十一 素敵な紳士

1/1
3744人が本棚に入れています
本棚に追加
/51ページ

十一 素敵な紳士

「お母さん。お客さんよ!早く店に来て」 「はいはい。お待たせしました」 京極屋の店番。娘の弥生にやらせようと教えるが相変わらず母親頼り。この日も中年の女客の対応にパニック気味になっていた。 「弥生。いいこと?この値段をね」 「わかんないのよ。いいからお客さんが待っているんだからお母さんがやって!」 いつまで経っても覚える気がない娘。客の手前、この時も冬子が会計をした。お釣りを渡す様子を黙って見ている弥生。すると急に動き出した。 「どうしたの」 「お茶を出さなきゃ」 店にやってきた客は若い男。老婆の客には見向きしない弥生、母も呆れていた。 「いらっしゃいませ。どうぞ」 「ありがとう」 受け取った男。笑みを讃えて店内を見ていた。地域の者ではない都会の雰囲気の男。弥生は見惚れていた。 「たくさんお品があるのですね」 「はい。何をお探しですか」 彼はじっと弥生を見つめた。 「いやいや。どれもあなたのような素敵なものばかりで。目移りしますよ」 「そんな?」 美辞麗句に恥ずかしがる弥生。男性はそっと本を差し出した。 「それは私が書いた本です」 「まあ?あなたが?作家さんですか」 男。静かにうなづいた。 「今はこの近くの森にこもって執筆しているのです。では、このパンを買おうかな」 たった一つのお会計。弥生、母を呼ばず一人で対応した。 「お返しです」 そう言って手に返すと彼は軽く手を握ってきた。弥生の胸はドキとした。 「また、来るね……」 「はい」 パンだけ買って男は帰っていった。弥生、ハンサムな男。すっかり彼に夢中になってしまった。 この夜。早速彼の本を読んだ。詩集だった。恋の歌ばかり。まるで自分に向けられたようなロマンス詩。弥生の胸はすっかり熱くなっていた。 翌日。彼はやってきた。そしてまた一つだけ缶詰を買っていった。会計をした弥生、彼が来るのを楽しみにするようになった。 ◇◇◇ 夜。京極屋の母屋。 「あなた。弥生は最近、店で会計ができるようになったんですよ」 「本当か?」 「まだ少しですけどね」 娘の成長。両親は喜んでいた。恵がいなくなり店の売り上げが落ち込んでいたが、明るい出来事に蓮はほっとした顔を見せた。 「そう言えば。あなた、美江さん宛に封筒がきてましたよ」 「妹に?……神戸の法律事務所?なんだ」 恵の母親宛。しかし、美江は駆け落ちをして失踪中。それに神戸とは心当たりのない封筒。本人不在のため夫婦は開封した。そこには思いもよらない事が書いてあった。 「あなた、これは」 「ああこれによると、亡くなった健三さんの姉のようだな」 恵の両親。野々村健三と京極美江である。二人の結婚は野々村家に反対されたもの。そのため美江は彼亡き後、この実家である京極屋に恵を連れて出戻っていた。 健三は公務員であり、三男坊。実家は長男が継いでいると聞いていた。 「そうか。恵の祖父が亡くなったんだ。だから恵にも遺産があるようだ」 「あの娘に?でも。健三さんは亡くなっているのに」 驚きの二人。しかし文面では恵と連絡を取りたいとあった。 「どうします?あの娘はいないんですよ」 「美江も男と逃げてしまったしな」 慌てた二人。落ち着こうと居間の座敷に座り、気休めの酒を飲んだ。 「あなた。野々村さんちはどういうお家なんですか」 「土地持ちだと聞いているよ」 蓮。酒を飲んだ。 「健三さんは、この日光の出張所で美江を見初めて結婚したんだ。反対されたから挙式もこっちで簡単に済ませたしな。彼は三男坊だし、退職したらいずれここに戻り、うちの店を手伝うと言っていたんだ」 「健三さんに兄弟がいたのね」 「ああ。寡黙な男だったが、酒を飲んだ時、話していたことがある……お兄さんが二人、お姉さん、かな。妹さんもいたと思う。じゃ五兄弟か」 「それで、遺産を分けるんでしょうか」 冬子の声。蓮は首を捻った。 「いや。おそらく長男さんが受け継ぐだろうから。恵には相続放棄でもさせるんだろうよ」 「そうね。あんな娘にお金なんかくれるはずないでしょうね」 封筒には返事が欲しいと書いてあった。しかし美江も恵はいない。追い出してしまったのはとても言えない。考えた蓮。ひとまず保留にし、返事を書かなかった。 ◇◇◇ 「こんにちは」 「先生。いらっしゃいませ」 なぜか弥生しかいない時に来る小説家。酒や肉をたくさん選び、弥生がいる会計に持ってきた。 「あ」 「どうしたんですか」 「財布を忘れてしまった」 「まあ」 申し訳ない体裁の彼。弥生、支払いは明日で良いと自分から申し出た。 「いいのかい」 「はい。明日来てくださいね」 素敵な彼に会うのが楽しみな弥生。それが理由だった。 「それじゃ。悪いから」 小説家。腕時計を外し、そっと置いた。 「これは?」 「お金の代わりの人質さ。ごめんな」 高価な品の様子。弥生は彼を見送った。 この後、冬子は店にあった高価な酒が無いことに気がついた。 「ここにあった洋酒がないわ。弥生。お前知ってるかい」 「ああ。それ。先生が買ったのよ」 「でも。代金が合わないよ」 弥生。にっこりと腕時計を見せた。 「これがあるから。明日払いに来てくれるわ」 「……まあ。お前がそう言うなら」 本を出版している小説家。冬子もそう信じていた。 ◇◇◇ 「弥生ちゃん。ごめんな」 「先生。今日は財布を持ってきましたか?」 笑顔の弥生。しかし、彼は急に暗い顔になった。 「実はな。私の部屋に泥棒が入って。次の原稿料が入るまでお金が寂しいんだよ」 「まあ?それはお気の毒に」 彼は今度は真珠のネックレスを差し出した。 「これ。母さんの形見なんだ。悪いが金が入るまで、これで買い物させてもらえないだろうか」 「ネックレス」 大きな粒の真珠。大変高価に見えた。弥生は彼を助けるために母に内緒で食べ物を渡すようになった。高額なツケ。弥生は自分の小遣いで立て替えていた。 そんなある日。警察が店にやっていた。 「何があったんですか」 「最近。空き巣被害がありましてね。この店ではありませんか」 「まあ怖い?うちにはありませんよ」 冬子の対応。弥生も聞いていた。 ……恐ろしいわ。でも、うちには関係無いもの。 最近の小説家。店に来なくなっていた。多額のツケで恥ずかしいと話す彼は現在、締め切りに追われている。弥生は家族に内緒で彼に食べ物を届けていた。 この日も待ち合わせの場所にやってきた弥生。京極屋から離れた湖畔通りのスナックの看板の前。紙袋にはりんごとバナナ。そして自分で握ったおにぎりだった。 「あ。先生」 「弥生ちゃん。いつも悪いね」 眠そうな彼。笑顔で弥生の品を受け取った。 「先生。私が作ったおにぎりよ」 「そうかい?弥生ちゃんは料理が上手だからね」 渡した時、彼から酒の匂いがした。弥生は違和感があった。 「先生。小説を書いていたんじゃないの?」 「そうだよ。昨夜から徹夜でね」 「そ、そう」 この時。背後から足音がした。 「いたぞ!」 「突入だ」 弥生を突き飛ばした警官たち。小説家を取り押さえた。 「離せ!」 「……山本太郎だな。窃盗及び、婦女暴行の疑いで逮捕する」 手錠を嵌められる男の暴れ姿。弥生、呆然としていた。 「え。どう言うことなの」 「京極弥生だね。こっちで事情を聞かせてもらおうか」 怖い顔の刑事。弥生は何の事か分からず泣きそうになっていた。 刑事は彼が泥棒と説明をした。 「泥棒?とんでもない。あの人は小説家で」 「スナックにもツケがあってね。原稿料が入ったら、払うと言っていたぞ」 「え」 心当たりのある弥生。さらに刑事は続けた。 「あの男はツケの代わりに高級品を置いていっただろう」 「ええ。腕時計に真珠のネックレスを」 人質にと笑顔の彼を弥生は思い出していた。 「お袋さんの形見という奴だろう?それは全て盗品だ」 「そんな」 ショックの弥生。しかし警察は怖い顔で弥生を睨んだ。 「あんた。共謀して、盗む家を教えていたんじゃないか?」 「私が?違います!そんなことしてません」 のこのこ男のために食べ物を持ってきた娘。警察は疑っていた。 「とにかく。署で詳しく聞かせてもらおう。おい!連れていけ」 「いやよ。離して」 弥生。惨めな気持ちでパトカーに乗せられた。涙でぐちゃぐちゃの後部座席。走る車の中、ここで警官が教えてくれた。 「おい。あそこにテントが見えるか」 「はい」 浮浪者がいるような住まい。警官はじっと弥生を見た。 「あれがあの男の住まいだぞ」 「ええ?あれが」 湖の辺り。テントの外には彼に弥生がプレゼントしたシャツが干してあった。弥生の胸。虚しさと怒りでぐちゃぐちゃになっていた。 ◇◇◇ 「どうも。警察の者です」 「あ。巡回ご苦労様です」 イタリア別荘。留守番の恵。警官達に挨拶をした。 「いやあ?ここの先生の貴重な情報のおかげで。例の泥棒を逮捕できたよ」 「よかったです。どうぞ、先生はコテージにいます」 恵。湖畔のテラスにいた玲二の元に、警官二人を案内した。 「こちらです。玲二さん、警察の方です」 「あ、どうも」 「桐嶋先生。おかげで逮捕できましたよ」 「そうですか。まあ。お茶でもどうぞ」 玲二。目を細めてそっと思い出していた。 「最初はですね。あの男、この森で小説のネタを探していると言って来たんです。でも本は詩集でしょう?おかしいと思って、本の中の詩の意味を尋ねたら言えないし」 「ははは」 「さすが助教授です」 「いいや。実は最初に気がついたのはあの子なんですよ。な。恵」 お茶を運んできた恵。恥ずかしそうにした。 「玲二さん。それは言わない約束なのに」 「いいじゃないか。そもそもですね。小説家なのに指にペンだこもないし、酒の匂いもするし。なのに不釣り合いな高級な腕時計をしていたと、これが申していたのがきっかけです」 警官二人は会釈をしてお茶を飲んだ。 「君のおかげか?それにしても助かりました。あいつは商店で甘い言葉でツケで買い物をし、スナックでも酒をただで飲んでいたんです」 「若い娘で結婚の約束までしていたのも三名おりまして。全く、たくさん騙されましたよ」 ここで恵。小首を傾げた。 「しかし。なぜ。みなさん、騙されてしまったんでしょうね。僕にはわからないです」 警官は恵を少年と思い、ふと笑った。 「だってな。あの男はちょっと良い男だったろう?」 「君にはわからないだろうが。この辺りの娘さんたちはすっかり舞い上がっていたんだよ」 「……僕は、そう思いませんでしたけどね」 不思議そうな恵。警官二人と玲二は恵を笑った。そして警官は礼を言って帰っていった。 「なあ。恵」 「はい?」 玲二。夕日を前に恵に尋ねた。 「その小説家って。お前は素敵に見えなかったのか」 恵。目をパチクリさせた。 「ええ。玲二さんの方がずっと素敵ですよ」 「おっと」 「僕。あの男のどこが素敵なのか。今でも全然わからないです」 「恵、あのな」 恥ずかしそうな玲二。恵。悪戯に話し続けた。 「玲二さんの方が、優しくて、知的で」 「こら、やめなさい」 「ふふ。お料理が上手で、字も上手で」 「やめろと申しておるのに」 恥ずかしくて真っ赤の玲二。恵を背後から捕まえて抱きしめた。 「ふふふ」 「あのな。年上をからかっちゃいけないぞ」 「僕は嘘は言いません。玲二さんは、素敵ですもの」 「もういいよ」 玲二。笑って一緒に岸に立ち夕日を見た。彼女の頭の上に顎を乗せた。髪は帽子でわからないが、伸びてきているはずだった。 ……嬉しいのだろうな。伸びてきて。 髪の様子を知りたいが、知りたくない。抱いている彼女。このままの姿でいて欲しいと思うのはエゴとわかっている。玲二は夕日にため息をついた。 「玲二さん」 「なんだ」 「今夜は新メニューなんです。湖で獲れた色んな具材をもらったので、これの炊き込みご飯なんですけど、名前を考えて欲しいんです」 「そうだな……」 玲二。しばし考えた。 「『中禅寺湖の海賊飯』って言うのはどうだい?」 「うふふ。泥棒に海賊ですか。うん、それで!」 仲良しの二人。そこに遠くの湖面から声がした。船が近づいていた。 「おーい!そこの二人!俺のことを忘れてないですよね」 「いいからまっすぐ漕げ!お前、また右に曲がっているぞ」 「中田さんー!お風呂沸かしますね」 夕日の湖。夏の風、虫の音。森の香りの空気。今夜のイタリア別荘も楽しい声に包まれていた。 十話『素敵な紳士』完
/51ページ

最初のコメントを投稿しよう!