六 月に省みて

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六 月に省みて

大使館員のパーティーにたくさんお呼ばれしてしまった玲二。このため自身もパーティを開かなくてはならなくなった。 しかし。仕事のために滞在している玲二。そんな予算は大学から出ない。出費は彼の懐からになる。大学の助教授でありそれなりの給料をもらっているが、なるべく予算をかけたくない気分。玲二はそう思っていた。 「玲二さん。ちょっといいですか」 「なんだ?恵」 「お料理のことなんです」 使用人の恵。自分で想定した内容を紙に書いてきた。 「どれ、座りなさい。詳しく聞こう」 「失礼します」 大学の助教授の桐嶋。学生の話を聞くように隣に彼女を座らせた。 「まず。参加人数ですけど。おそらくこんな感じです」 「そうだな……今までの大使館のパーティーもこの規模だ」 夜の湖が見えるイタリア別荘。黒く佇む湖面。玲二、映る月にため息をついた。そばに座る恵。そんな彼にさらに続けた。 「お料理はこう、大皿に盛って。各自で取る立食です。他のパーティーもそうでしたでしょう」 「ああ」 玲二、肘をついて真剣な恵を見ていた。 「そしてですね。お酒は今までの頂き物で賄いましょう」 「ああ」 ……ずいぶん。真剣だな。 玲二、用紙ではなく恵を見ていた。 「強いお酒もありますので。氷をたくさん使って、ここは嵩を増やしましょう」 「ああ」 ……髪も伸びてきたし。これで長かったら、相当な美人だな。 「そしてですね。お酒のつまみなんですけど」 「ああ」 ……熱心だな。それに、ちょっと楽しそうだ。 「……ナミさんが、ここは協力してくれるので。後は」 「ああ」 「玲二さんの服ですけど、僕の思うには」 「ああ」 「……玲二さん。あの」 「ああ」 ……さっきから。私を見ているんだけど。 恵。その熱い視線に耳たぶが熱くなっていた。 「玲二さん、話を聞いていますか」 「ん?聞いているよ。ナミさんだろう?」 ……やっぱり……ちゃんと聞いてない! 彼のためにずっと悩み、考えていた恵。珍しく頭にきた。恵は使用人。確かに彼は忙しいが、恵だって忙しいし、不明なことが多い。それでも彼のため必死に考えている。なのにこの無反応。恵、疲れもあり頭にきてしまった。 「玲二さん。読んでおいてください」 「あ?ああ」 「僕は寝ます」 「お、おやすみ」 恵。ペコンと頭を下げて部屋を出た。玲二、どこか呆然としていた。ここに風呂を済ませた中田が部屋にやってきた。濡れた髪を拭きながら、中田は玲二を見た。 「先生、どうしたんですか?」 「いや?その。恵と打ち合わせをしていてな」 頭をかく玲二の手元の書類。中田、嬉しそうに笑った。 「ああ。それ。恵君、一生懸命考えてましたよ。俺も相談に乗ったんです」 「お前が?」 「はい。よく出来てますでしょう。ええ、とここかな?レコードの曲の候補。いい選曲ですよね」 「こんなことまで」 恵の立案。しかもこの書類はよく読むと綺麗にまとまっていた。玲二、中田に尋ねた。 「これは、お前が書き方を指導したのか」 「いいえ。恵君の実家って。あの京極屋ですよね。あそこにいた時に、取引業者とのやり取りで、これくらいのことはやっていたみたいですよ」 「そうか」 中田は恵を女と思ってない。ただ京極屋を追い出された使用人と思っている。しかし今はそんなことを言っている場合ではない。玲二はそんな恵の必死の提案をおざなりにしてしまった。彼はこれに頭を抱えてしまった。 「中田よ」 「先生?」 「俺は恵がこんなに真剣に考えていてくれるとは思ってなかったんだ」 「……先生って。そういうところありますよね」 研究助手の言葉。今、グサと胸に刺さった。 「俺、先生とこんなに一緒に時間を過ごす事なかったんで、よく分かりませんでしたけど。先生って、やっぱり優秀ですよ」 「今はそんな」 「いいから聞いてください」 中田。玲二のウィスキーを片手に玲二と自分にグラスに注いた。 「俺、東京大学に入りましたけど。頭の良い人にも種類がある事を知ったんです」 「種類」 「はい。俺の私見ですけど。本当の天才と、ものすごく努力してこの大学に入った努力家のです。俺は努力家です。だって、天才の人がわかるから」 「……俺は別に天才じゃないぞ」 「桐嶋助教授が天才じゃないわけないじゃないですか」 中田、夜の湖を見た。 「俺なんか。いつも天才の人について行くのが必死で、ついていけない時があります………でもその時、思うんです。天才の人って、凡人のそういう気持ちがわからないだろうなって」 「そんな事ないさ」 「綺麗事はいいんです。先生。天才はそれだから天才なんです。凡人と違うのはそこ。だから素晴らしい研究に没頭できるんだって。先生を見て思いました」 中田の力説。玲二はじっと聞いていた。 「なので他者への思いやりとか、研究以外に興味ない感じなんですよ」 「では。俺は『人でなし』ではないか」 「そうならないために。俺のような努力家がいるんですよ」 中田、玲二を見た。 「先生……恵君は女の子ですよね」 「お前?」 湖を背にし、青年は悲しく微笑んだ。 「あの雨宿りの日に。先生をこの屋敷に入れたせいで。彼女は罰として、頭を丸刈りにされた……先生はこれを知り、責任を感じて彼女を雇った」 「中田」 「……そして。女の子を雇うには誤解を受けるので。短い髪を理由に男の子として雇い入れた。違いますか?」 「そうだよ」 玲二。グラスの酒を煽った。ここまで知られては隠しようがなかった。 「いつから気づいていたんだ」 「……俺が湖に落ちた時。っというか。あれで確かめた次第で」 「はあ結構初めだな?」 「すいません」 二人。微笑んだ。 「すまん。君を騙すつもりはなかったんだ」 「いえ。俺も先生ならそうします……恵君を思ってのことですから」 グラスの氷がころんと融けた。 「それに恵君も。先生を想ってる……羨ましいっすよ」 「そんなことは」 「先生、俺は何もいう立場ではないです」 中田、そっと立ち上がった。 「ですが。俺にとっても恵君は大切な友というか、可愛い後輩のようなものです」 「中田」 その目。真剣だった。彼なりに恵を思っていること。玲二は知った。 「なので。どうか。これ以上、彼女を傷つけないでください。俺の願いは、そだけです」 「ああ。わかった」 「俺はこのまま。知らんふりで東京に帰ります。では、おやすみなさい」 鋭い助手はそう言って寝室に消えた。玲二、窓から一人、静かな夜の窓の外を見た。 中田も恵も。素晴らしい人柄である。玲二、月を見上げた。 ……はあ、反省だ。 恵をおそろかにしたわけではない。中田を下に見たわけではない。玲二は仕事になると夢中になり、それゆえに厳しくなる。己の弱点であり、強みであった。 だが、今はかなり凹んでいた。 「玲二さん」 「ん?恵か」 「……もう遅いですよ」 眠れず気になっていた恵。寝支度の格好で玲二に向かった。 「そうだな。なあ。恵、さっきは悪かったよ」 恵の目には月明かり背後にする玲二が見えた。 「いいえ。玲二さんが怒ることなんてないです」 「恵……こっちにきてくれないか」 玲二。隣に恵を置き、二人で月を見上げた。寝巻き姿の恵、生地の薄い帽子をかぶっていた彼女、女の子に見えた。 「玲二さん……綺麗ですね」 「ああ。綺麗だね」 月光の恵。黒髪は見えず白い肌、頬はピンク色。小さい鼻はツンとして、小さい耳が愛らしい。 この桃色の唇。長いまつ毛。優しい声、健気な女の子は男のふりをして暮らしている。 ……ああ、この彼女を愛しいと思ってしまうのは私の大いなる罪だ。 しかし。好きにならずにいられない。傍の彼女の細い肩、玲二は抱き寄せた。その耳には中田の声がリフレインしていた。 「恵。私はお前を不幸にしているね」 「酔ってますよ。早く寝ましょう」 「聞いてくれ、恵」 「玲二さん。静かに聞いて、湖の音を、ほら?」 彼女はそう言って玲二に寄り添った。玲二、その細い肩を抱いた。 「ああ聞こえるね」 「玲二さん……僕は、幸せです」 「ありがとう、俺も、しあわ、せ……」 そうして玲二も寝てしまった。恵、優しく肩をだき、彼のベッドに連れて行った。 秋の気配の湖。恵、ベッドの彼に布団をかけた。 ……私のせいで。こんなに苦しんでいる。早く玲二さんを東京に帰してあげたい。私のことなど、思わないように。 玲二の苦悩を知る恵、静かに優しく、彼の部屋の明かりを消し、ドアを閉めた。 七『月に省みて』 完
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