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学生達が押し寄せてきたイタリア別荘。当初は嫌がっていた玲二。しかし学生達の熱気に自身も楽しそうにしていた。
持参した食料でキャンプ気分の彼ら。連日、乗ってきた車で観光名所を巡っていた。
使用人の恵。これを邪魔しないように別荘の世話をしていた。
この日。恵は彼らの洗濯をしていた。屋敷中を歩き、洗う衣服を集めていた恵。二階に上がり玲二の寝室に入った。
「うわ!」
いたのは佐藤。何やら探し物をしていた。恵。思わず聞いた。
「佐藤さん?ここで何を?」
「……別に?ちょっと失くし物をしたから。探していただけさ」
……でも。布団を捲るなんて。
ベッドの下を触っていた佐藤。恵はつい言葉をかけた。
「ここは玲二さんの寝室ですよ」
「うるさい!」
「あ」
佐藤。恵を突き飛ばして部屋を出て行った。恵はあっけに取られていた。そして不思議に思いながらも洗濯を始めた。
「おい。お前。洗面台のタオルが濡れているぞ」
「すいません」
「こんな仕事じゃ。お前に給金をやれないぞ」
裕福な暮らしをしている学生達。恵を下に見て、こき使っていた。この態度、彼らにとっては普通なのであろう。恵は素直に謝った。
「申し訳ございません」
「本当はな、お前のような小僧なんて。先生と口を聞くのだっておこがましいんだぞ」
そう言って恵を肩を押した学生。尻餅をついた恵。その背後から中田はやってきた。
「おい。そこまでだ。恵君。こっちを手伝ってくれ」
「はい。中田さん」
呼び出して助けてくれた中田。二人で洗濯物を干そうと外へ連れ出してくれた。別荘の裏手の緑の庭。中田はカゴを持ってくれた。
「ごめんよ。あんな態度で」
「いいんですよ」
「みんな。君が羨ましいんだよ」
「僕がですか?」
中田。干し竿を前に恵が届かない高い場所に洗濯物を干し始めた。
「桐嶋先生はね。ここではあんな感じだけど。大学では気難しくて。学生達はなかなか話しかけられないのさ」
「そうなんですか」
この別荘の桐嶋。いつも寝癖の頭のうっすらの無精髭。いつも白いシャツと麻ズボン。お気に入りの下駄の足。恵には気さくな紳士である。
「俺は研究生だから。先生と付き合いが長いんだ。だから、みんな、先生と仲がいい、君にヤキモチを焼いているんだよ」
……そんなに仲は良くないと思うけど。
確かに優しい玲二。それは自分が年下だから。しかも自分は髪が短い女の子。これを憐れんでくれているのは知っている。仲良しに見えるのはそのせい。恵はそう言い聞かせていた。
「だからさ。もう少し辛抱しておくれよ」
「僕は平気です。心配かけてごめんなさい」
「いいんだよ。恵君。君はよくやっているよ」
いくら使用人といえど恵に対する学生達の態度。中田は憤りを持っていた。しかし、彼らは玲二の前では優等生。中田はとにかく、彼らが帰るのを待っていた。
そして干し終わった時、恵は気になっていたこと尋ねた。
「ところで。皆さんで明日はお出かけですか」
「ああ。先生がね。例の散策コースを学生達に実験で歩かせようって言っているんだ」
「散策コース」
玲二の仕事。それは陛下が植物観察する時の、森の中を歩くコース選びだった。有田老人と実際に歩き、さらに毒草なども確認済みなのは恵も聞いていた。
「そこを皆さんで歩くんですか」
「うん。コースは何通りもあってね。先生もどこが一番良いか絞られないんだよ」
「難しいんですね」
ふと別荘を見上げると玲二は学生達と窓辺で談笑していた。
……楽しそう。玲二さん。
恵。学生達の非礼について何も言わず、別荘を後にした。
◇◇◇
「そうか。学生さん達に散策コースを歩かせるのか」
「そう言ってました」
恵が戻った貸しボート屋、船の手入れをしていた政。ロープを握りながらふと湖の向こうの山を見つめた。
「良いのかね」
「え」
政はそう言いながらロープを引いた。
「陛下が歩くコースだ。それを人に教えて良いのかと思っただけだ」
シワの顔。タバコを咥えた政。恵はじっと見ていた。
「でも。先生の教え子さんは東京大学の学生さんだし」
「そうだな。まあ……世の中。悪い人がいるからな。わしの取り越し苦労だな」
そう言ってロープを柱に結ぶ背中。恵は胸騒ぎで見ていた。
……確かに。そうかもしれない。
陛下が歩くコース。恵は玲二の話は聞いていたが、どこか知ってはいけない怖い気がして詳細までは知らずにいた恵。政の言葉がどこか胸に刺さった。
その夜。恵の部屋に灯りがピカピカと飛び込んできた。
その光は二回『来い』というメッセージ。恵は了解の意味で五回の合図を送った。
……明日。散策コースに行くのだわ。おにぎりも作らないと。
玲二は一生懸命、仕事をしている。熱心な彼。恵は力になりたかった。この夜、早く寝た彼女、早起きをして貸しボートで朝食と昼飯用の握り飯を必死に作り別荘に運んだ。
「おはよう」
「おはようございます。玲二さん、早いですね」
キッチンに現れたのは玲二。眠そうにしていた。
「ふわ?眠い」
昨夜も遅くまで執筆していたのか。玲二は眠そうだった。湖畔は朝靄。窓辺のテラスに座る彼。恵は紅茶を出した。彼は足を組み恵に話し出した。
「恵。今日、私たちは、例の散策コースに行ってみようと思う」
「はい」
「一緒に歩いて。道の感想をあいつらに言わせよう思うんだ。それくらい役に立ってくれないとな」
学生達と楽しんでいる様子。長い足を組む玲二。恵もつい、微笑んだ。
「そうですね。一緒に歩いて貰えば、その、発見がありますよね」
……大丈夫よ。先生の学生さん達だもの。
政の言葉が引っかかる恵。思わず俯いていた。しかしこれを払拭しようとよし!と顔をあげた。すると、目の前に玲二の顔があった。
「うわ」
「何を悩んでおるのだ」
「いや?別に」
すると玲二。恵の鼻をぎゅうと掴んだ。
「ええ?」
「そうやって言葉を飲み込むのは癖か?私の前ではやめてもらいたい」
「そういうわけじゃ」
「ではどういうわけだ。はっきり言いなさい」
手を離し椅子に座り直した玲二。カップを持ち紅茶を飲んだ。恵。その背後で渋々打ち明けた。
「政さんが、その」
「その?」
……怒っている。でも、言わないともっと機嫌が悪いもの。
「陛下の歩くコースを……その、人に教えてもいいのかって、心配を」
「何?」
玲二。カップをソーサーに置いた。
「君は、私の生徒を疑うのか」
「いいえ?そんなつもりじゃ」
玲二はむすとした顔で、窓から朝の湖を見た。
「心配には及ばない。彼らは身元がしっかりした学生ばかりだ。余計なお世話だよ」
「すいません」
見たことがないくらい怖い顔。恵は思わず俯いた。
この時。背後から学生達が起きてきた音がした。玲二はこの後、恵に話をすることなく出かける支度をした。
慌ただしく出かけていく彼ら。玲二の車と彼らの車で出発。手を振って見送った恵。別荘の掃除の絶好の機会であった。
天気の良い日。恵はイタリア別荘の掃除を気を取り直して開始していた。この時。玄関にノック音がした。
「どなたですか」
「佐藤だ。開けろ」
「佐藤さん」
忘れ物であろうか。恵は慎重に開けた。彼はにこやかな顔で入ってきた。
「どうしたんですか?」
「体調が悪くてね。僕だけ先に帰ってきた。時間になったら先生達を迎えにいくから」
「そうですか。あ?今、ベッドの用意を」
干したり洗ったりしていた恵。ベッドは使えない様子。しかし佐藤は不要と言った。
「眠い訳ではない。せっかくだから、本でも読んでいるつもりだ」
「では。外のコテージにどうぞ」
室内は掃除中。恵は居心地の良い椅子を勧めた。佐藤は大人しく座った。小テーブルにお茶とケーキを出した恵。今度は室内に戻り掃除を再開した。
二階の寝室。窓を開けて掃除をしていた時。ふと眼下のコテージを見た。
……あれ?いない?
佐藤は椅子にいない。どこに行ったのであろう。洗濯物を取り込むついでに恵は彼を目で探した。
「あ」
「べ、別に。本を借りようとしただけだ」
なぜか玲二の書斎にいた佐藤。恵を見てそう言い訳をした。
「なんだよ。あっちに行けよ」
嫌な予感。恵は咄嗟に嘘をついた。
「僕はこれからここを掃除するんです」
「今日は必要ないと言っているんだ!」
「僕は玲二さんに。帰ってくるまで掃除をするように言われているんです」
「……勝手にしろ」
佐藤。不貞腐れて部屋を出て行った。恵は彼が見ていた資料を見た。
……これは。陛下の散策コースの地図。どうしてこれを見ていたのかしら。
佐藤の不可解な行動。恵は気味が悪くなっていた。そんな恵。この部屋を守るように掃除をしたが、まだ湖のコテージにいる佐藤が不気味だった。
判断を仰ぐ玲二もいない。しかし、胸がドキドキしていた。ここで恵。意を決して佐藤に食事を出した。
「こんにたくさん?」
「すいません。作りすぎてしまって」
「まあいいさ。いただこう」
たくさん食べさせた恵。案の定、彼は満腹なので昼寝をすると言い出した。起こす時間を恵に言い放つと、コテージのチェアで昼寝を始めた。恵、急いで玲二の書斎に向かった。
……ここにあるのは、玲二さんの、大切な書類ばかり。
玲二の寝室をこそこそしている佐藤。彼は玲二が最も信用している学生。そんな佐藤の不穏な動き。しかし、この話をしてもおそらく玲二は信じてくれないだろう。
……佐藤さんは。玲二さんの前では全然違うし。やるしかないわ。
重要な書類。玲二のために隠したい。しかし理由を説明している時間はない。
ここで恵。そばにあったえんぴつを持った。そして玲二の書類にそれで書き始めた。
◇◇◇
「佐藤さん。起きる時間ですよ」
「……もうこんな時間か。くそ」
佐藤。仲間を迎えに出かけて行った。恵は作戦を再開し、この夕刻、疲れて帰ってきた玲二を迎えた。
「玲二さん。ごめんなさい」
「なんだ、いきなり」
「僕。窓を開けて掃除をしていて」
書斎に連れ出した恵。玲二にそれを見せた。
「これは……どこに行った。机の上に、書類があったはずだ」
本はあるが。肝心の手書きの資料は消えていた。玲二は必死に部屋を探した。
「ごめんなさい!窓を開けたら。書類が湖に飛んでしまって」
「嘘だろ?」
「ごめんなさい」
謝る恵。信じられない玲二。この騒ぎ。中田や学生達もやってきた。
「どうしたんですか」
「中田。一緒に探してくれ。恵が湖に書類を飛ばしてしまったそうだ」
「ええ?」
ここで。恵は頭を下げた。
「ごめんなさい!僕、これから湖を探してきます」
「俺たちも行きます」
「俺も!」
「……いや無駄だ。水に濡れればインクが消えているさ」
玲二。疲れ切った顔で椅子に座った。
「恵。もういい。帰ってくれ」
「……本当に、すいませんでした」
「しばらく私の前に顔を出さないでくれ」
「はい」
彼を傷つけてしまった恵。部屋を出た。そして夕刻の船着場に来た。
「おい、お前」
「きゃ」
学生達。怒りの顔で恵を取り囲んだ。
「なんてことをしてくれたんだよ」
「先生はな。本を書いていて。あれはその下書きなんだよ」
「すいません」
「すいませんで終わらないんだよ!」
男達は乱暴に恵を突き飛ばした。倒れた恵。男達は足で次々と蹴り出した。恵は必死で腕で顔や頭を守っていた。
しかし蹴りは腹に入り、思わず吐いた。苦しむ恵。その服の襟を掴んだ学生。恵の顔を殴った。勢いで湖に落ちた恵。この音、中田が慌てて屋敷から飛び出してきた。
「おい!なんてことをするんだ!」
「これは制裁だ」
「こうでもしないとやりきれませんよ」
「先生の研究がなくなってしまったんですよ?」
本気でそう思っている男子学生。湖から這い上がる恵をただ見ていた。
「お前達、それでも日本男児か!おい、恵君!」
駆け寄る中田。学生達は白けた顔で別荘に戻っていった。中田は濡れた恵を抱き上げた。
「ああ。ひどい。傷がこんなに」
「……中田さん。僕のこの怪我は、玲二さんには言わないでください」
「恵君」
資料紛失の責任と受け取った中田。恵をひとまず貸しボート屋に帰した。痛む体。オールを漕ぐ悲しい背中。中田。胸が裂けそうになっていた。
この夜。玲二は書斎にこもり酒を飲んだ。
「あの資料は貴重だったのに。あの少年は価値をわかってないのですよ」
「……まあな」
佐藤。必死に玲二に囁いた。
「先生。どういう内容だったんですか?先生が話してくれたら、僕が資料にしますよ。それくらいやらせてください」
「すまないが。一人にしてくれないか」
寂しい言葉。佐藤もやっと退室した。玲二、何もない部屋で窓の外の夜の湖を見ていた。
この夏の努力が無駄。ただ虚しい思いであった。
……あれを学会に発表して、本にしようとして。
出世欲はないつもり。でも実現すれば教授も夢ではないと思っていた。玲二、二十六の夏の夜。無念の酒は苦かった。
翌朝。静かな朝。玲二は起きてこない。すっかり白けたわがまま学生達。東京に帰ると言い出した。
中田は帰り支度を手伝った。賑やかだった学生達。帰る時には流石に玲二が部屋から出てきた。
「気をつけてな」
「先生も。東京で待っています」
それぞれが別れの挨拶の中。佐藤はなぜか神妙な面持ちだった。
「先生……」
「佐藤か。お前も期待しているぞ」
帰るのが寂しいのか。佐藤は暗い顔をしていた。
「握手してくれませんか」
「いいぞ。気をつけて帰れよな」
「……先生も、ご健康で」
どこか影のある様子の佐藤。不思議に思いながらも玲二と中田は手を振った。彼らはこうして去っていった。見送った後、二人は疲れて朝まで寝てしまった。
翌朝。中田は居間で声を上げた。
「あ!先生。忘れ物ですよ」
「あんなに言ったのに?これは吉村の本か」
この本。どうやら教授から借りた本の様子。玲二は近況報告のための電話と、恵の様子を探るために貸しボート屋に中田とやってきた。
「おはようございます。誰もいないのか」
店番のナミも不在。この間、中田は電話を拝借し東京の教授へ電話をした。
「教授。中田です。桐嶋先生も一緒です。実は昨日まで薬学部の佐藤君達が遊びに来ていたんですよ」
『なんだって?佐藤。おい、そこに桐嶋がいるなら出してくれ』
緊迫した教授の声。中田は電話を代わった。
「教授。桐嶋です」
『ああ。桐嶋よ。お前のところの顔を出した佐藤は、佐藤弥一だな』
「はい。そうですけど」
教授。一旦、息を呑んだ。
『あやつは反政府組織の一員だ。警察から連絡を受けてこっちでも探しておったんだ』
「反政府組織……」
『桐嶋!お前、今の仕事。漏らさなかったか?私の資料もあれは盗んでいたんだ。おい、桐嶋』
ショックの桐嶋。電話を中田に返した。そこに、血相を変えたナミが奥からやってきた。
「あ?先生。ここにいたんですね。こ、これを読んで」
「手紙ですか?」
また電話をすると言い教授の電話を切った中田も一緒に手紙を覗き込んだ。
― 今まで大変おせわになりました。政さんとナミさんには、本当に感謝しかありません。これ以上、ここにいると迷惑をかけてしまいます。黙って出て行くことをお許しください 恵 ー
丁寧な文字だった。恵の思い。玲二はグッと目を瞑った。ナミは震える手で玲二に続けた。
「それと先生。先生にはこれが」
そこには玲二宛の手紙があった。
ー 玲二さんの資料は全部、屋根裏部屋にあります。勝手なことをしてごめんなさいー
「先生、これって。まさか恵君」
「もしかして。恵は……佐藤から……私の資料を守ろうとしたのか?」
ここで中田。泣きそうな顔で玲二を見た。
「先生……実は恵君は。佐藤達に殴られていて」
「殴られた?なぜそれを言わないのだ!」
中田の服の襟を掴んだ玲二。そこに政が船で戻ってきた。
「行き違いでしたね。すいません。先に屋根裏部屋を見てきました。綺麗に書類が並べてありましたよ」
政はそういうと屋根裏部屋の鍵を玲二に渡した。玲二、信じられないと目を瞑った。
「なんてことだ……」
政がくれた屋根裏部屋の鍵。この重さに震える玲二。政は寂しく話した。
「あの子は顔を殴られていたので、誰にやられたのか問いただしたんですが。夜で顔はみえなかったと良い張りまして。もしかして。酔った大使館の者かと思ってしまいました」
「政さん、それはうちの学生なんです!そして。恵は?どこに」
玲二の声。するとナミが叫んだ。
「そこに出て行くってあるじゃないか!だから、さっきから探しているんだよ」
玲二。グッと唇を噛んだ。
「政さん。恵の行きそうなところは」
「髪が生えたら有田旅館に行きたいと言ってましたがね」
短い髪。殴られた顔のはず。それ以外の可能性を玲二は欲しかった。
「他には」
「……京極屋には帰るはずないので。おそらく遠くに行くなら駅かと」
「駅?では『いろは坂』か」
ここで。中田は玲二に向かった。
「先生。有田旅館は俺が行きます。政さんはここにいてください。電話をしますので」
こうして玲二と中田、二手に別れて車を走らせた。右手に中禅寺湖を見ながら車で走る玲二。正午。太陽は眩しかった。
つづく
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