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三 さざなみに誘われて
真夏の避暑地。玲二は外国の大使館のパーティーにたくさんお呼ばれされてしまった。民間人の彼。なぜそんなに人気があるのか自分でも不明であったが、どうやら異国の彼らは仕事以外の民間人の友達を欲しているらしく、利害関係のない東京大学の助教授の玲二は適任者のようだった。
さらに。英語ができて聡明。素敵な紳士の玲二。その血筋は元皇族関係。大使館員達は玲二を招いてくれた。多忙であるがなんとか研究が進んでいた玲二。できるかぎり顔を出していた。
そんなある日。研究生の中田が、深刻な顔で玲二に語り出した。
「先生。俺、船のアルバイトの時、ちらとドイツの通訳の人に言われたんですけど」
「何をだ」
書斎で資料をまとめていた玲二。中田を見つめた。
「あのですね。俺たちもお返しにパーティーをしないとまずいみたいですよ」
「はあ?それは本当か」
「はい。みなさん、楽しみにしているみたいです」
「……はあ、なんてことだ」
中田。ここで立ち上がった。
「恵君に聞いてみますよ。きっと、やらないといけないはずなんで」
「……中田、ちょっとこれを見てくれ」
この時、玲二。引き出しから取り出した通帳を見せた。
「え?予算がこれだけ」
「びっくりだろう」
この別荘の家賃は支払い済み。それ以外に結構お金を使ってしまった玲二。これは全て大使館との交際費である。想定外の失費。とてもお返しのパーティーを開催できる状態ではなかった。
「俺たち、無駄遣いはしてないのに」
「ああ。手土産代がバカにならなかったな」
静まり返った屋敷。そこにランチを持ってきた恵の元気な挨拶が聞こえた。中田は少年姿の恵を迎えた。そして事情を話した。
「やはりそうでしたか」
「お前は知っていたんだな」
恵。小さくうなづいた。
「でも、こんなに玲二さん達がお呼ばれするとは思いませんでした」
「それはもういい。とにかくパーティーか。これは私の自腹だな」
独身の彼。お金がないわけではない。しかし。恵、待ったをかけた。
「僕に考えがあります。いいですか?食べながらお聞きください」
恵。まず、料理は手作りで行こうと言い出した。ランチの天丼を食べていた玲二。それはうなづいた。
「私もできることをするぞ」
「俺もです」
「心強いです!」
執筆も進んでいる玲二。少し体を動かしたい気分であった。
「あと。お酒は頂き物がたくさんありますし、本当にお食事だけなんです。しかし、今度は食材ですね」
はああと玲二はため息をついた。中田ははい!と手を挙げた。
「俺、どんどん魚を釣りますよ」
「中田さん。それはもちろんお願いします。でもそれだけでは足りないです」
恵。二人に語気を強めた。
「野菜!お肉。そして、デザートですね。これが問題です」
玲二。顎に手を置いた。
「野菜か。私が山で山菜を採って来よう」
「お願いしますね。あとはお肉なんですけど。これは玲二さん。有田さんにお願いしてみてください」
「有田さんに?」
有田旅館の大旦那。一緒に山を歩いた彼。恵は真顔でうなづいた。
「鹿肉を持っていると思います。お願いして分けてもらいましょう」
「なるほど?よし、頼んでみるよ」
ここで中田。恵を見つめた。
「でも、デザートは?どうするの」
恵。ちょっと微笑んだ。
「それは、僕にちょっと考えがあります。まずは、みんなでニジマスを釣って、予算を浮かせましょう」
「よし!俺、早速行ってきます!」
単純な中田。早速、別荘の舟着き場に行ってしまった。玲二、恵に肩を落とした。
「本当に大丈夫かな」
「……やれますよ。玲二さんなら」
肩に手を置く恵。玲二、その手にそっと自分の手を重ねた。
「私は君がいないと、何もできないよ」
「そんなことありませんよ。玲二さんはなんでもできますよ」
「恵」
最近の恵。髪が伸びてきていた。まだ帽子をかぶっているが、前髪があり、襟足まで髪が伸びているのが見えた。服装が男の子だが、こうしてみると可愛い女の子。玲二は目を伏せた。
……おお。時が止まれば良いのに。
「玲二さん?」
「恵。私のそばにきておくれ」
恵は玲二がパーティーに自信がないのかと思った。彼に寄り添った。
「玲二さん。僕はここにいます」
「本当だな?見放すなよ。私は弱虫なんだぞ」
「ふふふ」
冗談だと思っている娘。十歳下の女の子。玲二は微笑みの中に思いを落とした。
「では。作戦を実行かな」
「はい。玲二さん」
こうして玲二達は、お返しのためのパーティーの用意を始めた。
◇◇◇
「え?有田さん。鹿肉をくれるんですか?」
「ああ。猪肉もあるそうだぞ」
「では前の日にもらって。お料理しなくちゃ」
ある夜の夕食。恵の作ったクリームシチューを食べながら二人は聞いていた。
これによれば有田老人の無料の差し入れ。恵は献立を必死に考えていた。ここで中田も報告した。
「恵君。俺のニジマス。売れたんだよ。これ、売り上げ」
「うわこんなに?玲二さんみて!」
「お前、すごいな」
「へっへ」
大学の研究生の中田。この中禅寺湖に来てからすっかり現地に馴染み、船も覚え山も覚え。先日は観光案内までこなしていた。
釣りに関しては才能があったのか、政が舌を巻く腕前であった。
「これだけあれば。なんとかなりますよ」
「あとは、デザートだな」
「それは僕がなんとかします。それよりもですね。二人とも、大使館のパーティーで、何かありませんでしたか?」
「何かって、なんだ?中田」
「わかりません」
恵。二人に食後のコーヒーを配り出した。
「僕は参加したことないですが、招いた旦那様って、何か芸を披露してなかったですか」
「あ!」
「先生。こぼしてますよ」
「そうか。芸か。確かにされていたような」
酒でぼんやりだった玲二。中田は思い出していた。
「ほら先生。バイオリンを弾いたり、詩を朗読したりしてたじゃないですか」
「あれを私がやるのか?」
「玲二さん、何かできますか?」
恵の問い。玲二、すっとコーヒーを飲んだ。
「できると思うか?この私が」
「先生。偉そうに言わないでください」
「喧嘩は無しですよ?あの、中田さんは?」
「俺?そうだな」
中田。ちょっと考えた。
「逆立ちならできるよ」
「却下」
「先生、あんまりですよ?」
「お二人とも!これは真剣なんですよ」
恵の真剣な顔。玲二も中田もびっくりした。
「僕は本気なんです。玲二さんに恥をかかせられないです」
「わかった。そんなに怒るなよ恵」
「恵君。ごめんよ」
「……僕。食器を洗っています」
恵。どこか落ち込んでキッチンに行ってしまった。静かになったダイニング。中田は口を開いた。
「先生。本当にどうしましょうか」
「そうだな。今までの大学の宴会と違うしな」
夜の湖。静かな深い夜。窓から二人はただ見ていた。
「大学か。そういえば、うちの教授って、トランプの手品をしてましたよね」
「ああ」
彼らの恩師。確かに手品が得意で学生達に披露していた。
「そうだ!それをやりましょうよ」
「私にはできないぞ?」
「ふふふ。俺に任せてくださいよ」
そう言って中田は紙に設計図を書き出した。玲二。これを呆れて見ていたが、だんだん面白くなってきた。
玲二、余興は中田に任せて、台所の恵のところに顔を出した。
「恵?」
「……すいません。今は一人にしてください」
姿が見えない恵。玲二、何気に探した。
「ごめんよ。君が真剣にやってくれていのに。私の心得が悪かった」
「玲二さんは悪くないです」
元気のない声。それよりもまだ恵が見えなかった。
「おい。どこにいる」
「……デザートなら冷蔵庫です。僕のことなら放っておいてください」
広い屋敷。玲二は恵を発見できない。しかし、なぜか嬉しくなっていた。
「ふふふ、懐かしいな」
「玲二さん?」
「お前と初めて会ったのも。こうして姿が見えない状況だった」
雨宿りの別荘。誰も家に入れてはならない約束。それを破り玲二を助けた恵。その罰として髪を刈られてしまった無惨な姿。その娘と現在、一緒に過ごしている玲二。
「なあ、お前は。なぜあの時、俺を家に入れたのだ」
「それは……雷が鳴っていたので」
「だが。お前は禁じられていたのであろう。なぜだ」
会話しながら。玲二は恵を探した。声のする方へ歩みを進めた。
「僕も、雷が怖いから」
「そのせいで。家を出されるかもしれぬのに?なぜ、助けたのだ」
「……」
「恵。ここにいるんだね」
一見、廊下の壁。しかし、中から声がした。おそらく隠し扉。気配もある。玲二はその前に立った。
「恵。ごめんよ。本気で心配してくれたのに。悪かった」
「……」
「開けるよ」
扉になっていた戸。開けるとそこでは恵が泣いていた。玲二、手を引き、彼女を出し、抱きしめた。
「恵。俺が悪かった。もう泣くな」
「……いいえ。僕の方こそ。勝手に思って」
「そんなことない!」
盗難に遭いそうな時の対処。恵はいつも先に手を打つ賢い娘。これを思い出した玲二。彼女に頬寄せた。
「恵。頼むから俺を許してくれ。お前に泣かれると、どうしようもないんだ」
「玲二さん」
「私が全部悪いんだ。な?だから俺のせいにしろ。な?」
「玲二さんのせいに?」
「ああ。そうだ。私を叩いてもいいぞ?さあ、やってくれ」
必死に謝る玲二。恵は大好きだった。しかし、叶わぬ恋。思ってはいけない彼への想い。恵は目をぎゅとつぶった。
「もう、いいです」
「恵」
……心配しているから。元気を出さないと。
「玲二さん。僕の方こそごめんなさい。素敵なパーティーにしましょうね」
「あ、ああ」
この夜。恵は船に乗り、帰ろうと貸しボート小屋に向かっていた。夜の湖、ランプ一つ。当初は怖かった湖。今ではすっかり慣れてきた。
別荘の仕事は一夏。もうすぐ時期が終わろうしていた。短い髪が伸びるまでの約束。それも叶いそうなくらい伸びていた。
帽子で隠しているのは、伸びたことを隠すためだった。まだ玲二のそばにいたい。それだけだった。彼はあと十日程で東京に帰る。恵には話してくれないが、別荘の契約やカレンダーにはそう書いてあった。
玲二には婚約者がいる。この別荘にも手紙が何度も来ていた。あの玲二の婚約者。お似合いの人なのであろう。大学の助教授の玲二。東京に戻れば自分にとっては雲の上の人だと恵は知っていた。
……玲二さんと、お別れか。
月が映る湖。それを壊すように恵は進んだ。初恋はあまりにも楽しく、あまりにも儚く。十六歳の恵を捕まえて離さなかった。
……でも。せめて。玲二さんのために。
大使館員達に恥ずかしくないような。素敵な会にしたい。恵は小さな胸にそう決心した。
◇◇◇
そして。中田は屋敷の中の大きなテーブルで何やら試行錯誤していた。玲二はここでしかできない研究を進めていた。
楽しい時間はあっという間。パーティーを開催の後、数日でここを去らなくてはならない。延期はあり得ない。大学で予定が詰まっているのである。
陛下の散策コース。あとは大学と宮内庁の判断なので彼の仕事はおおよそ終わった。今は発見した植物のまとめ。これは大学に帰って本にする予定である。
残した仕事。それは胸にあること、髪の短い娘のこと。
……東京に連れて行きたいものだが。
玲二。帰京後、婚約の予定である。拒むこともできる。が、果たして家族の反対を押し切って恵を連れて行き、それで恵が幸せになるのか。彼女はここで暮らした方が幸せではないか、仕事一筋だった玲二。葛藤していた。
玲二の家は元皇族の血筋。父親は厳格で厳しい。兄は親の勧めの結婚をし、家督を継いでいる。次男の自分、少しは気ままであるが今の研究をするまで、親に多額の学費を出してもらっていた。親に背けない事情があった。
それに恵。気の良い素晴らしい娘。しかし、家柄と言われると玲二は何も言えない。むしろ、都会の自分の暮らしでは、恵が可哀想にも思えた。
……ああ。彼女をポケットに入れて。連れて行ければいいのに。
連れて行きたい。しかしできない。わかっていること。それは恵の幸せだけだった。
帰り支度が進む中。お別れパーティーの準備も進んでいた。二人の別れの時間も静かに近づいていた。
三 『さざなみに誘われて』 完
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