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一 湖の大使館
「何だ、これは」
涼しい湖畔の昼。玄関から中田が持ってきた封筒。玲二は眉間に皺を寄せた。
「先生。これはパーティーの招待状ですよ、ね?恵君」
「そうですね」
隣のイギリス大使館の人から受け取った手紙。そこにはパーティーの誘いが書いてあった。
「おい。恵。なぜこんな手紙が私に来るんだ?」
「なぜって、ちょっと待ってくださいね」
台所。うどんを茹でていた恵。これをザルにあげて水をかけてから玲二を見た。
「それは多分、玲二さんに興味があるからじゃないですか」
「私に?」
「はい。普通は確かに民間人は誘わないはずですけど」
真夏の中禅寺湖畔。この別荘には大使館関係者が集まり住んでいた。その彼らが皆、玲二を興味を持っていると恵は話した。
「なぜに?」
恵は大きな瞳で彼を見上げた。
「まあ、お隣さんってこともあるでしょうけど。みなさん。玲二さんが大学の先生で、植物の研究をしていることを知っているみたいです」
「なぜそんなことを……おい。中田、どこに行く」
逃げようとした中田、白状した。
「すいません。だってみなさん、先生が何をしているのか。しつこくて」
「お前が言いふらしていたのか。全く」
しかし。冷やしたうどんを皿に持った恵。玲二を見つめた。
「でも玲二さん。招待されるのは名誉なことなんですよ」
玲二。ため息まじりで箸を持った。本日のランチ、冷やしたぬきうどん。美味しそうだった。
日光の陛下の植物観察のコース。これは有田老人のおかげで何通りか候補ができていた。さらに、この調査の時に、希少価値のある植物を発見した玲二。
それも今、新種がどうか調査中である。
さらに。大学で進めていた毒草の本の執筆。これも進んでいた。恵に言われたように毒にまつわるエピソードも加えて充実した内容。自分でも大変楽しく進めていた。
……でも。パーティー。ああ、面倒だ。
億劫そうな玲二。だが断るのはかえって失礼。玲二は出なくてはならぬ。彼はイライラしながらうどんを啜っていた。恵、これを見ていた。
「あの。美味しくないなら。他のものを作りましょうか」
「ん?いや、これはその」
「ちょっと待ってください。ご飯が少しあるから」
そう言ってキッチンに消えた恵。玲二、慌てて追いかけた。中田は無視して週刊誌を読んでいた。
「おい。恵」
「チャーハンでも作るので。玲二さんは待っていてください」
「……待てと言っている」
玲二。恵がつけたガスのスイッチを消した。
「あ」
驚く恵。玲二、背後から抱きしめた。
「私は美味しくないとは言っていない!ちょっと別のことを考えていただけだ」
「そうなんですか?」
「ああ。恵、悪かった」
抱きしめた玲二。なぜか一緒にゆらゆらと揺れた。
学生の佐藤が反政府組織の一員だった件。この屋敷にもその後、警察が捜査にやってきた。佐藤は他にも日本解体を思想とし大学から研究資料を盗んでいた。
玲二に関して。陛下の森のコースは佐藤は歩かず、佐藤が見た地図もまだ未完成。さらにここから地図を改良をしたため、佐藤にはこの情報は漏れなかった。
他の玲二の毒草にまつわる資料。これも全て恵が隠したお陰で持ち出されずに済んだ玲二。賢い使用人がいましたね、と刑事に褒められていた。
この時。怪我をした恵の療養と身を守るため、彼は政の了解を得てしばらく恵を別荘に住み込みをさせていた。
貸しボートの仕事は多忙。このため中田が代わりに手伝っていた。
「あ?時間だ。先生。俺、政さんのところに行ってきます!」
元気な声。玲二は応じた。
「ああ、頼んだぞ」
「お世話になります」
しかし。玲二はまだ恵を抱きしめていた。
「玲二さん。あの」
「恵……うどんはうまかった。だから、お茶にしてくれ」
そう言って。頭をポンとすると玲二は湖のコテージに向かった。
恵の胸はドキドキしていた。
……落ち着いて。玲二さんは、私を大切にしているだけよ。
自分は特別な存在ではない。恵は必死に思いを殺してお茶を淹れた。
「玲二さん。ここにおきますよ」
「ああ。恵。ちょっと座ってくれ。相談があるんだ」
「はい」
湖を望む外のテーブル。玲二は恵が入れてくれたアイスティーを見つめた。グラスの氷がころんと揺れた。
「あのな。大使館員のパーティーとは。俺は何をすれば良いのだ」
「ああ。そうですね」
恵も椅子にもたれて湖に浮かぶ、遠くの船を見ていた。
「玲二さんの背広がありますよね。あれを着て、手土産にお酒で持って行けば良いんですよ」
「酒か。何がいいかな」
「……みなさん。自分の国のお酒を持参するはずですね」
恵。思わず目を閉じて考えていた。玲二。それを見ていた。
「うーん。何がいいかな」
「ここ日光の酒はどうだい」
「……それでもいいですけど。そうだ!玲二さんの出身は?」
「俺の出身か」
彼の地元は東京。しかし、母親の実家は新潟と話した。
「じゃあ。新潟のお酒がいいですよ。京極屋でも買えますし」
「わかった。そうするよ」
「ふふふ。楽しみですね。他の人はなかなか招待されないんですよ」
恵。スッと立ち上がった。うーんと背伸びをしていた。
「私が京極屋の店にいた時。知らない紳士が来て、『どうしたら招待されるか知ってるかい?』って聞かれた事がありますよ」
「へえ」
リラックスしているのか。笑顔の恵は少女の顔になっていた。
「あの時は、うちの伯父様が出てきてね。『商品を届けている俺も招待されないのに、お前になんか絶対無理だ!』って。追い返したんです。ふふふ」
「ははは」
「でもね。玲二さん。その人、その後、『ギターを演奏できます』って言って。フランス大使館のパーティーに出たのよ、すごいでしょう?」
「あははは!そいつは見上げた根性だ」
「ふふふ。で、でもね。その人、ギターは下手だったんですって」
「ふははは!恵。そんなに笑わせるなよ」
笑い声の二人。湖畔の涼しい風。別荘の周囲の白樺の林。大学の助教授と男のふりを忘れた二人は自然になっていた。
目の前に広がる湖は二人の気持ちを受け止めるかのように、穏やかにただ、見つめていた。
その夜。恵は玲二と中田に再度パーティーの礼儀について説明をした。
「僕。大使館の使用人さんによく聞いてきました」
「よくやった!恵」
「で。俺たちどうすればいいの」
やはり恵の言ったとおり。手土産一つで結構。礼服よりも軽い上着で良いと言う事だった。
「ここは避暑地なので。招待する人も気軽にしているんですよ」
「なるほど。じゃ、俺も適当でいいのかな」
「中田は気軽すぎる!俺たちは上着を着ていくぞ」
「後は、ダンスですね」
「ダンス!?」
言葉が揃った二人。大きな声の予感が的中の恵。耳を塞いていた。
「ええ。レコードをかけて軽く踊るらしいです。ワルツですよ」
「軽く言うがな。俺たちはダンスなどできないぞ」
「どうします?そうだ!先生、俺たちは足を怪我しているように包帯を巻きましょうよ」
「ふふふ。中田さんは、ふふふ……」
本気でそうしようとしている中田。恵は笑いを堪えきれず声を上げた。
「もうだめ?キャハハ……」
「恵君。そんなに笑わないでよ」
……中田の話であんなに楽しそうに。
なぜか悔しい玲二。恵の手を取った。
「おいで、恵。あれは放っておいて、俺と踊っておくれ」
「僕がですか?」
「ああ。中田は足に包帯でも巻いておけ」
そして。中田は部屋のレコードをかけた。蓄音機からはワルツが聞こえた。恵。よしと覚悟を決めた。
「僕でよければ、行きますよ!イチ、ニイ、それ」
「ああ。こうか?」
京極屋にいた時。弥生がダンスを踊ってみたいと言い出した事があった。大人になったらいつか大使館のパーティーに呼ばれると本気で思っていた弥生の妄想。母親の冬子は仕方なく、恵を相手に踊らせた事があった。
運動神経の良い恵。女性側も男性側も踊る事ができた。今は玲二を相手に踊っていた。
「そうそう。これでいいんですよ」
「これの繰り返しだな」
二人で踊る姿、中田は退屈で台所に消えた。こうして夜のレッスンを経て、玲二と中田は大使館のパーティーに参加した。
多少は英語ができる二人。他に招待された大使館員や会社経営者と親しくなった。中には家族である若い娘もいた。
「桐嶋助教授。どうかうちの娘と踊ってやってくれませんか」
「あ。いいですよ」
若い男性が少ない会。踊る練習をしなかった中田は膨れていた。玲二は令嬢達のダンスの相手をさせられていた。
綺麗なドレス。素敵な宝飾品の首元。水仕事などした事がない綺麗な手。化粧した顔、美しい髪の娘達。しかし、玲二の心はどこか虚しかった。
そして見送られて別荘に戻ってきた二人。ドアを開けた恵にほっとした。
「おかえりなさいませ」
「ああ。飲みすぎた……このまま休むよ」
「中田さん。寝床に水がありますから。あ、お帰りなさい玲二さん」
「ただいま」
上着を受け取った恵。自分をじっとみる玲二に気が付いた。
「な、なんですか」
「いや。別に」
……髪が伸びてきて。年相応に見えてきた。
自分の衣服を世話する恵。今宵もかぶっている帽子。だが伸びてきた首元。この髪型だと、すっかり女の子。玲二の胸は熱くなった。
「玲二さん。お風呂が沸いてますよ」
「なあ、恵……ちょっといいか」
「え」
玲二。酔った勢いもあり恵を抱きしめた。
「れ、玲二さん?」
「……人に疲れた。お前を見ると、ほっとするんだ」
「そう、ですか」
大人の彼。疲れてこうして自分に甘える事がある。恵は嬉しかったが、この時間はいつまでも続かない。
……でも。せめて、今だけでも。
恵。玲二の背に手を回し、ぎゅうと抱きしめた。それだけだった二人。鼓動が重なる刹那、湖面には星が輝いていた。
髪が伸びるまで。彼の研究期間までの夏の恋。身分違いの玲二と恵。それはまるでうたかたのように、悲しく熱く、そして美しく、二人の胸に宿っていた。
一 湖の大使館 完
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