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五 可愛い娘
「な、なんだ? この髪は……」
蓮が部屋に入ると畳の部屋には一面に黒髪は無造作に広がっていた。まるでおばけ屋敷のような世界で、弥生は嬉しそうに手に髪を握っている。恐ろしさに真っ青な顔になった蓮は思わず口に手を当てた。
「ど、どうしてこんなことに」
「ふふ……お父様。恵はふしだらなので、弥生が懲らしめてあげたのよ」
「だからって、お前、これは……」
やりすぎだろう、という言葉も言えないほど、彼は娘の狂気を感じた。そんな蓮がゾッとした背後で、冬子は平常の顔で箒を持ってきて掃き始めた。
「まあ、良いではないですか、おかげで厄介者がいなくなったのですから」
「いないって、まさか。追い出したのか? 私がいない時に勝手に」
妻と娘には、その気配が確かにあった。日頃から恵を虐めていることは彼も重々承知していたからである。
……しかし、髪を切って追い出すとは。なんと酷いことをしたんだ?……
恵は確かに厄介者であったが、実妹の娘である。さらに蓮からすれば亡くなった母の面影を残す美しい姪だった。それが嫁と娘が気に入らない点だとも知っていた。
それに恵には何も落ち度はない。母に捨てられた可哀想な娘であった。そんな恵はこの京極屋を彼女なりに支えてくれていた。このため蓮は恵が成長し出て行く時は仕事を見つけてやり、金も持たせるつもりで用意までしていた。
……それなのに、この無惨な追い出し方をするとは。
淡々と掃除をする冬子と弥生の狂気に、蓮は震える声を抑えて言い放った。
「警察ごとはたくさんだよ? 私は向こうで帳簿をつけているから」
無言の女の怨念から逃げるように蓮は恵が折檻を受けた居間を去った。これに反し、黒髪に汚れた娘の弥生はすっかり婚約に浮かれていた。
……お婿さんに来てくれるのよね。ふふふ!
見合いの相手は婿に来てくれる話であった。嫁に行かず実家で両親に甘えて暮らせる未来は弥生にとって理想である。弥生は見合いの席、彼が恥ずかしそうにずっと俯いていたことを思い返した。弥生は自分の美貌のせいで彼が直視できずにいたと思っていた。
……ええと、では恵の部屋でも確認しようかな、何か隠し持っているかもしれないもの。
弥生は黒髪を母に払ってもらうと、廊下に出た。憎い恵を追い出した彼女は、鼻歌まじりで恵の部屋に入った。そこには恵のものはなく、駆け落ちした恵の母親のものだけだった。古い鏡台は布が掛けられていた。
「鏡か……お馬鹿さんね? こんなもの、恵の醜い顔を映すだけなのに」
弥生は親に溺愛されており、自分が美しいと思っていた。人には肌が綺麗と言われ、見かけにかなり自信があった。それに反し、恵は不細工だと信じていた。
通った学校は母がいつも送迎してくれた。友人はいたが、いつも自分から誘わないと遊んでくれないのが不思議であった。弥生はこの理由を自分が美しいので友人が羨んでいると、受け止めている。そのため友人と遊ぶ時のお茶代は自分が振る舞うことにしていた。
そんな弥生は、今は花嫁修行中でお茶や生け花を習っていた。しかし、不器用な彼女は何をしても指示通りにできず、先生に叱られる日々を過ごしていた。
恵の部屋を見渡しながら、弥生は現実逃避の思いで、先の事ばかり考えていた。
……そうだわ。結婚が決まれば、あんなくだらないお稽古も辞めて良いのね!ふふふ。
学業も振るわず、何も取り柄のない弥生を少しでも飾ろうと両親が花嫁修行をさせていたが、弥生にはその自覚はなく、時間も金もドブに捨てたことと等しかった。
京極屋の娘として家業を手伝うべきであるが、お金の計算は苦手。さらに他の品を揃えるなど現場仕事は不器用で遅すぎた。料理もダメ、掃除もできない。できるのは、店におり、お茶を出すことだけだった。
そんな弥生は、日頃から自分と比較されていた恵が消えたことに心躍っていた。
……この部屋の荷物を捨てて。旦那様の部屋にしよう。お父様にそう言おう! ああ、仕事がいっぱいだわ。
仕事もせず、勉強もせず。暇な弥生はそんなことばかり考えていた。
◇◇◇
恵を追い出した数日後。弥生は婚約者の男性とデートになった。浮かれ気分の弥生は、張り切っておしゃれをし、彼を自宅で出迎えた。
「こんにちは。弥生さん」
「宏さん! こんにちは」
「……その格好ですか」
「おかしい?」
彼は事前に映画を観ると弥生に伝えておいた。だが弥生は派手な晴れ着を着てきた。場違い感が否めないが、弥生の両親の手前、それも言い出せず、彼は弥生を連れて町までやってきた。二人は映画を見て、その後、食事となった。
「ねえ。どうしてあの恋人達は、あの時、喧嘩をしたの?」
「え? それは、その前のシーンで、やりとりがあったじゃないですか」
入った店で料理が来る前。弥生は映画の内容を彼に尋ねてきた。
「あの時。彼女がせっかく用意していたのに、相手の男は気が付かなかったじゃないですか」
「そう? 全然、意味がわからなかったわ」
……その名シーンが面白い映画なんだけど。
弥生がこれを全く理解していない事実に男は首をひねっていた。だが弥生は会話が楽しくなり、彼に弾丸のように最近の出来事を続けた。
「それでね。お友達はその時に転んだんですって!」
「へえ」
「そしてね。友達はね」
「弥生さん……友達じゃなくて。君の話は?」
「私の話?」
喫茶店での食後の珈琲が香る席。向かいの彼の真剣な顔を前に、弥生は必死で話を思い出していた。
「そうね……私の話」
「もういいです。では昨日は何をしていたんですか」
話題の提供の助け舟を出したつもりの男に対し、弥生は一生懸命、話だした。
「ええと、朝起きて、ご飯を食べて……」
……それは当たり前だろう。
彼はそんなことを聞いているわけではない。しかし弥生は一日の出来事を全部話し出した。
男は珈琲を飲みながら黙っていたが、内心は馬鹿馬鹿しい思いで溢れていた。
「お昼の後、眠くてお昼寝したの。そうしたらお父さんに叱られて」
「…………」
彼はそんな話を聞きたいわけではない。そのうちの楽しかったことや、話になる出来事を待っていた。しかし。それは最後まで無かった。
「お風呂に入って、そして髪を乾かして……そして寝たわ」
「そうですか」
彼は何もいうことがなかった。しかし弥生としては必死に話したつもりである。弥生は彼の無反応が悲しく、珍しく人の話を聞く気になった。
「宏さんは? どんなお仕事をなさっているの?」
「事務ですよ……」
「事務? 算盤を使うの」
「それは経理です。僕は、書類を作ったりですね」
本当はもっと複雑な仕事だった。しかし、彼は弥生に説明するのは止めにした。呆れた彼が支払いの伝票を手にした時、弥生が目を輝かせて質問してきた。
「あのですね。宏さんは新婚旅行はどこがいいですか?」
「新婚旅行……弥生さんは行きたいのですか」
「どこでも! 連れて行ってくださるんでしょう!」
「…………」
……だめだな、これは。
嬉々としている弥生に男は背筋がゾッとした。弥生の理解力の乏しさは、お嬢様の範疇を超えており、常識外れに恐ろしさまで感じた。
さらに弥生は美しくない。太っており、醜い。両親は年頃だからそのうち痩せるというのまに受け、一切気にせず過ごしていた。髪も癖っ毛であり着物も体型隠しである。
両親の言いつけとお金目的だった男は、さすがに心が引き、帰り道では心が覚めていた。
「……弥生さん。おうちに着きましたよ」
「もう? 弥生はまだ一緒にいたいわ」
甘えるような弥生の声に、破談を決心していた彼は一呼吸置いた。
「さあ。どうぞ、おうちの人が心配しますよ」
「でも!寂しいわ」
「弥生さん……また会えますよ。では」
弥生と二度と会わない為に、彼は今日一番に彼女に優しく話した。素敵な笑顔と優しい言葉に弥生は素直に従った。こうして彼は帰っていった。
後日。京極屋には破談の知らせがきた。
「え。婚約破棄? 嘘でしょう」
「弥生。気にするんじゃないよ。あの人ね、病気が見つかったそうよ」
数日後、弥生は衝撃を受けていた。結婚してくれるはずの彼は、病が発覚したため弥生との結婚を辞退するという断り文句だった。彼を好きになっていた弥生は、母が励ましたが自室で大泣きした。
だが弥生は、母に言われて店番をしていた。
……ううう、こんな仕事をしても。気分転換になんかならないのに。
失恋を理由に食べて寝てばかりの弥生を見た両親は、さすがにまずいと思い、店番をさせていた。親の気持ちがわからない弥生は、不貞腐れて座っていた。そんな店に来客があった。
「すみません、お砂糖はどこですか」
「そっちです、分かりませんか」
わからないから聞いている老婆の客は、座ったままの失礼な弥生に嫌悪の顔を見せたが、それでも砂糖と他の品を手にし、会計の前に来た。
「お会計を」
「え、待ってください」
……私は計算できないわ。
老婆の買い物はたった三点である。弥生の前には算盤があり、父が買ってくれた計算機もある。弥生はこれを使用しても良いはずであるが、弥生は慌てた。
「早くしてください」
「あら。誰もいない……今、呼んできます」
弥生は店の奥へ駆け寄り、手洗いにいた母を呼び、会計をさせようとした。
「お母さん早く!」」
「すみません。お待たせしました」
「お金は、こちらに置きましたよ」
呆れた顔の老婆は暗算し、ちょうどの金額を置いていた。冬子は弥生を背にし、買い上げた品を包んでいた。
「はい、こちらになります。お待たせして申し訳ございませんでした」
「奥さん。その娘さんは、ここで何をしているんですか」
「は、はい、店番の修行中で」
何も言えず母の背中に隠れている弥生を、老婆はため息で返した。
「修行?……そうですか……お嬢さんは、ご立派ですね……」
何もしなかった弥生に老婆は嫌味を言ったが、弥生には通じず。むしろ頬を染めて喜んでいた。
冬子も頭を抱えていたこの後、店に来客があった。
「恐れ入ります。連絡しておりました、東京の桐嶋です」
「ああ。イタリア別荘の人ですか、それはですね」
京極屋にやってきた紳士は見たことがない都会の男性だった。弥生はすっかり心を射抜かれてしまった。
……なんて素敵な人。あ、そうだわ。
彼は母親と難しい話をしている間、弥生はすぐに日本茶を淹れ、そして彼に出した。
……飲んで欲しい。せっかく淹れたんだから。
二人が話し合いの間。弥生は彼を見つめ、じっと彼が飲むのを待っていた。やがて彼は話を終えると忙しなく弥生を見た。
「あ、ありがとう」
「いいえ……」
そんな彼は申し訳ないと、本当に一口だけ飲んだ。そして鍵を預かり風のように去っていった。
「……お母さん。あの人はだあれ」
「ん? 今度イタリア別荘を借りた東京の人よ。この夏だけね」
「この夏だけ……」
弥生は桐嶋がくれたカステラの箱を持っていた。胸がまだドキドキしていた。
◇◇◇
その夜の京極屋。三人は夕食となっていた。婚約破棄された弥生の食べて寝るばかりの暮らしに蓮は不満を殺せずにいた。
「ところで弥生。お前、そろそろ店の手伝いをしなさい。今のままでは何もできないぞ」
「でもお父さん。弥生はお金を扱うのと、力仕事は嫌よ」
大盛りご飯を頬張る娘に、蓮は声を荒げた。
「じゃ、何ならできるんだ! うちは商売をしている家なんだ。お前はそこの娘だぞ? それができなくて、どうするんだ」
怒られた弥生は箸を止めた。これを冬子がかばった。
「あなた。弥生にはまだ早いわ」
「……恵はなんでもできたぞ」
「あなた?」
「お父さん」
急に怖い顔の蓮は、二人に向かった。
「お前達……最近、客が減っていることを知っているか」
「そ、それは」
「私は知らないわ」
「ああそうだ。弥生は知らないだろうな」
蓮は苦しそうに、語り出した。
「客に言われるんだ……恵さんはどうしたんだってね。あの娘は私の知らない所で、ずいぶん、人助けをしていたようだ」
「人助け」
「お父さん。どういう意味」
本当にわかっていない弥生に、父は悲しい笑みを見せた。
「そうだな……今日はな。先月、大金の財布を落とした人が、恵に礼を言いにきた。あの子は拾ってそのまま届けたんだな」
外で掃除をしていた恵は落とし物を警察に届けていた。大金を落とした人は大変感謝をし、後日、謝礼金を恵に渡したが、恵は辞退していたようだと蓮は打ち明けた。
「その人が、やはりそれでは悪いと言って。ご家族でうちに買い物に来たんだ。だが肝心の恵がいないと言うと、残念そうに帰って行ったよ」
この話に冬子は額の汗を拭った。
「ああた。そういことなら弥生だって、拾えばちゃんと届けますよ。ねえ。弥生」
「うん。そうするわよ」
「ふふふ……ははは」
弥生の返事を蓮は高笑いした。冬子と弥生はびっくりした。蓮はあまりのおかしさに涙を流していた。
「笑わせるな。掃除もしないくせに? 弥生が他人の物を拾うわけがなかろう?」
「あなた」
「ははは……こいつは傑作だ」
あまりにバカにした様子に弥生は口を尖らせた。
「お父さん、あんまりよ! 弥生だってやればできるんだから」
「あなた。娘を信じるのが親の努めじゃありませんか」
「……信じる、か」
……恵であれば、信じられるであろうな。
姪の恵は賢く、忠実であった。蓮が指示しなくても、恵であれば間違いない判断をするだろうという思いが蓮にはあった。それは普段からの正しい行いの実績である。だが彼にとって娘の弥生の実績は、完全に無だった。
「本気でそう思うなら。明日から何かしろ!」
「あなた!」
「いいか。これは……最終宣告だ。私は本気だからな」
蓮はそう言って自室に行ってしまった。今までにない語気の強さに二人は驚いていた。
「弥生、大丈夫かい」
「お母さん、いいの。私、頑張るわ」
弥生はそう力強く言うと、飯を食べ出した。弥生なりに意欲が出たと冬子は娘を信じ、見つめていた。
そして翌日。弥生は店奥にいた。期待していた冬子は、娘が意欲的に何かしていることが嬉しく尋ねた。
「弥生。何をしているの」
「お茶よ。全部のお客さんに出すのよ」
「え?……そんなこと」
……頑張ることって、これ? そんな……
それが利益になるのか、と冬子は衝撃の言葉を飲み込んだ。引退した老婆ならいざ知れず、若い娘の頑張りがお茶を出すこと、と言うことに母として頭の中が真っ白になった。
……必死に用意をしているけれど、これをしたって。
無駄ではないが、全く生産性はない。したい事をしているだけの茶番とはこのことだった。
冬子はこの哀れな娘に心空しく、背を向けて店の前に出た。桜はすっかり葉桜になっていた。
かつてこの木の下。箒で掃除をしていた健気な娘がいた。
……あんなに虐めたのは、恵を見ると、弥生が惨めだったから。
そもそも冬子は恵の母が嫌いだった。夫と仲良く、綺麗な女だった。この京極屋に嫁に来た時、冬子は彼女のような妹がいると知り、自分は一生、女として敵わないと思ったほどである。その憎い女の娘の恵は、美しく心綺麗で、賢く冷静だった。
……でも、ほっとしたわ。
葉桜からの風の中、冬子は目を閉じた。
恵がいなくなり、冬子は自分の黒い心の正体が劣等感であるとわかってきた。もしも、これ以上。恵がここにいたら自分は折檻を止められなかったかもしれない。冬子は恵を追い出したことを良かったと思っていた。
見上げた空はそろそろ梅雨の色がしていた。
「お母さん! 電話が鳴っているわよ」
「お前が出なさい」
「私はお茶を淹れているのよ! できないわ!早く!」
金切り声で自分を呼ぶ娘の声に冬子は、頭を抱えて店に戻った。愚かな娘に怒鳴られながら冬子は小走りをした。もうすぐ梅雨の日光は、肌寒く薄暗い空気に包まれていた。
完
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