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七 心の人
「玲二さん。そういえば先日の弁護士先生がありがとうって電話がありました」
「それは良かった。なあ、恵。ちょっと見て欲しいんだ」
書斎の玲二。手書きの資料を広げた。
「これは。玲二さんの本ですか」
「まだ下書きだけどな」
毒草から発展し。玲二は日光にある日本の固有植物とその虫の関係について調べていた。彼はこれを本にまとめようとしていた。
「お花と……昆虫の説明もあるんですね」
「ああ。可能な限りこの昆虫も集めたよ。ほとんどが有田さんだけど」
「すごい……この花にはこの昆虫が関係しているんですね。いいな」
「いいな?」
恵の思わぬ本音。玲二、恵を見つめた。
「どう言う意味だ」
「どうって。その。そのままです。決まった相手がいるんですもの」
「決まった相手」
「はい。ロミオとジュリエットみたいで」
「恵。彼らは一週間で結婚するが、その後は悲劇なんだぞ」
恵。寂しい顔をした。
「……そうですか。そんなに短く」
彼女の憂いの顔。玲二、思わず止まった。
「恵。あのな」
「玲二さん……ここ。間違ってる気がする。見てください、ここ」
「ど、どれだ」
彼女の指摘。玲二は素直に受け止めた。玲二。有田老人と中田の協力により今までにない研究になる手応えたがあった。早く発表したい気持ち。それに反し、まだここにいたい気持ちもある。
後ろ髪引かれるとはこのことか。髪が伸びてきた恵。玲二は心が揺れていた。
帰るまでに行う予定のパーティー。これは奇しくも自分のさよならパーティーになりそうだった。
すでに招待状を配布し、多数の参加の返事をもらっていた玲二。帰り支度は着々と進んでいた。
そんなパーティーを控えた三日前。突然、彼女がやってきた。
「玲二さん!」
「華子か。どうしてここに?」
玲二の婚約者の華子。白いワンピース姿で嬉しそうに頭を下げた。
「ごめんなさい。一度でいいから。来てみたかったの」
「しかし。ご両親は?」
「無理を言って。乳母にも来てもらいましたの」
華子の背後には着物の老婆がいた。
「玲二様。お久しぶりでございます」
「どうも。ご無沙汰しております」
幼馴染の玲二。彼女にもとりあえず会釈をした。
「それにしても。素敵な別荘ね」
「……まあな」
……どうしてここまでやってきたんだ。
嬉しそうな婚約者。しかし玲二はなぜか腹が立っていた。その理由は彼にもわからなかった。
「その荷物は?」
「ああ。お土産よ、うわ?綺麗、なんて素敵な景色でしょう」
窓辺に駆け寄る華子。花がついた帽子にワンピース。薄化粧の顔に長い黒髪。年齢よりも大人びて見えた。
「ね、玲二さんのお部屋は?御二階なの?」
「華子様。殿方の寝室を見るなど、なりませんよ」
「あら?私はそんなつもりじゃないわ」
お嬢様の華子ははしゃいでいた。この時、玲二には湖の奥から小舟が来るのが大窓から見えていた。玲二の視線にて華子も気がついた。
「玲二さん!あの舟がここにくるわ」
「あれは中田だ」
「中田さん?研究員の?でも、もう一人、男の子がいるわ」
舟から降りた二人。疲れた様子で魚を持っていた。あれはパーティーにしようする食材の魚。男装の恵は湖の生簀にそっと魚を入れていた。華子はそれよりも部屋を見て興奮していた。
「玲二さん!本当にここは素敵ね」
「華子。少し落ち着きなさい」
「……ただいまです……あ?華子さん」
研究員の中田。華子を知っていた。だがここにいて驚いた。
「いつ。来たんですか」
「さっきよ」
「ど、どうして?」
華子。笑顔でスッと椅子に座った。
「だって。今週で玲二さんは帰ってくるんでしょう?その前にここに来て見たかったんですもの」
「そうですか?いや」
「中田。ちょっと来い」
華子の来訪。玲二。部屋の隅に中田を引き連れた。
「パーティーのことだがな。華子には言うな」
「でも」
しかし。華子。部屋のテーブルにある葉書を見つけてしまった。
「あら?このお葉書って。玲二さん、ここでパーティーをなさるの?」
「お嬢様。勝手にお手紙を見るのはなりませんよ」
「でも老婆や。見えてしまったんですもの」
……おしまいだ。
大はしゃぎの華子には秘密にしたかった玲二。しかし、華子はすっかり乗る気になってしまった。そんな中、恵が部屋に入ってきた。
「ただいまです。あ、お客様ですか」
「あ?恵君」
「中田。私が説明をする!」
まだ正式に婚約をしてない。いわば婚約者候補。しかし、華子はそんなことはお構いなし。小柄な少年の恵に彼女は目を丸くした。
「まあ?可愛い使用人ね。初めまして。玲二さんがお世話になっています。私は婚約者の華子です」
……綺麗な人。肌が真っ白で。上品だわ。素敵な香水の香り。
今の恵。髪は短く日焼けした肌。ボートを洗う手は荒れていた。男装の服はボートハウスの釣り客の忘れ物を裁縫で直したもの。裸足で下駄の足。体は魚臭い。心は少女の恵。急にここにいるのが憚られた。
こんな綺麗な人が婚約者。恵、覚悟をしていたが、彼女を見て玲二がどんな暮らしをしている人間なのか、その現実を思い知らされた。彼らは手を届くような、声をかけてはいけない、一緒に空気を吸うのも許されぬ雲の上の人。
真っ暗な目の前。しかし、それを表に出してはいけない。必死に声を出した。
「こちらこそ。旦那様にはお世話になっております」
頭を下げた恵。本当は泣きそうだった。しかしそれは深く被った帽子が隠してくれた。
「僕。お茶を淹れてきます」
「あ。恵!」
呼び止めた玲二。背を向けた恵。これを隠すようにスッと間に入ったのは華子だった。
「ねえ。それよりも玲二さん。そのパーティーとはどう言うものなの?私も出てみたいわ」
「中田。説明してやってくれ。私は書斎にいる」
そう言って。実際の玲二はキッチンに顔を出した。そこでは恵がお湯を沸かしていた。
「恵。急ですまないな」
「いいえ。それよりも、婚約者さんはお泊まりですか」
「それはない。あれは急に来たんだ」
「では。お夕食は」
「知らん。すぐに旅館に帰すから」
「そう、ですか」
帽子で見えない恵の顔。玲二はハラハラしていた。
「なあ、恵」
「玲二さん。僕のこと、気にしないでください」
「恵」
ヤカンの湯気。恵は見ていた。
「先生は、もうすぐ東京に帰るんですもの。婚約者さんと、素敵な思い出を作って欲しいです」
「お前。それは本音でそう言っているのか」
恵。玲二を見上げた。涙を忘れ、にっこり笑って見せた。
「はい。僕にとっても、ここで過ごすのは最後になりそうだし。だから。せっかくだし、思い出になるように、したいんです」
ここで。華子が呼ぶ声がした。玲二は渋々ダイニングへ戻った。
……いいのよ。これで。僕は、この夏の思い出だけで。
彼と過ごした別荘の夏。恵は愛する彼のために。最後のパーティーを成功させようとそれだけを願っていた。
ヤカンの湯気が白くする台所の窓。その向こうは悲しい現実。今のこの別荘は夢の世界。恵はガスの火を止めた。
夏が過ぎ、湖面の風は秋の色。恵の悲しい初恋を知っている中禅寺湖は、ただ静かに彼女を見つめていた。
八「心の人」完
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