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六 鏡の世界
「なあ、中田よ。まだかかるのか」
「先生はもう済んだんですか?」
東京から車で積んできた調査のための資料。玲二は持参した資料の荷解きを済ませていた。しかし、研究生の中田はまだバタバタしていた。
「しょうがない奴だな。ん? きたぞ」
「恵君ですか。なんか食べ物かな! 」
玲ニは食いしん坊の中田をよそに、恵が湖を小舟でやってくるのを屋敷から見ていた。
……こうしてみると、本当に男の子にしか見えないな……
恵は器用にオールを漕ぎ、別荘へとやってくる。頭をすっぽりかぶったいつもの黒い帽子の恵は、赤緑のランプが目印の船着場に船を停め、ゆっくりと別荘に入ってきた。
「こんにちは。お昼をお持ちしました」
「ああ、助かるよ」
玲二は紙袋を受け取った。渡した恵は中田の様子をじっと見ていた。
「荷解きですか? たくさんあるのですね」
「ああ、あいつはまだ片付けが終わらないのでな」
……そうか、せっかく湖を案内しようと思ったけれど……
玲二達は東京から植物の研究のためにこの日光に来ている。それを知っている恵はひとまず湖の植物の説明をしようと思っていたが、多忙な様子を見て今日も無理だと感じた。
……それに、私は頼まれたわけではないし、玲二さんはとっくに知っているかもしれないし。
「どうした? 何か用事があったのか」
「いいえ……なんでもないです。ではこれで……」
邪魔をしてはいけないと思った恵は頭を下げて出て行った。玲二は恵の態度が気になっていた。
この夜。風が強かったせいか夕食は政が届けに来てくれた。受け取った玲二はずっと思っていたことを相談した。
「政さん。できればお時間がある時に、湖の観光というか、案内をしていただけないでしょうか」
「いいですよ」
玲二の頼みを聞いた政は帽子を直しながら快くうなづいた。
「そう思っていたので、では明日にでも」
「お願いします」
「楽しみですね、先生!」
政に案内を頼んだ二人は楽しみに床に着いた。翌朝、晴天の別荘に政が迎えにやってきた。
「おお、これはエンジン付きのボートですか」
「先生! すごいですね」
「ははは、湖は広いので。さあさあ、どうぞ」
玲二と中田は大型ボートに乗った。エンジンがついている高速ボートは湖を突き進んでいく。一切、妨害するものがない湖の世界。爽快に進む船に玲二と中田は興奮していた。
「先生! 気持ちいいですね!」
「中田! おい、危ないぞ」
そんな高速で進む船を、政は湖の中心あたりでエンジンを停めた。急に静かになった船は揺れるが、政は平気そうに語る。
「ええとですね。この日光中禅寺湖は、周囲およそ25km。深いところは水深163mになっております」
政はイタリア別荘は湖の東側だといい、湖畔に沿って解説しながら再びボートを進めた。
「ええと! この湖は今から2万年前に、あの男体山が噴火した時にできたものです。この湖は日本で一番標高の高いところにある湖です」
エンジン音に負けないような大声の観光案内。玲二は彼に質問した。
「政さん。あの湖畔の入り口にあった大きな鳥居は?」
「あれは二荒山神社中宮司の大鳥居ですな」
ボートに乗りながら彼は次々と説明してくれた。
「それと。あの半島が見えますか?あれが八丁出島と言いまして。秋の紅葉はとても綺麗です」
湖の中心に向かってまるで片手を伸ばしているような半島。政はここでボートのエンジンを止めた。
「うわ?揺れる」
「気をつけてください。ここから景色が一番綺麗と、言っていましたので」
……言っていた?
「ええとあそこにも植物がありまして、ええ、と何でしたっけ」
しかも。政は先ほどから手に書いてある文字を読んでいる様子。船に座っていた玲二。立っている政に訊ねた。
「あの。それは、誰の感想なんですか」
「ああ?これ?恵ですよ」
政は恥ずかしそうに頭をかいた。
「ははは。私は長年ここに住んでいますが、船と魚の事以外はさっぱりわからんので。でもあの子は先生のためにお勧めの観光コースを考えていたようで。私はそれを紹介している次第で」
「恵が」
「へえ。恵君はすごいな」
感心する中田。しかし玲二はふと、ここ数日の恵を思い出していた。
……俺達の都合を聞いていたから。もしかして。俺達を観光に誘おうとしていたのか。
せっかくの好意。しかしそれを口にしない少女。玲二は歯痒く政のガイドを聞いていた。こうしてボートにて湖畔をぐるりと回った彼ら、玲二の希望で赤い三角屋根のボートハウスにやってきた。
「あら?先生。どうだった?」
船着場のナミの笑み。降りた中田は顔色が悪かった。
「ナミさん……俺、ちょっと船酔いで」
「お前は中で休ませてもらえ。ナミさん。恵は?」
あっち。というナミの目線の通りに玲二はボートの停泊場に向かった。
小柄な彼女は一人黙々とボートの手入れをしている様子だった。今は、大きなボートに乗っている恵、船の上、手にはロープを持ち縛り直していた。
「恵!」
「玲二さん?どうでしたか」
一瞬、嬉しそうな恵。玲二は逆光の彼女が眩しく。手でかざした。
「ああ。おかげで楽しかったよ」
「そうですか。あの、他にもですね」
そういうと恵はボートのハシゴを降り始めた。玲二、心配で下で彼女を抱き止めた。
「おい、大丈夫か」
「大丈夫ですよ?あの、玲二さん。これ」
そして恵は服で手を拭くと、腰のポケットから紙を出した。
「もし良ければ、参考になさってください」
丁寧に両手で持ち、自分の胸から玲二へ差し出された手紙。玲二。受け取った。
「これは?」
綺麗な万年筆の文字。湖の散策コースと書いてあった。
「これは僕のお勧めのコースです。玲二さんの別荘の奥にも綺麗な花が咲いているし、立木観音様の参拝もしておいて方がいいと思うので、興味があったら後で政さんに案内してもらってください」
「あ、ああ」
……よかった。受け取ってくれた。
ずっと気になっていた事。恵は玲二に渡せてほっとした。こうして恵は仕事を再開していた。玲二はその小さな背をただ見ていた。
少し元気になった中田を乗せ、政と玲二はイタリア別荘に戻ってきた。
「さ。お疲れ様でした」
「こちらこそ。政さんもお仕事があったのに、すいません」
「いやいいんですよ。そっちは恵がやってくれたんで」
政はそう言って貸しボートに帰っていった。別荘に戻った玲二。恵がくれた手紙を見ていた。
……二枚目には地図も絵もあって。上手くかけているな。
色鉛筆も使った観光マップ。それは玲二たちのための植物関係のようだった。
この別荘の奥の道にはクリンソウの花畑。そして湖畔にある神社には、研究の成功と水の事故に合わないように、参拝をした方がいいと記してあった。
「どうしたんですか?先生、怖い顔をして」
「もしかして。恵は俺たちを案内するつもりだったのに。私が政さんに頼んだから。政さんに頼んだのかと思ってな」
「それ見せてください……うわ?細かいですね」
中田も手に取り、恵の思いを感じた。
「これって。恵君も一緒に行きたかったのかな」
「やっぱりお前もそう思うか」
ああと玲二が頭を抱えてしまった。恵の不遇を知っている玲二。そんな恵の優しい気持ち。これを全く気が付かなかった自分に腹を立てていた。
政に頼んだせいで。恵は彼の代わりにあんな大きな船を掃除していた。玲二の心は苦しく椅子に持たれていた。
「でもね。先生。このクリンソウと神社の参拝は恵君に頼めばいいじゃないですか」
「しかし。政さんに悪いだろう」
生真面目な玲二。中田ははあとため息をついた。
「そんなの向こうは大して気にしてませんよ。これから恵君にお世話になるので、一緒に話をしたいって言えば、それでいいんですよ!」
「そ、そうか」
「全く。大学の助教授をしているのに。先生はいつも遠慮ばかりで」
ぶつぶつ文句の中田。玲二はお詫びのつもりでウィスキーを出した。今回、この調査の助手に選ぶのは何名か候補がいた。その中でも中田は一番、勉強が振るわない学生であった。
しかし。おそらく不便な暮らしになると思った玲二。田舎育ちで信用でき、我慢強く、使える人材を選んでいた。
「正解だったな」
「何がですか」
「君を今回誘った事だよ」
「まだ何もしてないですよ?」
素直な彼。玲二は安心して笑った。
翌朝。朝食を持ってきた恵に、二人は案内を頼んだ。
「僕がですか?政さんじゃなくて」
「ああ。君に頼みたいんだ」
「いつでもいいからね」
すると恵。ちょっと考えて答えた。
「では今日の午後。お昼を食べたら行きましょうか」
「それで行こう」
「それまでここにいるからね」
そして約束通り。恵はランチを持ってきた。そしてその後、別荘を歩いて出かけた。三人は湖畔の東側。まだ舗装されていない遊歩道を進んでいた。
初夏の中禅寺湖。木の葉が作った土の道。優しい踏み心地の木陰は緑の匂いでいっぱいだった。恵を先頭に玲二と中田は歩いていた。
「中田。ここは、楓と樫が多いな」
「ええ。どんぐりも多いですよ」
「木々の高さが低いのは、冷涼の気候のせいだな……あまり動植物もおらぬようだな」
「ここは外部の接触がないから、生態系が守られていますね」
……すごい。やっぱり二人は先生なんだわ。
驚きでつい振り返る恵。玲二はどうした?という顔で見つめ返した。
「なんでもありません。あそこが、クリンソウです」
「おお。これは」
「カメラを出さないと」
森にひっそり咲くクリンソウの群衆。ピンクや赤や白の小花達の姿。玲二と中田は心を奪われた。薄暗い森の中、花達は恥ずかしそうにそこで咲いていた。
静寂な世界のパステルカラー。まるでおとぎ話の絵本の中のようであった。
「クリンソウは。戦場ヶ原でも見られますが。ここでもこうして見られます。でも、あまり知られていませんね」
「なぜだ?秘密にしているのか」
「そうだよ。こんなに近くで見られるのに」
恵。スッと屈んだ。揺れる花をそばで見た。
「……僕もそうですけど。地元の人はわざわざこれを見に来る人はいないと思いますよ」
玲二も一緒に隣に屈んだ。恵と同じ目線になった。恵は隣にいる玲二に顔を向けた。
「玲二さん。僕は沖縄からきたお客さんに言われたことがあるんですけど、沖縄には近くに海があるけど、わざわざ海水浴はしないてその人は言ってました」
「沖縄?」
「ええ。それにね。この奥日光ではスキーができますけど。地元の人がみんなスキーをするわけじゃないし。この湖だって。地元の人が泳ぐことはしないですよ」
ここで。中田は手をパンと叩いた。
「そうかもしれませんね。僕の地元にも山がありますけど、だからといって、
みんなが山には登りませんよ。登るのは外からきた人ですから」
「なるほど。地元の人にとっては当たり前の風景なので。それを楽しむというのはないのかもな」
綺麗なクリンソウを前に。三人は唸っていた。
「でも。僕は今回、ここを発見して。綺麗だなって思います。でも、玲二さん達以外、誰にも教えてないです」
「ああ。このまま静かにそっとしておこうか」
「俺は写真だけ撮ります」
こうして三人はクリンソウに別れを告げて神社に歩いて向かっていた。
未開発の山道。前を歩く恵。背後の玲二。今回の案内について尋ねた。
「おい。本当は君が案内してくれようとしたのか」
「それは、その」
「だから。私たちの都合を聞いていたんだろう。なぜ、言ってくれなかったんだ」
……なんか。怒っているみたい。
恵。立ち止まり謝った。
「申し訳ございませんでした」
「いや?別にそこまでは」
「本当に、ごめんなさい」
深く頭を下げる恵。あまりの低姿勢。中田もびっくりしていた。
……そうか。彼女は実家にいた時、冷遇されていたんだ。
この程度の事でここまでの謝り方。やりすぎであるが、きっとこうしなければ彼女は罰せられていたのであろう。二人は恵の過去を悲しく思った。
「いいんだよ。頭をあげなさい」
「はい」
……どういえば、彼女は気にせずくれるのであろうか。
時折口にする意見は貴重なもの。そもそもこの娘は賢く聡い。玲二は彼女にもっと自由に意見を言ってほしいと思った。玲二、彼女の背を押し、二人で湖を望んだ。
「恵。私はここで研究を始める。それは君も知っているね」
「はい」
「ここは素晴らしい環境だ。そしてせっかくの機会。私は全力で研究をするつもりなんだ」
玲二の話。背後で中田も聞いていた。
「それにはね。君の意見も必要なんだ。どうか気がついたことがあったら、なんでも言ってほしい」
「僕の意見が役に立つんですか」
「ああ。もちろんだ。なあ?中田」
「はい。僕からも頼むよ。恵君」
優しい二人。恵は恥ずかしそうにうなづいた。
「わかりました。僕でよければ、お手伝いさせていただきす」
「よし」
「では。こっちに来てください」
そして三人は立木観音がある神社にやってきた。そして無事を祈り参拝した。
「これで安心ですね」
「ああ。あの八丁出島も恵君と一緒に見たかったな」
そういう中田。恵は微笑んだ。
「あれは政さんのボートの方が早かったから。僕よりも政さんがよかったですよ」
「そうか。でもあのボート、揺れたな」
……笑顔が見えてきた……よかった。
二人の会話を見守る玲二。この時。風はさあと吹いた。太陽が出てきた。
「うわ。綺麗ですよ。先生」
「ああ。すごい。まるで鏡のようだ」
ブルーに輝く湖面。はしゃいで水際に向かう中田。玲二は岸で恵と見ていた。
「玲二さんも。どうぞ近くで」
「……いや。ここで良い」
隣に立つ少女。帽子で髪を隠しているその姿。白い頸、優しい声。なぜか一緒にいたかった。
二人で見つめる緑濃い湖。空の青さを映していた。それはまるでこの娘の優しい気持ちの色のようだった。天空の湖を前に、玲二は傍の少女をただ、思っていた。
「鏡の世界」完
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