3963人が本棚に入れています
本棚に追加
四 帽子の女の子
「ナミさん、置いてきたよ」
「まあ、あの人たちはまだ来たばかりで疲れているだろうね」
湖畔にある貸しボート屋。小舟で帰ってきた帽子の女の子。恵という名前であるが、それでは京極屋の娘だと知れてしまうため政は恵と呼ぶことにし、男の子として扱っていた。
刈られた髪があまりにも無惨だった恵は、結局、ナミにバリカンで丸刈りにしてもらった。まだ鏡が怖いが髪は今は綺麗に伸びてきた。
恵としては京極屋を追い出されたなら、湯本温泉の有田旅館に仕事に行こうとしたが、この髪ではとても人目に出られない。そこでこの夏、政の勧めで髪が伸びてから動くことにした。
それまでの間。恵は男の子してこの夏の貸しボートで働かせてもらうことにした。実家への変装もあるが、釣り客は男ばかりである。女扱いされるよりは少年として仕事をした方が都合が良さそうだった。
政とナミは老人二人暮らし。湖畔には別荘があるがこの季節、住んでいるのはこの夫婦だけである。
この時期は釣り客が来て、貸しボートは大忙し。予約の舟の用意、そして貸し出し。さらには使用済みの舟の掃除。力仕事ばかりの毎日はきついこともあるが、それは清々しい疲労である。京極屋の時の精神的な苦痛に比べれば雲泥の差のため恵は毎日綺麗な汗を流し楽しく過ごしていた。
そんな時、あの時の雨宿りの大学の先生が来た。恵はイタリア別荘を借りる人とは思いもよらず、しかもてっきり使用人を伴って来ると思っていた
……何のお仕事かわからないけど。あの別荘でやって行けるのかしら。
昨夜。玲二の別荘から戻った政。彼は恵の正体に気付いていると打ち明けた。恵としても玲二の態度でこれを感じていた。
……私は京極屋を追い出されたから、例え見つかっても連れ戻されることはないし。
心配なのは匿ってくれている貸しボートの老夫婦のことである。彼らに京極屋が意地悪するのだけが怖かった。なので早く髪を伸ばし、早く出て行きたかった。
霧の朝、湖畔の寒い風。恵は服の襟を当て、ボートの手入れをした。
◇◇◇
「こんにちは。お世話になっています、桐嶋です」
「はいはい。先生。どうだった? 眠れたかい」
午前中。貸しボート屋の老婆ナミの笑みに玲二と中田は苦笑いをした。
「僕も先生も、静かすぎて。寝過ごしました!」
「ははは」
「ところで。政さんは?」
玲二が尋ねると政は裏手でボートの手入れをしていると言う。他の客が今はいない時間。二人は岸辺に顔を出した。
桟橋、停泊している船、釣りの道具。その中に帽子の彼女を見つけた。
……いた! 本当に男の子として仕事をしているんだな。
考えつつ桐嶋と中田は挨拶をした。
「おはようございます」
「どうもです!」
岸の砂浜。歩く桐嶋と中田の挨拶に二人は振り返った。
「ああ。どうも」
「おはようございます」
歩み寄る玲二は湖の風に寒さで上着の襟を立てた。
「はい。今朝の……サンドイッチ、ありがとうございました。美味かったです」
「そうですか」
「お口に合ってよかったです」
政と帽子の少年の微笑みを前にした玲二は思い切って打ち明けた。
「あの、実は君に頼みがあるのだが、できれば、あの別荘の手伝いをしてくれませんか」
「手伝いとは? 買い物とかならやりますよ」
「はい。舟でお届けしますよ」
政の返事と帽子の恵は不思議顔で返事をしたが、玲二はそうじゃない、とと恥ずかそうに頭をかく。
「いや、できれば家事全般です。私たちは仕事があるので、おそらく家のことはできないので」
「家事全般ですか。これは、どうしたもんかな……」
政の思案顔で腕を組んだ。恵は政の弱り顔を見て胸を痛めていた。
……そうだよね。私が手伝えればいいんだけれど、邪魔になるだろうし。
遠慮する思いの恵は俯いていたが、玲二は真顔で帽子の恵を見た。
「なので、君に頼みたいんだ。どうかな」
「僕ですか?」
驚く恵に政は静かに彼女に語った。
「……恵……実はね。先生はお前のことを知っている。これはお前が自分で返事をしなさい」
「は、はい」
……でも、どうしよう……確かに手伝いをしたいけれど。
恵が悩む様子を見た玲二は動いた。
「中田。彼の代わりに政さんの仕事を手伝え」
「俺ですか? ええと、手伝います! こっちですか」
恵は女の子であり、男のふりをしていることを知らない中田に玲二はそう言い、彼と政を湖の方に行かせた。
二人だけの岸辺。足元にはさざなみが届いていた。玲二は静かに彼女を見つめた。
「君が……やはりあの時の雨の日の別荘の娘さんなんだな」
「すみません。黙っていて」
帽子から見える短い髪。細い首、白いうなじ。事情を知った玲二は小柄な彼女を見つめた。
「改めて礼を言う。あの時は本当にありがとう」
「いいえ?! あんなことしかできず、申し訳ありませんでした」
恵は思わず気の毒なくらいに頭を下げた。玲二は幼いと思ったが彼女はしっかりしていた。
……この娘が、髪を切られるような悪いことをするのか?
ここで玲二は胸騒ぎがした。
……ま、まさか? いや。ありあえる。彼女は、俺を家に入れるのを拒んでいたじゃないか。
玲二に心のざわめきが押し寄せる。彼はこのさざなみに逆らうように恵に告げた。
「もしかして……その髪は、私のせいか」
「いえ? ち、違います」
……ああ。やっぱりそうだ。
礼儀正しく、仕事熱心。細かいことによく気がつく娘。親切で人当たりが良い雰囲気の恵の動揺を玲二は気がついた。
玲二は大学で教鞭を取る仕事であり、人を見る目はあるつもり。十六歳の小娘の嘘を見抜いた。
「先生のせいじゃありません」
「いや、そうだ! だから、君は私に切られた理由を話さないのだろう」
「先生……」
恵は涙を抑えた顔で必死に訴えた。
「もう良いんです。私もそろそろ家を出ようとしていたので」
「しかし、その髪は私の責任だ」
玲二はそう言って歩み寄り、その手を握った。
……なんと細い。しかも、この不幸は俺のせいか。
責任というよりも鈍感な自分に腹が立った玲二は怯える彼女を見つめた。
「本当にすまなかった。だから、お詫びと言ってはなんだが、君に仕事をあげたいんだ」
「仕事?」
「ああ。だからこの別荘の手伝いをしてくれないだろうか? 給金を出すから」
「給金。私にですか」
「ああ」
玲二はうなづいた。恵はその苦しそうな顔を見つめていた。
この短っくなってしまった髪に彼は責任に感じている様子である。だから自分を雇い、給料をくれようとしていると理解した。
……真面目な人なんだわ。それに、思い詰めているみたいだし。
優しさというよりも。償いの雰囲気である。恵は彼に申し訳なくなっていた。
「そんなに構えなくていい。私もこの夏しかいない。その間に、君の髪も伸びるだろう」
「髪が伸びるまで……」
……そうか。髪が伸びるまで、それに、この夏だけなら。
恵は繋いでいたもう片方の手で彼の手を包んだ。了解の意味で温もりを示した恵が感じたのは、玲二の大きな手の優しさだった。
「わかりました。お手伝いさせてください」
これは給金目的というよりも玲二の心の負担を減らすため。それに恵はそもそも玲二達があの別荘で暮らすのは大変だと思っていた。
そんな恵に玲二は嬉しそうに微笑んだ。
「よかった! 私は、桐嶋玲二だ」
「野々村恵です。今は恵と呼んでください」
「恵でいいんだね? よろしく」
「はい。先生」
すると彼の顔が歪んだ。
「先生はちょっと……私生活では休みたいな」
若い娘の先生呼びに玲二の困り顔に恵は、一瞬、考えた。
「すみません……では、桐嶋さんで」
「それもちょっと」
「では、玲二さん、でよろしいですか?」
小首を傾げるくるくるした瞳に玲二は微笑んだ。
「それで良い」
「はい! では玲二さん」
そう言いながら恵はボートの綱を引こうとするので思わず玲二も手伝った。この後、玲二はまたしても中田に車を預け、恵の白いボートに乗せてもらった。
「ところで。君の事情は分かったんだが、うちの助手の中田には君が男の子だと思わせておこうと思う」
「『敵を欺くには味方から』ですか」
「ああ。それに君は若い。変な誤解を受けるのはお互い避けたいだろう」
事務的な声の玲二に就職した気分の恵は納得した。
「はい。わかりました」
晴れて来た午後。恵は紹介ついでに湖を回った。誰もいない湖を静かに進んでいった。
「それにしても。静かだな……」
「今だけですよ。もうすぐ他の別荘にも人が来ます。そうするとお店も始まるので、便利になりますよ」
「なんだ。せっかくこんなに静かなのにな」
玲二はボートから手を出し、そっと水を触った。水紋を描いている玲二に恵は声かけた。
「……玲二さん。僕はお食事と掃除、洗濯などでいいですか? ボートの仕事の空いた時間に行きますので」
「ああ。君の自由でいいさ。それにしても……気分がいいな」
玲二はボートにゴロンと仰向けになった。
……湖と空と雲と、静かさか。
それしかない夏の湖を恵は静かにボートを進めた。玲二は今回の仕事の話を呟くやくように語った恵は黙って聞いていた。
「そうですか……植物のことなら有田旅館の大旦那様に相談すると良いですよ」
「専門家か?」
恵は首を横に振った。
「というか……温泉組合の理事長をされていたんですが。今は息子さんに譲って毎日山に山菜取りに行っている元気なお爺さんで。山の達人ですね」
「そういう人の方がいいな」
玲二はがばと起きた。するとボートが揺れた。
「おっと?」
「危ない! 玲二さん!」
抱き留めてくれた恵の身は細かった。揺れるボートは危うく転覆しそうだった。
「おお? びっくりした」
「もう平気です。玲二さん、急に動かないでくださいね」
こうしてボートはイタリア別荘に着いた。別荘の船着場に停泊し先に玲二だけ降りた。頭は仕事に夢中の様子だった。
「そうか……では。その大旦那さんに挨拶に行ってみよう」
「お酒は飲まない人なので、手土産にはどら焼きかお饅頭を」
「ははは。そうするよ、おっと。帰りは気をつけてな」
「はい」
玲二はすっと手を挙げ恵を見送った。少年の姿の恵のボートは去って行った。中の別荘では中田が料理に奮闘していた。
「先生。見てください。俺、茶碗蒸しを作りました」
「食べるから! それが済んだら計画を立てるぞ」
昨夜は恵のことを責任に感じた玲二であるが今は心が晴れていた。
……まあ、俺も助かるし。これで仕事に専念できるな。
自分のせいで髪が短い女の子。彼女を雇うことで救えたら良い。玲二はそう思っていた。
◇◇◇
桐嶋玲二。桐嶋家の次男であり、東京大学の助教授である。植物、特に毒の研究をしている。大学の研究所での白衣姿。薄い髪の色を一纏めの、白い肌。美麗な姿に女学生が写真を撮るくらいの人気があった。
しかし当の本人は仕事人間。全く女性に興味がなく、ここまでやってきた。
そんな玲二には婚約者がいるが、親が決めた昔話であり彼から動く気はなかった。それでもいつか身を固めるのなら、理解力のある家庭を任せられる女性がいいと思っていた。
今回の日光の植物研究。最初は面倒と思っていたが、やはり現場は良い。自然に囲まれたこの湖畔で玲二は楽しくなっていた。
そんな玲二は中田に恵を雇うと話し、二日目の午後、有田旅館を訪れた。
「へえ。東京の先生か。わしに何の様なんだ?」
持参したどら焼きを嬉しそうに受け取った有田老人。名刺に目をキラキラさせた。
「ご主人は山歩きが趣味と聞きまして」
「ああ。しょっちゅう行っているよ。なんだ、山菜かい?」
玲二と中田は説明した。有田はなるほどとうなづいた。
「そういうことか。話はわかった」
「なのでご主人に。観察する道を指南していただきたいのです」
「こちらも闇雲に行くよりも。知っている人に聞くのが一番と思いまして」
玲二と中田のお願いを彼は気前よく返事をした。
「いいよ。俺、暇だし?」
旅館の裏手、源泉の湯気の中の立ち話で有田の玲二は協力約束をもらった。その帰り道、車で紅葉旅館の前を通った。
「ここか」
「なんですか」
「……嫌? なんでもない」
……俺は別荘に入ったと言う話は。おそらくここで話してしまったんだろうな。
玲二は苦々しく紅葉旅館を見た。恵が留守番の屋敷に入った話はここでしかしてない。証拠はないがそれしかないはずであった。玲二は停車していた京極屋のトラックを忌々しい気持ちで見ていた。
恵の正体を言わない玲二はそっと前を向き車を進ませた。そしてイタリア別荘に帰ってきた。
「ただいま、あれ? 先生、いい匂いがしませんか?」
「……お前には『味なし茶碗蒸し』が残っているだろう」
「先生!? ひどいです」
「おかえりなさいませ」
不在の時、料理をすませ待っていた恵。男装のエプロン姿の頭はやはり帽子をかぶっていた。
「玲二さん、上着を。中田さんもお預かりします」
「ああ」
「すごい! これ恵君が作ったの?」
ダイニングテーブルにあった洋食のオードブル。二人の男は目を丸くした。
「はい。今夜のメニューは『ニジマスのステーキ』と、『新鮮ネギのサラダ』と」
「食べるぞ」
説明を聞かずにテーブルに着こうとする玲二に中田が待ったをかけた。
「先生、その前に手を洗わないと」
「ふふふ。お料理は逃げないですよ」
二人の様子を恵は微笑み夕食になった。イタリア別荘のダイニングテーブル。食器も舶来品であり水が入ったグラスもこれだと美味しく感じる彼らはテーブルランプの灯りの元、食事を進めていた。
「うまいな? これ」
「政さんが釣ったニジマスです。塩コショウとレモンだけなんですよ」
「いや……先生。俺、泣けてきました」
中田はあまりの美味しさに泣き出したので、玲二も恵も笑った。
「玲二さん。お酒はいかがですか?」
「今夜は仕事が……いや? 少しだけもらうとするか」
玲二もこの美味しさを知り酒なしではもったいないと思った。恵にお猪口を出した。
「どうぞ。日光の酒蔵の一番搾りです」
注ぐ恵の優しさに玲二は嬉しくお猪口を出した。
「……香りがすごいな……うん! うまい」
「あの。俺もいいですか、一杯だけ」
中田はそう言って湯呑みを差し出した。恵は驚きで手が止まる。
「湯呑みですか? いっぱい入りますけど」
「ダメだ。恵! こいつにそんなにあげるな! こいつはすぐに眠くなってしまうんだから」
「それは先生もそうじゃないですか」
「うるさい、とにかくダメだ」
……本当に仲がいいのね。
「ふふふ……ははは」
別荘の窓には暗い湖には月が浮かんでいた。静かな別荘地、古い屋敷、そこには三人の笑い声が響いていた。
これから始まる夏の物語。日光の中禅寺湖は優しく漂っていた。
四話 『帽子の女の子』 完
最初のコメントを投稿しよう!