二 神戸からの手紙

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二 神戸からの手紙

「あなた。また神戸から封筒が来たわよ」 「ああ。返事をしていなかったな」 日光の豪商、京極屋。恵を追い出した手前、彼女を捜索している親族への返事を怠っていた京極夫婦。ここで恵の母親宛の書面を読んだ。 「これによると。恵に遺産が入るようだな」 「まあ」 「そのための手続きで、弁護士がここに来るらしいな」 しかし恵は行方知れず。蓮は着物の袂に手を入れ思案顔。しかし冬子は真っ赤な口紅で目を光らせた。 「あなた。私たちで恵の代わりに相続しましょうよ」 「なんだって?」 「そもそもです。私たちはあの娘を今まで養育したんです。それをもらう権利があるわ」 夜の居間、嬉しそうに手を叩く強い嫁。しかし蓮はダメだとタバコに火をつけた。 「そんな事ができるはずがない」 「では。あなたは恵を追い出したって。この人達に言えるんですか?」 「それは」 口籠る蓮。妻は続けた。 「それに。恵がこれを知ったら。遺産を独り占めするだけでなく、私たちに仕返しするかもしれないわ」 「まさか」 「あなた!しっかりして!それに、大した金額じゃありませんよ」 冬子の説得。蓮の心は揺れ動いた。 「ね?あの娘の代わりに預かっておけばいいのよ。帰って来たら、返せばいいし」 「でも、どうやって?こういうのは書類だけでは相続できないぞ。きっと本人に会わせろと言い出すはずだ」 「いるじゃないですか。我が家には娘が」 冬子の黒い笑み。蓮はタバコの煙を吐き、これを見ないふりをした。 ◇◇◇ そして。弁護士がやってきた。 「どうも。手紙を出した山形です」 「まあ、遠いところから大変でしたね」 老弁護士の山形。帽子を外し挨拶をした。店構えを確認しながら彼は尋ねた。 「あの、他の従業員さんは?」 「ああ、この時間は出払っておりまして。家族だけなんですよ、どうぞ、奥へ」 「この品数なのに?大変ですね」 商品の店を感心して見上げる山形。冬子、微笑んだ。そんな彼女は店の奥の母屋に彼を通した。 「こちらでお待ちください。主人もまもなく来ますので」 「それはご主人の蓮さんですね。どうぞお構いなく」 恐縮している山形。やってきた京極蓮に挨拶をした。 「京極さん。この度ですね。野々村恵さんに関して。親族の方から相続の話がありまして。私は恵さんにお会いして、事情の説明と、お気持ちの確認に参った次第です」 「はい」 「ところで。恵さんは?」 この話を事前に伝えてあるはずの山形。不思議顔で部屋を見渡した。ここで冬子。ため息をついた。 「まずはですね。私から今まで経緯を説明致します」 冬子。母親に置き去りにされた恵を大切に養っていたと話した。 「それはそれは。私どもは実の子同然に育ててまいりましたの」 「そうでしたか」 涙まで見せた冬子。ハンカチで涙を拭いた。 「今回のお話。あの娘も喜んでいると思いますが、あの子は体が弱く、奥の部屋で伏せっているんです」 「伏せっている?なにか持病でもおありなのですか」 メガネを直す山形。冬子。うなづいた。 「元々気管支が弱くて。でも、弁護士先生にはお会いできますわ、どうぞ、こちらへ」 そう言って夫婦は奥の部屋に山形を通した。薄暗い部屋。こ綺麗な部屋。値段が高そうな日本人形が飾られていた。窓辺の店にはそれは綺麗な手毬が飾られていた。そこには娘が布団に入っていた。 「恵。弁護士先生よ」 「……すいません。こんな姿で」 「いやいや。こちらこそ。そのままの格好でいいんですよ」 布団のそば。山形は寝ている娘にそう言った。 「ええと。あなたは野々村恵さんですね」 「はい」 「失礼ですが、誕生日と生まれた町を言えますか?」 「ごほ!ごほごほ……」 「恵?大丈夫?」 母親が駆け寄ると苦しそうな咳の娘。山形は慌てて首を振った。 「良いです。無理をしないでくだされ」 「すいません。先生。恵?さあ、お薬を飲みましょうね」 「はい」 彼女を起こした冬子。胸に抱き優しく薬を飲ませた。山形はこれを見ていた。 ……なるほど。確かに親子同然で育てていたようだ。 恵に優しくする姿。老弁護士はそう判断した。そして使命を伝えた。 「恵さん。私は今日。あなたにお会いして、親族の話をするために来たんです。京極さんも一緒に。楽な姿勢で聞いてください」 山形は書類を読み上げた。それは高額な遺産が恵にあるという内容だった。 「亡くなった恵さんのお爺さんは。大変な資産家でした。ですので、あなたにももらえる権利があります」 「そんなに?」 「……弁護士さん。本当に恵はそんなにもらえるんですか?」 蓮と冬子の驚き。弁護士はただうなづいた。 「これから手続きをしてからです。今回はまず確認だけですが、いかがでしょうか?恵さんは、これを受け取るというお返事と受け止めて良いのでしょうか」 「はい。もらいます!」 娘の元気な返事。山形は違和感があったが、若い娘の無邪気な心と捉えた。 「では。親族の方にそう返事をし、今度は書類を揃えて参ります」 立ち上がった弁護士。京極夫婦を見た。夫の複雑な顔と奥方の嬉し顔を見つけた。そして布団の中の娘もこの上なく嬉しそうだった。ここで彼は思い出した。 「ああ。そうでした。お写真をよろしいですか?親族の方に、撮ってくるように言われているので」 「え。ああ、いいですよ、さあ、恵」 冬子。布団の上に恵を座らせた。薄暗い部屋、フラッシュをつけて山形は写真を数枚撮った。 こうして彼は京極屋を後にした。この日はとても帰れないと予約した宿泊先へバスでやってきた。それは中禅寺湖畔の民宿。湯本温泉までは遠いと思った彼が選んだ宿は釣り客でいっぱいだった。 「女将さん。他に宿はないかね。私はこんなうるさいところでは眠れしないよ」 すでに酒を飲んでいるような釣り客の宴会騒ぎ。都会からやってきた品の良い老弁護士の訴え。女将は困り顔で答えた。 「湖畔の宿はどこもみんなこんな感じですよ。それなら湯本温泉へどうぞ。車ならそこにある赤い三角屋根の貸しボート屋に頼めばいいから」 冷たくあしらわれた山形。疲れ切った足で貸しボート屋で事情を話した。 「それは大変でしたね。でも今から湯本温泉も大変ですよ」 「はあ」 受付の少年姿の恵。優しく声をかけた。 「お客様。ここでよければいかがですか?今夜は誰もお客さんがいないんですよ」 「泊まれるのですか」 「はい。ホテルには及びませんが」 疲労困憊だった山形。恵の雰囲気でここに決めた。悪天候で釣りができなくたた客のための宿泊の部屋。恵は彼をここに案内した。 「狭いですけど。静かさだけは保証します」 「いやいや十分だ……ああ。湖がこんなに近くに」 夕日が沈む湖畔。山形は感動していた。 「素晴らしい。やっとくつろげそうだ」 「よかった。それではお客様。お食事はどうなさいます」 「実は腹ペコで」 「では。中禅寺湖自慢のお料理をお出ししますね」 そう言ってひっこんだ恵。出てきた時、風呂に行こうと言い出した。 「ここにあるのですか」 「いいえ……貸してもらいます。どうぞ気にしないでください」 そう言って山形を白い舟に乗せた。湖に落ちた葉のような小さな舟。これを漕ぐ美少年。頬を撫でる夏の風、そばにいるような錯覚の男体山(なんたいさん)の雄々しい姿。湖面に浮かぶ夕映。山形、感動していた。 「おお、なんと透明で」 「お客様。あちらがイギリス大使館の別荘です。釣りをされているのが大使で、向こうがフランス大使です」 湖畔の大使館の別荘。恵は順に案内していた、そしてイタリア別荘にやってきた。船着場に到着した小舟。恵は彼を静かに降ろした。 「ここは?」 「僕がお手伝いしている別荘です。ちょっと待ってくださいね」 恵は案内をし、別荘の風呂を借りた。 「え?いいのですか?」 「はい」 恵。山形に向かった。 「ここの先生は遅くにしか入りませんし。ぬるいお風呂が好きなので。僕がもう沸かしてあるので、さあどうぞ」 「あ、ああ」 こうして山形。イタリア別荘のお風呂に入った。そして感動して出てきた。 「いや……最高でしたよ?湖が見えて」 「よかったです」 「あの。このご主人に挨拶をさせて欲しいんだが」 恵。玲二に山形を会わせた。都会の話に意気投合の二人。玲二は恵に山形をここで食事に誘った。 「おお?これはニジマスですか」 「どうぞ。たくさんありますので。遠慮せずに」 恵が出す料理。玲二は嬉しそうに薦めた。山形、慌てて箸を持った。 「桐嶋助教授は、毎日こんなご馳走を食べているのですか」 「ははは」 そして中田も合流した。この日は大量に作った恵。玲二は恵にも勧めて一緒に四人で楽しい食事にした。 「ご馳走様でした。いや君の料理は最高だったよ」 「僕の方こそ光栄です?ご馳走様でした……」 男性三名は都会の話に話が咲くがやがて遅くなった時間。恵は切り上げさせ貸しボート屋に帰ろうとした。 「お待ちください。ぜひ桐嶋先生と記念に一枚写真を」 「では。僕が撮りますよ」 恵。山形と玲二と中田の三名でイタリア別荘のダイニングにて写真を撮った。こうして恵は小舟で貸しボートに帰った。月夜のボート、ランプの灯り。山形はうっとりしていた。この夜は恵も貸しボート屋の自室に泊まった。 翌朝。ナミの手料理に感動の山形。今後の予定を話した。 「私はまたこの地に来る予定ですので。その時もここに泊まって良いですかね」 「どうぞ。電話番号を、(けい)、詳しく教えてあげなさい」 「はい」 政の指示。恵は貸しボート屋のパンフレットを山形に差し出した。そして彼の身支度を見届けた。 「帰りはバス停まで送りますよ。それは日光駅まで行きますので」 「助かりました。あ?そうだ。記念写真を」 ここで。恵は政とナミと山形で写真を撮った。 「これで」 「……すいません。君もいいかな」 「僕ですか?」 「親切にしてくれたのは君だしな。あ、あのボートを背にしようか」 写真好きな山形。湖の浮かぶ白いボートを背に恵の写真を数枚撮った。こうして山形は笑顔で帰っていった。 ◇◇◇ 「弥生。本当によくやったわね」 「お母さん。何度も言わないでよ」 夕食のテーブル。冬子と弥生は嬉しそうに食事をしていた。蓮だけは酒を飲んでいた。 「何よ、そんな顔して。あなたね?これは恵の代わりに受け取って。後であの娘に返す話なのよ」 「え?返すの?弥生にくれる話じゃなかったの?」 「もういい。私は部屋にいる」 妻と娘の凶行。だか店の経営が苦しい昨今。(さいな)まれていた蓮。本当に一時的に借りようとしていた。 ……そうだ。これは恵の代わりに預かるだけだ。うまくやれるさ。うまく。 峠の下の京極屋。蓮は己を誤魔化すそうに、また酒を飲んでいた。 二 神戸からの手紙 完
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