玲二は、この展開に思わず恵を集中目視した。恵は上手く話そうと、必死に言葉を探っていた。
「受粉とか、何かの関係で。植物と虫って一緒に生きているんですよね?だから、例えば、除草剤とか何かの理由でオオムラサキが死んだら、榎の木もそのうち枯れるんじゃないかなって……」
恥ずかしそうに語る恵に、玲二は腕を組み椅子に背もたれた。
「……つまり君は。植物が絶滅する理由の一つは、相手になる虫が絶滅しているため、と言うのか」
うん、と恵は頷いた。
「どうしてそんなことを言うかというと。玲二さんが今日、固有種の花を発見した森って。最近、久しぶりに養蜂をしている人がいるんですよ」
「養蜂」
蜜蜂は花から花へ蜜を集める際、花粉を運び受粉をしている。この蜜蜂のおかげで多くの植物が育っていると恵の話は意味していた。
「それで、榎のことを思い出しました」
「なるほど……君は、その虫のおかげで植物も復活したのではないか、と君は言うんだね」
真剣な顔の玲二に恵はちょっと言いすぎたと思った。
……先生は大学の人なのに。見当違いの事を言ってしまったかしら。
「すみません。先生、今の話は、どうか忘れ」
「恵!素晴らしい!……おお。なんて君はすごいんだ」
「え」
玲二は思わず恵を抱きしめた。驚く彼女をぎゅうと抱きしめて、頭をぐりぐり撫でた。
「面白い視点だ!そうか?では毒草もそうか?」
……わわ。ど、どうしよう。
玲二は男装の恵をどうしても男の子に感じていた。そんな彼女を玲二は構わず抱きしめてしまった。これは感動でそうさせているものであったが、恵の心臓はドキドキしていた。
恥ずかしそうな恵に気付ない玲二は、勢いのままその小さな頬を両手で包み、見つめた。
「では。恵!もしそうであれば、毒草の相手になる虫を無くせば」
「毒草も消えることになりますね」
「恵!おお……お前は素晴らしいよ!」
玲二は嬉しくて思わず頬を寄せてしまった。ぐりぐりされた恵は固まっていた。
「そうか!では、虫の研究だ、虫、虫」
玲二は興奮のまま、調べ物に突入した。彼に離された恵はドキドキの胸を押さえていたが、まだ加えることがあった。
「玲二さん。受粉するのは虫だけじゃないです。鳥とか両生類も」
「そうだった!恵。中田を呼んでくれ。こっちの研究が先だ!」
大興奮の玲二のために恵はすぐに中田を呼んだ。そして二人にお茶を淹れてから、彼らに静かに礼をし、月明かりの湖を舟で進み、貸しボートの家に帰ってきた。
「おかえり。遅かったね」
「心配かけてすみません。玲二さんの勉強を見学していました」
ナミは早く休めと言ってくれた。恵は感謝しながら狭い自室に入った。古い部屋であるが京極屋よりも安らぐ空間だった。小さな部屋の小さな窓からは、湖に月が浮かんで見えた。
……玲二さん。興奮していたな。
恵はずっと思っていた「虫と花の関係性」の仮説。今まで誰に言っても笑われていたが、彼に聞いてもらい満足だった。
……もっとお役に立てればいいけど、こんなことしかできないわ。
湖のさざなみ。これを聴きながら。恵は布団の上で膝を抱えた。月夜の窓辺、寂しかった一人ぼっちの恵。今は、明日の事を考える楽しみがあった。
足を入れた布団。被った恵は、枕を下に目を閉じた。その口元は笑みを讃えていた。
翌朝。イタリア別荘へ恵はボートでいつものようにやってきた。
「おはようございます」
「え。恵か?」
「……玲二さん。もしかして、寝てないんですか」
昨夜のままの彼に恵はびっくりした。玲二も自身も朝になっていることに驚いていた。
「そんなに時間が経っていたのか。中田は?……ああ、寝ている」
本に突っ伏して寝ている中田を見た玲二は、呆れて髪をかき上げた。
「玲二さんは。大丈夫ですか」
「……お前にそう言われると……ふわ」
玲二はあくびを出し、急に眠そうになった。恵は彼に駆け寄った。
「玲二さん?ここじゃだめですよ。ベッドに行きましょう。ほら」
「そうだな……」
眠くてふらふらの玲二を恵はなんとか肩を持って彼の寝床にやってきた。
「限界……」
「玲二さん。頑張って。ほらベッドですよ」
やっと横になった玲二を、恵は微調整をした。
「頭はもっと上です。枕がこれ、一瞬頭を上げて」
「無理」
「僕がやりますね、力を抜いて」
すっかり脱力の玲二は、恵に靴下も脱がせてもらった。朝の部屋を眩しそうに玲二は呟いた。
「恵……悪いが」
「大丈夫です。有田さんに『今日の予定を中止』って、政さんに電話してもらいます」
「ああ……恵」
「お昼に起こしますから。心配しないで」
恵が布団を彼の首元にかけた。彼は一瞬目を開けた。そしてその手を掴んだ。
……なぜだろう。こんなに愛らしいのは。
自分の必死に世話をする恵が、玲二は可愛くて仕方なかった。
「恵……」
「何ですか?」
「ふふ……スースー」
彼はどこかにやけたまま寝てしまった。
……なんだろう、でも。
気持ちよさそうな玲二を恵は見つめていた。しかし、用事を思い出し恵は、その手をそっと布団に入れてあげた。中田の背に毛布を掛けた恵は別荘を後にした。
朝の湖面に白いボートを浮かべた恵は、連絡するため急ぎ貸しボートに戻った。夏の始まりの湖。オールで漕ぐ恵が作り出す水紋は、彼らの熱い思いのように湖面に広がっていた。
第八話「晴れた日」完
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