五 悲しき星の下

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五 悲しき星の下

「はあ。また注文の取り消しだ」 「あなた。どうしたの」 「今月の売り上げが落ち混んでいる原因だよ」 主人の蓮。ため息で算盤を弾いていた。 「どうも有田旅館さんが、別から注文を取っているみたいなんだ」 「うち以外から」 「ああ。何か不満があったのだろうか」 大口の注文が減った京極屋。それは温泉街全体のことだった。今までなら中元の品が大量に予約が入ったはず。それが今年はなかった。ここで蓮、幼なじみが後継の温泉旅館に顔を出して様子を聞いた。 「その事か」 「やっぱり、何かあるんだな」 「ここじゃ、ちょっと」 話しにくいという若旦那。その夜、二人は湖畔の小さなスナックにて落ち合った。 「なあ。どういうことだ。どうしてうちからみんな離れているんだよ」 「……大きな声では言えないんだが。ほら。お前のところの恵さんがいなくなっただろう」 「そのことか」 蓮。酒を飲んだ。私服の若旦那は、言いにくそうに話した。 「恵さんは、今どこなんだ?」 「どうしてそんなにみんな気にするんだよ」 「……これは噂なんだけど」 彼は気付に酒を飲んだ。 「あくまでも噂だぞ?その、お前んところの奥さんと娘が、恵さんを折檻で死なせてしまって、遺体を華厳の滝に捨てたんじゃないかって噂で」 「なんだって?」 「だから!大声を出すなよ」 彼はし!と指を立てた。 「俺だって信じちゃいないさ?だがな、恵さんのことを尋ねても、奥座敷にいるって奥さんは返事したそうじゃないか?でも従業員の誰もが、恵さんを見てないって話だぞ」 「……」 「蓮!どうなんだよ。本当のところは」 行方不明の恵。しかし遺産が入る話のため、恵は奥座敷にこもっていることになっている。蓮、この嘘。蓮は何がなんでも通さなければならなかった。 「確かに。うちの冬子が恵を虐めていたのは認めるよ」 「それはもういい。生きているのか教えてくれ」 強い言葉で向かう若旦那。彼は若い頃の恵の母、美江を慕っていた。彼女の面影が見える置いてきぼりの恵。この娘には何も落ち度はない。見ていられない恵の境遇に、養子縁組を持ちかけたこともあるほど。そんな彼、ただ、恵の生死を知りたかった。 「蓮!」 「生きているに決まってるだろう」 「だったら。一度表に出せ。さもないと噂がもっと広まるぞ」 「……それが出せないんだよ」 蓮。冬子が用意した嘘を話し始めた。 「弥生のせいで、恵が顔に火傷をしたんだ。恥ずかしくて人目に出られないと、うちにこもっているんだ」 「それにしたって。少しは表に」 「わかった。そんなに心配なら、店先に出す」 蓮。酒をぐっと飲んだ。若旦那は少しほっとした顔を見せた。 「それならいいが。恵を出さねば、お前たちは人殺しと思われているぞ」 「ひどい話だ」 これは自分に対する言葉。蓮は自虐的に笑うと酒代を払い、店を後にした。 夏の湖畔の風。冷ややかに当たっていた。見えるのは大使館の別荘の明かり。湖畔のほとりを光らせていた。 ……くそ!上流階級め。なんの苦労もなく。 豪商と言われていたが、大金を動かすのは大変な苦労。しかも冬子と弥生の散財。一体何のために仕事をしているのか。蓮は疲れていた。こんな彼、使用人が車で迎えに来る約束。赤い三角屋根のボートハウス前で待ち合わせしていた。 「あの。旦那様」 「ん」 見ると。帽子を深くかぶる若い少年。自分を見て驚いていた。 「お椅子をどうぞ。待ち合わせですか」 「ああ。すまない。君は、最近入ったのかい」 恵と気づかぬ蓮。気が効く少年に感心していた。 「はい。この夏だけです」 「そうか。どうだい。貸しボートの景気は」 「……例年よりも釣りの人が多いようです」 「向こうの大使館の異人さんはどうだい?金持ちなんだろう」 蓮の冷やかすような声。恵、静かに答えた。 「そうかもしれませんが。意外と質素ですよ」 「へえ」 「それに。国を代表されてきているので。どこでも振る舞いは大変そうです」 「ほお。付き合いがあるんだね」 「はい」 久しぶりの叔父。どこか疲れた顔をしていた。恵には比較的優しい彼。恵、自分を分からない彼を心から不憫に思った。 「大使館の人は、お買い物が大変そうです。誰か御用聞きに行くと、喜ばれますね」 「君、それは本当かい」 「はい」 商売の話。蓮の嬉しそうな顔。恵、目を細めた。元は良い人。恵はそっと迎えの車を探そうと外を見た。この後ろ姿、蓮は尋ねた。 「ところで、つかぬ事を聞くが。五月の末に、この湖で髪が短い娘がいなかっただろうか」 「……さあ。僕は知りませんが」 「そうか」 どこか寂しそうな彼。話を続けた。 「もし。もしもだよ。そんな娘を見かけたら。私の店、京極屋に連絡してくれないか」 「いいですけど」 「その時は私だけに連絡して欲しいんだ」 「なぜですか」 恵の冷たい声。蓮はため息をついた。 「あの子は私の姪でね。何もしてやれなかった。だから、頼ってきた時は今度こそ、助けてやりたいんだ」 本気なのか。酒によっているのか。定かではない。しかし、彼は小さく震えていた。 「わかりました」 「ありがとう。すまんな、変なことを言ってしまって」 彼は立ち上がった。そして二人で夜の道の先を見た。血が通う二人、一緒に立っていた。この時、蓮はくしゃみをした。 「旦那様、ここは寒いのでどうぞ中でお待ちください」 「優しいんだね。うちの恵みたいだ」 彼は星を見上げた。酔っているのか泣いているようだった。 「私の事を。いつも思ってくれたのに。私は、私は」 「旦那様」 「あの子には、私しか頼れる者がいなかったのに、ああ、母に顔向けできないよ」 涙を流す叔父。恵、そっと優しく背に手を添えた。 「旦那様。その娘さんは、きっとどこかで頑張っていますよ」 「うううう」 この時、道の向こうから車がやってきた。京極屋の迎えの車。恵、帽子を深く被り直した。 「さあ。旦那様。お迎えですよ」 「……ありがとう」 「どうぞ。お気をつけて」 恵。叔父を送った。自分のせいで心を痛めている叔父。その悲しい姿。寂しい気持ちで見送った。 ◇◇◇ その後。蓮は恵がいないせいで商売が怪しいと冬子に伝えた。冬子、対策をすると弥生と部屋で作業をしていた。 「あなた?どう」 「それは」 「うふふ。顔が見えないでしょう」 恵は火傷をしたと嘘をついた京極家。弥生の顔に包帯を巻き、冬子は部屋から連れ出した。 「それに。この着物はあの子の一点ものだし」 「ちょっと小さいわね」 恵の亡き母。従業員と駆け落ちしていた。そんな母でも恵のためにと作ってくれた桃色の小紋。それを弥生が着ていた。蓮、情けなく、不甲斐なく、二人から顔を背けた。 「何よ?今さら怖気付いたの」 「お母さん。行かないの?」 「行くわよ。じゃあね。お店を頼んだわよ」 弥生は日傘を取り出した。そして母親と一緒に近所を歩き出した。顔は包帯、日傘でそれも隠す姿。そして恵の小紋の着物。完璧なはず。弥生、これを知らしめるために冬子と一緒に近所を歩いていた。 「あ、どうも。そっちは、恵ちゃんかい」 「はいこんにちは。そうなんです。火傷をしてしまって。日焼けしないように言われまして」 「そうかい。痛むのかい?恵ちゃん」 「はい……」 俯く娘。話しかけた男。お大事にと別れた。そして商店街の床屋に入った。 「おい。どうだった?恵ちゃんか」 「微妙……しかも冬子さんが付き添うって。おかしくないか」 商店街を代表して様子を見に行った男。床屋の他の客と一緒に首を傾げていた。彼らはずっと恵を心配していた。こんな目線を知らず、二人はまだ歩いていた。ここに、若い青年が声をかけてきた。 「すいません」 「あら?なんですか」 「あの御二方は京極屋の方ですよね」 笑顔素敵な青年。申し訳ないと紙袋を差し出した。 「私は、イタリア別荘にいる桐嶋助教授の知り合いなんですが、ちょっとお願いがあるんです」 彼は恥ずかしいと頭をかいた。 「これを渡そうとやってきたんですが。忘れ物をしてしまいまして。できればこれを先に届けたいんです」 「うちは配達はしてませんが」 断る冬子。しかし、弥生は紙袋を受け取った。 「いいですよ。いいじゃない。お母さん。誰かに行かせれば」 「でも」 「いいんですか?あの申し訳ないです。これはほんの気持ちです」 彼はチョコレートを出した。外国のもの。弥生は嬉しそうに受け取った。 美男子に弱い弥生。呆れた冬子。彼を見つめた。 「わかりました。ついででお届けします。そして、あなた様のお名前は」 「佐藤です。それでわかるはずです」 「佐藤さんですね?確かにお預かりしました!」 包帯巻きの娘の元気な声。佐藤は微笑みを残して去っていった。 そして。二人の演技は終わり店に帰ってきた。そして弥生は使用人に指示をした。 「この紙袋と、この手紙を渡してちょうだい」 「……わかりやした」 手紙の文字は恥ずかしいほど拙い。しかし、言われた爺やは紙袋と手紙を持ってイタリア別荘にやってきた。対応したのは玲二である。 「佐藤から?それはどんな男ですか」 「さあ?わしは言われただけで、では」 あの反政府組織の佐藤の可能性。玲二、その前に添えられた手紙を読んだ。 そこには佐藤から荷物を預かったと書いてあった。 「先生。どうしました」 「玲二さん。顔色が悪いですよ」 奥から顔を出した中田と恵。佐藤と聞いて血相を変えた。 「玲二さん、佐藤って。あの男ですか?」 「何やってんですか!開けちゃだめですよ!」 三人が囲む紙袋。そっと覗くと手紙があった。中田。恐る恐るこれだけ取り出した。 「『最高の研究を』って。ありますね」 「……意味がわからんな。しかし、これは確かに危険だ」 不気味に思った玲二と中田。荷物の重さが気になった。 「先生!これ爆発物かも」 「なんだって」 「僕に貸してください」 ……二人を危険な目に遭わせられない。 恵。これを小さなボートに乗せた。そしてボートをロープで結び、これだけ乗せて船着場から遠く放し、湖面に浮かばせた。 「あんな感じです!」 「恵君、さすが!先生、あとは警察に相談しましょう」 「そうだな、あ!」 ここで、舟の中のものは突然爆発し、水飛沫を上げた。岸にいた三人、頭から水をこれを浴びた。唖然とした。 「……これは?」 「中田……先のあれが爆発したのか」 「玲二さん……まだ爆発しそう。うわ!」 炎をあげて燃えた舟。三人、呆然と見ていた。佐藤の恐ろしさ。濡れた三人、震え上がっていた。 そして警察が来て事情聴取となった。 「そうですか。しかし、先生、賢い使用人で命拾いしましたね」 「はい。私も吹っ飛んでいたところですよ」 イタリア別荘。タオルで頭を拭く玲二。中田は青ざめていた。恵は急いでお風呂を沸かしていた。刑事は佐藤弥一を指名手配していると話した。 「あいつは先生を狙っていたんでしょうね」 「はあ。それにしても。配達の人に何もなくてよかった」 「そうですね。まあ、あとは警察にお任せください」 無事だった三人。刑事は急いで帰っていった。彼らは京極屋にて事情を聞きに行った。話は冬子がした。 「爆発?まあ恐ろしい」 「後で容疑者の男の写真を持ってきますので。確認を願います」 「わかりました」 「ところでお嬢さんは?」 刑事の鋭い眼光。冬子、話をした。 「実は、怖い思いをしたと申しまして。布団に臥せっておりますの」 「そうですか。ではお大事に」 そして刑事が帰った。冬子、急いで部屋の奥に向かった。 「弥生、どうなの」 「……全部吐いたから。もういい」 「お腹は」 「痛い……まだ入っている」 お手洗いの前。蓮が通った。 「どうした。刑事がきたんだろう」 「例の手荷物事件よ。弥生はあの男にもらったチョコレート食べて、お腹を壊しているのよ」 「病院は?」 「行けるわけないじゃない。あの子は恵のふりをしている時に、あの男に会ったのよ」 蓮。冷たい顔で妻を笑った。 「食い意地を張っているからだ」 「なんてことを」 「ははは。これで少しは痩せて、恵に見えるかもな」 「あなた、ひどいわ」 蓮。嘲笑い店先に進んだ。 美しい姪、恵。自分の醜い娘がそのフリをしても所詮猿真似。その愚かさに笑えてきた。 店先に出てもあの姪はいない。いるのは愚かな娘と強欲な嫁。しかし、それを作ったのは自分、姪を追い出したのも自分。全て自分の責任。 「あ、旦那様」 「おう。どうだった?御用聞きは」 「へえ。大使館の人に、こんなに注文を貰いました」 「ありがたい。早速届けてくれ」 貸しボート屋の少年の助言の通り、注文が入った蓮。今はただ、店を守ろうと、心に決めていた。 六 悲しき星の下 完
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