九 檸檬な気持ち

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九 檸檬な気持ち

「玲二さん!起きて。今日は晴れですよ」 「ううう」 「中田さんはもう起きて、先に準備していますよ」 「あと少しだけ」 「だめです」 晴れの日。植物採集に行くはずの玲二はベッドから出られずにいた。先に起きた助手の中田は顔を洗い出かける支度をしている。朝食を持ってきた恵は中田の忙しさを見かねて、玲二を起こしていた。 ……昨夜も遅くまで研究をしたようだから、眠いのも仕方ないけど。 それでも玲二は出かけなくてはならないはず。恵は必死に彼を起こした。 「玲二さん。朝ごはんはいつものサンドイッチですよ?このままだと全部中田さんが食べてしまいますよ」 「起きる……ふわああ」 大学では美麗な紳士風の玲二。しかしここではうっすら髭も伸び、着なれた寝着でゆったりしていた。髪もボサボサの彼は涙であくびをしていた。そんな彼を起こした恵は、彼の背を押し、洗面所に連れてきた。 イタリア別荘の室内はどこも素敵である。こんな朝が弱い玲二でも、この大きな鏡の前ではシャキとしていた。水で顔を洗った玲二は、タオルで顔を拭った。 「恵……今朝は紅茶でなくてコーヒーにしてくれ」 「もうそうしてます」 「ああ……くそ!いい天気だな」 背を逃しながら玲二はダイニングにやってきた。そこでは助手の中田が食事を終え、片付けているところだった。 「先生。おはようございます。資料は僕が持ちますね」 「すまない。ええと……コーヒー」 まだ頭が働かない玲二に恵はそっとそばにカップを置いた。 「玲二さん。ミルクを入れましたよ」 「……ああ……そして。俺の食べるのは」 「ここです。ほら、はい」 まだ力が入らない玲二に。恵はその手にサンドイッチを持たせた。彼はむしゃむしゃと食べた。 「ん?これは……やけに辛子が効いているな」 「そうですか?」 すまし顔の恵を中田はクスクス笑い出した。これを見た玲二は目を細めた。 「もしかして。俺を起こそうと思って。辛くしたのか?」 「ふふふ」 「先生。いいじゃないですか。実際は目が覚めたんだから」 恵と中田に笑われた玲二は眉を潜めた。 「二人して……ま、いいか。トマトが美味かった……」 こうして玲二は支度し、中田と出かけていった。彼らが出かけた後、恵は貸しボートで働いていた。 「おい!俺の長靴がないぞ」 「すみません。今お持ちします」 釣り客は恵を男と思っているので結構手荒い。それでも京極屋にいる時よりは断然楽だった。 釣り客は遠くからやってきてこの釣り楽しみにしている。貴重な時間のため真剣になるのも当然である。釣り客は言葉は乱暴であるが、大量に釣れた時は恵に駄賃をくれたりすることもあった。 この貸しボートは釣り客や観光客である。地元の人は自分のボートを持っているので誰も来る事はない。実家から逃れ、姿を隠している恵にはもってこいの職業であった。 この日も仕事を片付けた恵は、午後、小舟でイタリア別荘に向かった。漕ぐオールは木製。これは恵専用に政が作ってくれた軽量の特製である。白いボートはまるで新緑に映える白樺のように恵に楽しさを与えてくれていた。湖に線を描きながら恵はスイスイ漕いでいた。 ……うわ……他の別荘に。どんどん人が来ているわ。もう夏ね。 ドイツ別荘に来た人は、湖上の小舟の恵に手を振っている。恵も社交辞令で手を振った。これは数件続いた。そしてイタリア別荘の船着場についた恵は、船をロープで留めコテージを歩いていた。その時、表玄関から声がした。 「すみません!郵便です」 「は、はい」 郵便屋を前に帽子を深く被った恵は、小包を受け取った。この時の郵便屋は知っている人物である。恵はさらに帽子を目深にして受け取った。 ……これは、玲二さん宛だ…… 誰からの荷物かどうか詮索するのは良くない。恵はそっとこれをテーブルに置いた。他に料理や掃除をし、風呂を沸かす支度をして恵は彼らの帰宅を待った。 その夜。恵は調査から帰宅した玲二に小包を渡した。するとその名前を見た玲二は急に眉を顰めた。 「玲二さん?」 「いや、なんでもない。さあ。君は早く帰りなさい。気をつけて」 「はい」 ……どうしたんだろう。怖い顔だったな。 小舟にランプを持った恵は、夜のボートに乗り貸しボートに帰っていった。 ◇◇◇ 「先生。どうしたんですか」 玲二の考え込む態度に中田は心配して尋ねた。玲二はため息混じりで小包を中田に見せた。 「……君はもう知っていると思うから。見てくれ」 「贈り物ですか」 送ってきた人物は玲二の婚約者である。さっと見た中田の目には夏のシャツと手紙が見えた。 「優しいですね。きっと先生を思って送ってきたんですよ」 「そんなもんかな」 中田の笑みに反して玲二は無感で小包を閉じた。その後、書斎に移動した玲二は手紙を読んだ。彼の健康を考慮するものや自分の近況報告、ただそれだけだった。 親の勧めの婚約者。悪いところはない。見た目も綺麗な良家の娘さんである。 この手紙とて、綺麗な文字、文面。妻にすれば自分は仕事に専念できるであろう。 玲二は次男である。親にはこの夏の研究が終わったら、結婚するように言われていた。他に好きな女もいないし。断る理由もない。 ……だが、なぜこんなに気持ちが進まないのだ。 彼は夜のコテージに出た。湖の夜。冷たい風。真っ暗で湖も空も山もその境界線は知れない。ただ暗かった。 今の自分がやりたいのは研究だった。この静かな環境、足で歩く植物採集。夜は彼を邪魔せず、論文作りに没頭する色にしていた。 湖の外れ。灯が見えるのは貸しボート屋。そこには彼女がいる。玲二はなぜかそこをじっと見ていた。 ……嫌?違う!そんなはずはない。 婚約者の手紙を喜べない玲二は、その理由を探すように星を見上げていた。無数の星は彼に何も言わずに瞬いているだけであった。 翌朝。恵がやってきた。この日は晴れであるが玲二の調査はすでに終わっていた。今はその情報を元に地図にしたり、資料にまとめる作業をしていた。玲二も中田も一日家にいる日である。 「恵君。これ、郵便に出してきてくれないかい」 「いいですよ」 ……う、重いな。ゆっくり運ぼう。 中田から書類を受け取った恵は、持って出かけようとした。しかし、重かった。 ……ああ?くそ。彼女は女なのに。 中田は恵が女だとは知らない。焦った玲二は中田に言葉をかけた。 「いや、中田。送るなら、この採取した植物も教授に送りたいんだ。お前、これと一緒に送って来い」 「僕がですか?」 「ああ。ちゃんと包んで、郵便に詳しく説明をしてこい」 そう言って玲二は中田に外出させた。そして静かになったと思った時、玄関のチャイムが鳴った。 「なんだ。忘れ物か」 「僕が出てきます……あ。ハロー」 その言葉を聞き、玲二は慌てて恵の後ろに立った。 「ハロー。コンニチハ」 「どうも。これは」 目の前の外国人に玲二は目を見開いた。彼らの隣には日本人がいた。 「初めまして。通訳です。こちらはドイツ大使の御一家です」 相手を見て玲二は片言のドイツ語で挨拶をした。彼らは隣にやってきたドイツ大使一家、この夏よろしく、と言うことだった。 その後も玲二がいるイタリア別荘には、フランス、ベルギーと大使たちの挨拶訪問が続いた。 「はあ。いつもこうなのか?」 「僕もここで過ごすのは初めてなので、わかりませんが、夏のここは日本の外務省と言われるそうですよ」 「そんな外国人が来るのか」 疲れて椅子にもたれた玲二に恵は冷たい飲み物を出した。 「レモネードです。どうぞ」 「……そうか。確か教授もそんなことを言っていたな」 恵のレモネードを飲んだ玲二は、ここでびっくりした顔をした。 「酸っぱいぞ」 「そんなにですか?」 ……絞りすぎたかな。作り直そう。 「すみませんでした」 「いいから、恵。飲んでごらん。ほら」 あまりの勧めに恵は玲二の飲みかけのレモネードを飲んでみた。 「……ん!酸っぱいです!」 「な?ははは」 「そうか?、果汁を搾って、水で割ってないかもです?」 「ははは。お前も失敗するんだな?ははは」 ……なんて優しい笑顔。玲二さん。 そこに中田が戻ってきた。恵は玲二と中田にレモネードを入れ直した。 仕事を終えた恵は、自室で夜、静かな湖の月を見上げていた。 ……あの時の玲二さんのすっぱい顔。ふふふ…… 優しい人。だが、それは自分の境遇に責任を感じているだけである。きっと誰にでも優しく、心が深い人だと恵は感じていた。 ……そうよ。玲二さんとは。髪が伸びるまでしか一緒にいられないのだから。 恋などと思い浮かべてはならない。ましてや東京の助教授の彼を思う事は、恵にはいけないことのように思っていた。 ……私は仕事でおそばにいるだけよ。履き違えてはいけないわ。 夏の湖、夜のさざなみ。誰もいない夜の霧。十六歳の沸いてくるような初めての想いを、恵は今夜も無理やり胸の奥に押し込めた。短い髪は伸びていたが、恵の辛さも伸びていた。 ◇◇◇ 「先生。手紙を書いているんですか」 「……まあな。返事くらい書かねばなるまい」 就寝前。玲二は婚約者に返事を書こうとしていた。しかし、万年筆の手は進まない。目の前の水は入ったグラスを見た彼は、恵がレモネードを飲んだ時の、すっぱい顔が浮かんでいた。 ……ふふ。可愛いものだ。 朝のサンドイッチや、疲れた時の紅茶。玲二は恵がくれる優しさを噛み締めていた。婚約者は贈り物をくれたが、一方的に想いをぶつけられたような気がし、彼の心は冷めていた。 婚約者へ返事が書けない玲二は、恵への気持ちをインクにして万年筆を動かした。 『心遣い、感謝。どうぞ、お元気で』 それだけ葉書に書き、彼は立ち上がった。 「悪いが後で出してきてくれ」 「え?先生。これだけですか?もっと、こう思いを」 「いいんだ。これで」 玲二はそうっと外に出た。目の前の湖は漆黒だった。 八「檸檬な気持ち」完
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