三 鍵

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「自分はあの少年がどうも不思議でして」 「先生……それは、どういう意味ですか」  政は大汗をかいているが、玲二はまっすぐ答えた。 「声です」 「声?」 「はい。話し方もそうですが、お茶も同じです。あの時の娘さんが淹れてくれたハーブティーと同じジャスミンの香りがしましたから」  ……確証はないが、どうだろう。  玲二は勘を頼りに勝負に出た。政は黙って酒を飲みながら聞くだけであるが、玲二はさらに語り続けた。 「今回、私はあの時の別荘の娘さんに雨宿りの礼を言いたかったんです。それに、今回この別荘を借りた理由は、彼女に手伝いを頼もうと思ったのもありまして」 「そうでしたか……まずは一献」 「これはどうも」  政は挨拶がわりに日本酒を持ってきたが、玲二に注ぐと手酌で飲み出した。 「はあ……実はですね。内密にお願いしますが、あの子は確かに、そうなんですが。その……最近、家を出されましてね」 「家を?」 「……はい」  政は玲二を別荘に招き入れたせいとは言わなかった。 「色々ありましてね。まあ、複雑な事情なんですよ」 政が語ったのは、恵が母親に見捨てられた娘であること。育ててもらった京極屋の家を出され密かに政の家に住んでいる事だった。 「あの娘が何かしたわけではないのですが、相手の虫の居所が悪かったんでしょうね。でも、あの娘も十六歳ですし、割り切ってますので」 「十六歳、か……」  玲二は思わず酒を飲んだ。政はうなづいた。 「うちは毎年、この時期に仕事で若い者を雇っていましたので、こうして置いている次第で」 「それはわかりました。ですが。男の(なり)をしている理由がわかりません。家を出されたのであれば、何もそこまでせずとも」  玲二は首を傾げたので政は酒をぐっと飲んだ。 「(めぐみ)さんは、家を出る時、髪を切られてしまったんですよ」 「髪を」  ……あの帽子!? そうだったのか。  女は髪を長く伸ばしているものと思っていた玲二は、突然の話に息を呑んだ。 「そ、それはなぜに」 「うちの家内が言うのは、あの娘の黒髪が綺麗でしたので(うと)まれたのではないかと」  ひどい話を知った玲二の背中はゾッとした。玲二は額の汗を拭う。 「切られたとは、それはその、こう、肩くらいですか?」 「いいえ。私が見た時はハサミで無造作に切った。虎刈りですよ」 「虎刈り? なんと、酷い……」  玲二自身も肩まで伸ばしている髪である。この髪を無惨に切られた少女の悲しみに思わず玲二は苦しくなった。政は話を続けた。 「あの娘は頭を刈られて、この湖に姿を浮かべて泣いていたんですよ。私の妻は見かねて丸坊主にしたんです。その方が伸びた時、綺麗ですからね」 「では……少年のふりをしているのは」 「前の家の者に対して変装も兼ねていますが。髪が伸びるのを待っているんです」  ……十六の娘が? なんて悲しいことだ。  他人の話なのに玲二は思わず頭を抱えてしまった。すると元気な声がした。 「先生。俺、味噌汁すごく上手にできました! あとは卵も焼いてみます」 「ああ、どんどんやってくれ! でも政さん。あまりにも不憫ではないですか」  中田が去った部屋は静かになった。政は夜の湖を見た。 「まあ、あれでも……少し伸びてきましてね。元気になってきたんですよ。本人は髪が伸びたら他所に行って仕事をしたいそうで。まあ、この夏で髪も伸びるでしょう」 「そういう事ですか」 「先生。お分かりと思いますが。どうか、彼女のことは内密に」  政は頭を下げた。玲二はとんでもないと手を振った。 「もちろん。うちの中田にも言いませんよ」  こうして話を終えた二人であるが、政は頭を下げ帰るといった。玲二はだんだん屋敷を楽しみ始めている中田を無視し、一人外に出て湖畔の月を見た。  ……悲しい生まれなのはわかった。しかし、追い出される時に髪を刈るとは……よくもそんな残酷なことがよくできたものだ。  今日、屋敷に挨拶に行った時の京極商店の女将と娘。化粧の女将とお茶を出した娘が健気な娘の髪を刈ったという残酷な話である。玲二は恐ろしさに首を横に振るしかなかった。  ……なのに。彼女は笑顔で私にあんな対応を。  帽子の少年姿の優しい笑顔を思い出しながら、玲二はベッドに入った。  ◇◇◇  翌朝。霧の湖の風に玲二は目覚めイタリア別荘のコテージに出た。 「なんだ?」  テーブルに紙袋が置いてあった。メモには『おはようございます。朝食にどうぞ。貸しボートより』とあり、サンドイッチが入っていた。  ……綺麗な文字だな。  丁寧な万年筆の文字は、玲二には帽子の彼女の文字のような気がした。これを食べながら中田と早速、荷解きに取り掛かった。黙々と作業する二人の時間はあっという間に時が過ぎていた。 「先生。腹が減りました」 「もうそんな時間か? くそ」 「俺。そうめん茹でてみます」 「任せる。私は書斎にいるから」  二階の小部屋。ここを書斎にした玲二は東京から持ってきた資料を広げていた。  来る前は面倒だと思っていたが、実際の森を見て研究意欲が湧いてきた。この日、昼食はそうめんを食べた二人は食べながらもう夕飯の心配になった。 「先生。米が食べたいですね」 「……外食か。しかし、荷物が全然開けられないぞ」  食べ物の用意ばかりの男二人に、この夕刻は帽子の彼女がカレーを作ってきてくれた。二人は白米をなんとか炊き、これを食べた。  翌朝。湖畔のテラスで深呼吸をしていた玲二は、また湖畔のテーブルに紙袋を見つけた。  中にはフランスパンにハムやサラダを挟んだものが入っていた。これを玲二は中田と一緒に食べた。 「うまいですね。先生」  むしゃむしゃ食べる中田を玲二はじっと見た。 「……中田よ。お前、どう思う」 「何がですか」  玲二はぱくとパンを齧った。 「俺達、ここで自炊できると思うか?」 「先生……俺も今、それを思っていました」    それは無理だと確信した二人は、食後、車で赤い三角屋根の貸しボートに向かった。 三話 完
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