十 気分転換

1/1
3741人が本棚に入れています
本棚に追加
/51ページ

十 気分転換

「ふわああ?疲れた」 「まだまだこれからだぞ」 夏の午前中。資料を前にあくびの中田。これを玲二が戒めた。しかし、今朝の晴天、中田はそっと時計を見た。 「わかってますけど。先生。たまには息抜きしましょうよ」 「またか?」 「ふふふ」 「あ。恵君。それはどう言う意味かな?」 別荘にて掃除をしていた恵。男装の帽子とシャツとズボン。中田の話にクスクス笑っていた。 「すいません」 「中田。お前、息抜きばかりだから。笑われらたんだぞ」 「そんな?」 「あ、そろそろお茶にしませんか」 ……いけない。笑ってしまって。 そう言ってガラスの器を運ぶ恵。玲二は頬杖をついた。 「おい。恵。お前、誤魔化そうとしているだろう」 「そ、そんなことはありません」 「こいつ」 玲二。可愛い恵を思わず腕を取った。 「玲二さん?」 これは冗談。玲二は恵を隣に座らせた。 「ふふ、なあ、この資料を見てくれ」 「僕がですか」 恵が作った牛乳の寒天。これを食べている中田をよそに玲二は本の下書きを恵に見せた。 「君の意見を参考にした。毒草の効能の他に、これが出てくる逸話も含めたぞ」 難しい説明箇所もあるが、恵はそこは飛ばし、わかるところを読んだ。 「……面白いです。この毒の味って。玲二さんは試したんですか?」 「ああ。少しだけな」 恵。びっくりした顔で見つめた。 「玲二さんて、本当に先生なんですね」 「う!?ゴホゴホ」 「玲二さん!大丈夫ですか?」 大学の助教授の玲二の咳き込む様子。中田。笑った。 「あははは。あははは」 「中田は笑いすぎだ!くそ」 すっかり臍を曲げた玲二。恵の勧めで牛乳の寒天ゼリーを食べた。 「くそ。うまい」 「まだありますよ」 「くれ。中田にあげたくないから」 「そんな?先生」 笑顔が出たイタリア別荘の昼下がり。確かに資料は進んでいた。玲二も肩が凝りうーんと背伸びをした。これを恵は見ていた。 ……何日もずっと物書きで。目が疲れているんだわ。 中田もまた、かなり思考力が低下している様子。恵は心配していた。そこで昨日から思っていることを話した。 「お二人とも。もしよければ船を出しますか?湖の中心まではまだ行ってないですよね」 「ああ。確かに」 「俺!行きたいです」 夏の午後。日差しがあるが彼は船で出かけることにした。この日、恵が用意したのは政の手漕ぎボート。別に急ぎではない水遊び。恵は二人を乗せて進み出した。 「うわ……先生、見てください。すごい深いですよ」 「ここはカルデラ湖だ。深水は相当あるぞ」 「落ちたら大変だな」 怖がる中田。それでも気分が良くなったようで話をし出した。 「そういえば思い出したんですけど。俺、昨日、大学に事務連絡をした時に研究室の学生達が出たんですけど。彼らここに遊びに来たいって騒いでいましたよ」 「断れ」 「そう言いましたよ?でも、どうかな」 はあ、と玲二はため息をついた。恵は黙って船を漕いでいた。中田。恵を男と思い、話を始めた。 「なあ。恵君。ここには若い娘さんが集まるところってないのかい」 「わ、若い娘さん?」 突然の話。恵、思わず言葉が詰まった。 「ああ。出会いがないかなって」 「おい!中田、何を言い出すんだ」 恥ずかしい玲二。恵はそれでも微笑んだ。 「そうですね。湖のお祭りもあるし。湖の向こうの『菖蒲が浜』には海水浴場がありますよ」 「海水浴!?それだ!」 「中田。鎮まれ」 なんでも好奇心のある中田。菖蒲が浜の場所を必死に聞き出した。ここで恵。つかぬことを尋ねてみた。 「ところで。中田さんは、泳げるんですか」 「いいや?」 ここで心底呆れた玲二。目を伏せた。 「お前な。泳げもしないのに海水浴など。女性の前でみっともないところを見せてどうするんだ」 「だって先生。俺はですね。先生と違って。婚約者も恋人もいないから、なんでもしていかないとダメなんですよ」 ……婚約者。玲二さんにはそういう人がいるんだ。 短い髪の恵。なぜか胸がチリと傷んだ。 「おい!中田。なんて話を」 玲二が恥ずかしがっていると思った中田。続けた。 「恵君。聞いてくれよ。その婚約者さんはね。先生にプレゼントを送ってきたりしてさ。先生も恋文を書いて」 「中田!うるさい」 「先生。恥ずかしがらなくてもいいじゃないですか」 「そうじゃない!」 「危ないです!」 「え、うわ!」 ふざけている中田。体制を崩し湖にバシャーンと落ちてしまった。 「中田!おい」 「先生!助けて」 「……玲二さん。オールを持って」 「え」 恵。帽子を取り、上着を脱いだ。白い下着、その胸には晒しを巻いていた。そしてズボンも脱いだが、玲二はここで目を瞑った。それよりも初めて見た髪は短い頭。それに呆気を取られている間、恵は湖に入り泳いだ。 そして。溺れる!と慌てている中田を助け、船のヘリに掴まらせた。 「はあ、助かった」 「玲二さん。中田さんの服を引っ張って。せーの」」 「それ!中田!上がれ!」 「はあ、はあ……助かった」 やっと船に上がった中田。ずぶ濡れだが大丈夫だった。 「あれ。恵君は上がらないのかい」 「恵?」 濡れた身体。上がれば女性とわかると思った恵。浮き輪に捕まりながら立ち泳ぎをしながら、ここは首を横に振った。 「僕は、気持ちいいので、泳いで帰ります!お二人はどうぞ船でごゆっくり」 「え」 「おい、恵」 そして本当に岸に向かって泳ぎ始めた。その理由。玲二にはわかった。 ……女とわかってしまうからか。方向はボートハウスか。でも、かなり距離があるぞ。 正体が知れてしまう恵。距離としてはイタリア別荘が近いはず。あえて遠くのボートハウスを目指す様子だった。 「先生。恵君と競走しましょうよ」 「……お前がやれ」 「え」 そういうと。玲二は服を脱いだ。下半身は水着の彼、驚く中田をよそに湖に入った。 「ええ?先生も泳ぐっていうか。どうして水着を?」 「念のためだ!中田。お前は船で来い!」 泳ぎができる玲二。平泳ぎの恵を追いかけた。湖の水は冷たく。気持ちが良ったが、あまり長く入っていられない温度であった。 「恵!」 「玲二さん?どうして」 「大丈夫なのか」 追いついた玲二。水の中。動く恵の足は白く、その身は細かった。白い身体は水に揺れていた。 「ここは遊泳禁止ですよ」 「緊急事態だろ。それに、本当に大丈夫なのか」 じっと見つめる玲二。彼の濡れた髪の裸の姿。恵はドキとした。 「はい。休み、休みで行きます」 「無理するな……私がいるから。無理せず別荘まで一緒に泳ごう」 そう言うと玲二は背泳ぎに切り替えた。気持ちよさそうだった。 恵もまた泳げるようで、ゆったり平泳ぎをしていた。晒しを巻いている安心感からか。二人は楽しく泳いでいた。 「おい、恵。中田は見えるか?」 「まだあそこです……オールの使い方がわからないみたいで」 「放っておけ。面倒見きれん」 「ふふふ」 綺麗な湖。二人は泳いでいた。隣に浮かぶ恵も短い髪。玲二は初めて見た。 前髪が立ち五分刈りが少し伸びてきている程度であった。 「玲二さん。まだこんな短くて。すいません」 「謝ることはない」 「でも、僕のことは気にしないでくださいね。すぐ、伸びますから」 煌めく湖。浮かぶ少女。綺麗な肌で笑っていた。少年というか娘というか。両方の魅力がある短い髪は、美しく玲二はドキとした。 その顔。恵はまだ彼が心配しているのかと思った。 「玲二さん?僕は本当に」 「それ!」 玲二。ふざけて恵に水を掛けた。 「うわ」 「ははは。ほら、のんびりしていると、中田に追いつかれるぞ」 必死でオールをこぐ中田。恵と玲二は目を合わせた。そして必死に泳ぎ出した。 「恵!イタリア別荘まで泳ぐぞ。上がる時は俺がいる」 「はい」 こうして二人は泳いで帰ってきた。この様子。湖畔の大使館の異国人達が笑って手を振っていた。さすがに中田が先に着いていたボート。玲二は先に湖から上がり、恵の服を取り出し、彼女の肩にかけてやった。 「寒くないか」 「少し……でもすぐに暖かくなりますよ」 短い髪の女の子。なぜか愛おしい玲二。そっと肩を抱いた。 「ごめんよ!恵くん」 「いいんですよ?それよりも玲二さんにお風呂をお願いします」 「わかった!」 騒がしい中田が去った湖面、岸、さざなみ。足元の砂、背にした木々の影がふ濡れた二人を包んでいた。 ……こんな小さな肩とは。 優しい温もり。優しく抱く彼の手。しかし、恵は目と瞑った。 ……甘えちゃいけないわ。玲二さんには、婚約者が。それに、私は髪が伸びるまでの、約束だもの。 恵。彼から離れた。彼は驚いた顔をした。 「恵?」 「玲二さん。僕はこのボートハウスに帰ります。夕食に、また来ます」 濡れた髪。白い肌。滴る体の水。いつものハンチング帽を被った。そして笑顔で船で帰っていった。 その姿。水に濡れた玲二。その長い黒髪をかき上げながら切ない思いでボートが作る水紋を見ていた。 その日の夕食。食事は政が届けに来た。二人は心配したが、翌日も恵は顔を見せなかった。 「先生。もしかして、風邪でも引いたんでしょうか」 「うるさい!黙って仕事をしろ」 ……風邪か?熱か?それとも菌でも入って化膿したのか。 男二人。この日は一日ずっと悩んで過ごした。そして。翌朝。恵はやってきた。 「おはようございます」 「あ。恵君!心配していたんだよ?」 中田は彼女を抱きしめた。少年と思っている中田。本気で心配していた様子だった。 「あ、あの。その」 「中田!離せ!」 無理矢理引き剥がした玲二。恵を椅子に座らせ、理由を尋ねた。 「実はですね。湖は遊泳禁止なんですよ」 「そうだったな」 「もしかして。誰かに怒られたの?」 ううんと恵は首を横に振った。 「実は、あの時。遠くで学生さん達が許可を取って遠泳の練習をしていたらしいんですよ」 ここで。恵、クスクス笑い出した。 「ふふふ……あの時の、僕と玲二さんの泳ぎを見て……練習を見てくれないかって言いに頼みに来たんですよ」 「俺と恵を?」 「ふふふ。それを断るために、僕、ちょっと隠れてたんです」 恵。自分でおかしくてふふと笑った。思わず、玲二も中田も笑った。 「そうか。大変だったね」 「そんなにしつこかったのかい」 「はい。でもね。僕たち、そんなに、泳ぎは上手じゃなかったですよね?ふふふ」 恵の笑顔。玲二はホッとした。 「ああ。安心したら。腹が減った」 「俺もです。先生」 「もちろんです。ええとこれから作りますね」 恵。持ってきた食べ物を広げた。そしてキッチンに消えていった。その玲二の嬉しそうな顔。中田が見ていた。 「……先生、良かったですね」 つぶやく中田。玲二は澄ました。 「ふん!さあ。仕事だ」 元気になった玲二。中田も安堵した。暑い夏の到来の湖の湖は、今日も静かに揺れていた。 気分転換 完
/51ページ

最初のコメントを投稿しよう!