歓びの月

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「興味のない相手から向けられる好意ほど、気持ち悪いものなんてないのよ」   或る作家は、作中でキャラクターを通し、彼の酔いにも似た夢を破却した。   彼は晩夏の或る夜半に、こんな科白と、それに酷似した己が過去を夢の中で想起し、大量の寝汗と共に目覚めた。乱れた自身の呼吸と、強設定の扇風機の音が部屋の中で行き場を失ったかのように、響き渡っていた。  彼は騒音に堪えかねて、扇風機を止めて窓を開けた。   九月の夜といえど、風はぬるかった。のみならず、湿気が強く、彼の汗はなかなか乾かなかった。これらの不快さや、手持ち無沙汰故に彼はセブンスターに火をつけて、悠然とそれをふかした。喉が渇いていたので、煙が普段以上に染みて空咳を二、三した。彼はアパート暮らしであったので、隣人に対してこの騒音を心中で詫びながらも、火を消すことはなかった。  空を見上げると、半月が薄雲のベールを被り、弱々しい明かりを放っていた。近くに街灯があるため、辺りは然程暗くはなかった。この不完全な暗澹さが、今の彼の心傷を、彼自身が考察するのには丁度良い塩梅であった。   彼は煙草の火を消し部屋に戻り、窓とカーテンを閉め、照明のスウィッチを押した。ぱちん、とした破裂音にも似通った音と共に、数回瞬いて蛍光灯が明かりを放つ。それは、先程の朧月とは違って、十二分に明るかったので、彼は目をしばたたかせながら顔を顰めた。   冷蔵庫を開け、作り置きの茶を飲もうと思ったが、一昨日開けた正宗が目についたので、グラスに指二本程注ぎ、それを舐めるように呑みながら、夢の内容を頭の中で整理し始めた。「興味の無い相手から向けられる好意ほど気持ち悪いものは無い」、これは彼が高校生の時、つまるところ三、四年前に起こったある恋慕の顛末である。
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