花びらが散る頃に

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少し開いた窓から入り込む風が、 病室のカーテンと短い彼女の髪を揺らす。 その風に乗って、 絶え間なく行き交う車の音、 近くの広場ではしゃぐ子供の声、 様々な人達の生きる音が運ばれてくる。 聞こえてくる東京の喧騒は、いささか煩く感じるが、白い部屋の中に彼女に繋がれた沢山の機械、申し訳ない程度に彩る花瓶に植えられた花しかないこの殺風景な空間では、この音はもしかしたら彼女にはパレードのような賑やかな音に聞こえているのかもしれない。それはきっと大袈裟だろう。 しかし、寝転んだまま窓の外の音に耳を傾ける彼女が少し微笑んでいるのを見て、あながち間違ってないかもしれない、そう思った。 もう随分痩せてしまい、全身の骨が浮き出て見えているが、それでもこちらに振り向き、笑いかけてきた彼女は、出会った時から今も変わらず綺麗だ。 絵美と出会ったのは大学進学のために上京して2年が過ぎた春の事だった。 友人達と街に出かけていた時、携帯を落としたことに気づかずそのまま歩いていたところ、 「すみません!携帯落としましたよ!」 慌てて走ってきてくれたようで、少し息を切らしながらそう声をかけてきたのが絵美だった。 一瞬彼女と目があった、その時に僕はまるでドラマや映画の話のように彼女に恋をした。 お礼を言うより先に、 「あの!なんだ、えっと、一目惚れしました!もし良ければ連絡先を教えてくれませんか?」 そう口走っていた。 僕の後ろでは、友人達が口を開けて呆然としており、絵美は困ったように苦笑いを浮かべていた。 「あれは傑作だった、映画でも見てるのかと思ったよ」 「お前がいきなりあんな古典的な事するからあの後笑いが止まらなくて 死ぬかと思った」 その場にいた彼らとは度々集まっているが、未だに酒のつまみに笑い話にされている。自分でもあの時のことを思い出すと恥ずかしさに身が捩れそうになるのであまり思い出さないようにしている。 彼ら以外には絶対に広まらないように口止めをしているが、話したがりな彼らを抑えるのはかなり苦労した。約束を守って誰にも話さないでいてくれているので、お酒の席くらいは甘んじて受け入れている。 その後絵美は携帯を取り出して自分のQRを開き「はい」と見せて教えてくれたので自分で聞いておきながらとても驚いた。 いきなり意味のわからない事を言った僕となぜ連絡先を交換してくれたのかとても不思議に思ったが後々絵美に理由を聞いても 「わからない、なんとなく?」 と首を傾げながら答えるだけだった。 少し大人びて見えていた彼女は意外にも、都内の女子大に通う同い年の3年生であることがわかった。 そのまま他愛もない会話を1週間ほど続けたところで、僕は勇気を出してデートに誘った。 前回の一目惚れ騒動と合わせて2回目にあった絵美はやっぱり綺麗で、出会い方が出会い方だったのもあり、すごく緊張していて正直あまり覚えていない。 しかし、絵美が終始楽しそうに笑いながら話しかけてくれた。その笑顔を見て花がすごく似合いそうな子だな、そう思ったことだけは良く覚えている。 それから何回か2人で出かけた。 会うたびに、僕は彼女に益々惹かれていった。 凄くしっかりしているのに変なところが抜けてるとことか、とても涙脆いとことか、美味しいそうにご飯を食べるとことか、彼女を知るたびにどんどん愛おしく思えた。 出会って4ヶ月、 意を決して彼女に想いを告げた。 小さくコクッと頷くのを見て、海に隣接する公園から見える立ち並ぶビルと大きな橋が形成する大都会の美しい夜景に向かって、思わず声を上げながらガッツポーズをした。 それから2人で色んな所に出掛けた。 春は桜がずっと咲き並ぶ川沿いの道を歩き、 夏は海で、疲れて動けなくなるまで遊んだ。 秋には紅葉の綺麗な公園にお弁当を持ってピクニックをしたり、 冬には珍しく都内に積もった雪を見て子供の頃のようにはしゃぎ回った。 こんな歌がどこかにあったような気がする。 そんな季節を君と共に過ごした。 記念日にはいつもプレゼントと一緒に花を添えた。どの花も君にはよく似合う。 その中でも紫色の花が一番綺麗に、 君を彩ってくれていた。 大学を卒業して、そのまま都内で就職をした。 2人で同棲も始めた。 喧嘩も沢山した、すれ違うことも多くなって 別れ話になったことも何回かあった。 それでもやっぱり僕は絵美が好きで、大切で、離れたくなくて、きっと絵美もそう思ってくれていたんだと思う。 いつも結局どちらからともなく仲直りをして、夜には同じ布団で眠りについた。 26歳になった時、仕事も落ち着いてそろそろかもしれないなと気持ちを固めた。 密かに貯めていたお金で婚約指輪を買い、 2人の出会った春にプロポーズをした。 不器用でタイミングをうまく見つけられず、おかしなタイミングでのプロポーズになってしまったが、 「君はいつも突然だね」 少し涙声で言いながら 絵美は僕の手を優しく、そっと取った。 それから互いの両親に挨拶をして、会社にも報告をした。上司や同僚のみんなにも祝福してもらい、とても幸せだった。 絵美と出会った時にいた友人達にも勿論報告した。2人とも東京を離れてしまっていたが、久々に3人で集まれた時に絵美と結婚する事を伝えると、2人はまた口を開けたまま固まっていた。それを僕は面白そうに眺めながら、 ジョッキに注がれた生ビールを一気に飲み干した。 時期を待って、この年の冬に結婚式を挙げた。 絵美は花柄がとても上品に織り込まれた純白のドレスに身を包み、それを見た僕は 「やっぱり君は花がとてもよく似合うよ」 その言葉に絵美は照れたようにはにかんでみせた。 思わずにやけてしまう顔を少し堪え、 光が包み込むチャペルの中、大勢の人に見られながら僕らは誓いの口づけをした。 君をずっと愛し続ける、そう思いながら。 絵美の身体に異変が起きたのは、 そんな幸せな生活がまだ一年も経っていない、残暑の残る9月のことだった。 「なんだか最近すごく身体がだるい」 確かにこの頃絵美はあまり元気がないと思っていた。 「まだ暑いし、バテてるのかもしれないね。家事やっとくから寝てな」 そう言って絵美がやっていた洗い物を替わるために台所に向かった。 「ありがとう、じゃあそうするね」 絵美は申し訳なさそうにしながら寝室に向かっていった。 元々家事は一緒にやってるんだからそんなの気にしなくていいのに、そんな事を思ってい時、寝室の方から バタンッッ! ガシャン! と大きな音がして、驚いて肩を震わせた。 何かあったのかと思い、 手を止めて声をかける。 「絵美?大丈夫?」 聞こえないような小さな声じゃない、なのに絵美からは返事がない。 嫌な予感が背筋を伝ってきて、自然と姿勢が伸びた。 手を拭いて、急いで寝室に向かう。 「絵美!?」 絵美はうつ伏せに倒れていた。 「絵美!絵美!」 何度呼びかけても、絵美は目も開かず一切の反応がなかった。 急いでリビングにある携帯を取って救急車を呼ぶ。 救急隊が部屋に駆けつけるまでずっと絵美に呼び掛け続けたが、絵美は全く呼びかけに答えなかった。 病院の一室で待たされる時間が、とてつもなく長く感じた。実際にはそれほど時間は経っていなかったはずなのに、数日待ったのではと錯覚してしまうほどだった。 年配の看護師に呼ばれ、 医師の待つ部屋に案内された。 田口と書かれたネームプレートをつける医師は、とても温厚そうな雰囲気を纏って不思議と安心感を抱かせる人物だった。 しかし、こちらを見る目は温厚さとはかけ離れた深刻さを窺わせた。 「まず、絵美さんの意識は戻りました。」 ほっと一息だけつけた。 それも束の間、田口先生は続けた。 「先ほど、絵美さんにお会いして会話もしましたが意識障害や記憶障害などは特にありませんでした。ただ、、、ここからはもうすでに絵美さんにはお伝えしましたが、落ち着いて、順番に説明しますのでよく聞いてください。」 それ以上の言葉を、冷静に聞ける自信が僕にはもう無くなっていた。 絵美はスキルス胃癌という病を患っていた。 胃癌の中でも未だに早期の発見が困難で、増殖速度が早く治療が困難な難治癌と言われているらしい。 既にリンパ節にも転移しており、 出来る限りの治療を施しても 半年持つかどうか、わからない。 そう告げられた。 その事実を突きつけられてからもまだ、田口先生が何かを説明していたがもう耳に入ってくることは無かった。 現実を受け止められないまま、 絵美の病室に案内された。 一度ドアの取手を持って開けようとしたが、躊躇して手を離す。 かける言葉が見つけられない。 それでも絵美に会いたかった、会わなきゃいけない。 その思いだけでもう一度取手に手をかけてドアを開いた。 そこには病気だなんて嘘だと言うように、いつもと変わらない絵美の姿があった。 「絵美」 それ以上言葉を発せられずにいると、 「ごめんね」 そう言ってきた。 いつもなら、すぐに泣いているのに絵美は必死に泣くのを堪えているようだった。 「ごめんね、君を1人にしちゃう」 泣いちゃいけない、絵美は必死で我慢しているのに、僕が泣くわけにはいかない。そう思っていたのに、 こみ上げてくる涙は少しずつ溢れてきて 止めることが出来なくなってしまった。 なんで謝るの、絵美は何も悪くない 一番辛いのは絵美なのに、僕が1人になることなんて心配しなくていいのに。 まだ27歳だ、結婚もしたばかりでこれから子供も出来て2人で幸せになっていく、そうなるはずだったんだ。 「ごめん、ごめんね絵美」 震える声でなんとかそう言葉にした。 何がごめんなのかは僕にもわからない。 ただ今は、それしか言うことが出来なかった。 絵美はそんな情けない僕を優しい顔で見つめる。瞳にはもう我慢ができなくなっていた涙がにじみ出ていた。 僕はベットに腰掛ける絵美に駆け寄り、 強く抱き寄せる。 絵美も僕の腕の下から手を通して抱き寄せてくる。 僕らは言葉にできない思いを互いに伝え合った。 僕の腕の中にいる絵美からは、とても暖かい春のような温もりを感じた。 目が覚めたら、あれは夢だったらいいのに何度もそう思ったが、現実は確実に絵美の命を蹂躙していった。 気づけば年が明けて、もうすぐ桜が咲こうとしていた。 少しずつ痩せていく絵美、綺麗に長かった髪は入院した次の日にバッサリ短くしたが、今はもうそれより短くなっている。 僕に出来ることなんて限られたことしかなく、せめて絵美が少しでも元気が出るように毎週のように綺麗な花を届けて絵美の病室に飾った。 時折止まらなくなる吐き気や痛み、嘔吐を繰り返し苦しそうに喘ぐ。 何もできない、ただこの運命を呪うことしかできない自分が死ぬほど惨めで、情けなくて仕方なかった。 4月になって桜が満開を迎える頃、 いつもより体調の良さそうな絵美に呼ばれて病室にいく。 「はい!これプレゼント」 絵美の手に持たれていたのは小ぶりの植木鉢だった。その植木鉢には、薄青色をした小さな可愛い花が咲いていた。 「勿忘草?」 「すっかり花に詳しくなったね、そう勿忘草、いつもお花のプレゼントありがとう。せめてお返しにこっそり前から育ててたの」 いつのまにそんな事をしていたんだろう。 驚きつつ 「ありがとう、大切に飾るね」 そう言って受け取った。 「花言葉は「真実の愛」だって、私が君を思う気持ち。そのままだから」 照れたように笑う絵美、でも少しだけ何か隠しているように思えた。 確かに僕は少し前から花について詳しくなった。絵美に元気を出してもらうために、色んな花の花言葉を調べたりもした。 だから、勿忘草にはもう一つ込められた意味がある事を知っている。 本当はそっちを伝えたかったのかもしれない。そう思ったが何も言わないまま、もう一度 「ありがとう、僕もだよ」 そう言った。 それから絵美がこの日より体調のよくなる日はなくなった。 見る見るうちに弱々しくなっていく絵美に目を背けたくなる。 それでも必死に戦う絵美を最後まで見届ける、それだけがもう僕にしてあげられる、ただ一つのことだと、そう心に思っていた。 気づけば持って半年と言われていたのにもうすぐ1年が経とうとしていた。 しかし2週間前、肝臓や肺への転移も見つり、もういつ最後が来てもおかしくないと、担当する田口先生に言われた。 先生の計らいもあって少し前から病院に寝泊りさせてもらっている。 会社の上司も理解してくれており、今はほとんど出勤していない。 僕の分も働いてくれている人達に申し訳なく思うが、優しい声をかけてくれる同僚達、俺がやっとくから気にすんな、そう言ってくれる上司に感謝しかない。 絵美はここ数日で、目に見えて弱っていくのがわかった。 もしかしたら今日が最後かもしれない、そんな覚悟を決めて病室の扉を開けた。 少しだけ開いた病室の窓、聞こえてくる東京の街の音は病院の割にはやはり少し煩い。入り込んでくる風に揺れるカーテンと君の短い髪、少しだけ微笑みながら空を見上げる絵美がこちらに気付いて小さく笑う。綺麗だ。 「おはよう」 その声はもうすぐにでも消えてしまいそうな儚さを帯びていた。 押しあがってくる感情をぐっと下に抑え込み 「おはよう」 そう返した。 「今日はすごく良い天気だね」 そう言って近づきながら絵美の寝るベッドの横に椅子を出して腰掛けた。 「ねぇ少しだけ話してもいい?」 絵美がそう言った。 「うん、いいよ、ずっと聞いてるからゆっくり喋っていいからね」 「ありがとう」 それから絵美はゆっくり口を開いて話し始めた。 「私ね、君と初めて会った時、多分ずっとこれからこの人と一緒にいるんだろうなってそう思ったの」 僕らが初めて出会ったときのあの恥ずかしい話だ。 「理由はわからない、だけど何故かそんな未来がすごく鮮明に見えたの、だから思わず連絡先を教えてしまったんだと思う」 いつか聞いた質問への答え 「これからもずっと君といると思ってた、結婚する時も本当に幸せで、子供ができて、家族が増えて、小さくてもいいからマイホームを立てて、もっともっとこれから君と幸せになれるそう思ってた。」 もう恐らく絵美とちゃんと話せる最後だ、涙を必死に堪えて耳を澄ませる。 「病気が見つかって、目の前が真っ暗になった、なんで私がって、1人で夜通し泣いて寝れない時もあった。君に何も出来ない私が悔しくて仕方なかった」 違う、それは僕の方だ 「こんな風になっちゃった私に君はずっと寄り添い続けてくれた。ほんとに辛かったけど、君と少しでも長い時間一緒にいたくて、必死に頑張った、私偉いでしょ?」 うん、君は偉い、僕の中では君はどんな偉人よりも凄いよ 「でもこれ以上はもう一緒にいられないみたい、ごめんね、もっとずっと一緒にいたかった。ごめんね」 君は何も悪くない、だから謝らないで 涙が1つ病室の床に落ちた。 「私はもう君と一緒に入れない、だけど君はまだまだこれから先長い未来が待ってる。だから、お願い、私の分まで幸せになって、私にくれたぐらい沢山の愛情を他の人と共有して、幸せになって、私からの最後のお願い。 ずっと君の側で、君の幸せを願ってるから 私は君といられて、出会った日から今日までずっと楽しかったよ。 ありがとう優人、最後まで私は幸せでした」 もうすでに少し前から必死に堰き止めていた感情を抑えることは出来ず、涙は止まることなく流れていた。 絵美の手を取って強く握る。 「痛いよ、優人」 泣き虫だった絵美は、少しだけ頬に涙を流していたが、強くそしてとても優しい顔で微笑みを浮かべた。 それから10分も立つことなく、 絵美は家族と僕に見送られながら静かに息を引き取った。とても安らかな表情で27年の短い人生に幕を閉じた。 病室に響く泣き声に混じって、外から聞こえる街の音は決して変わらず、いつものように少しだけ煩かった。 火葬場で、絵美と最後の別れを告げる。 安らかな表情で眠る絵美は色とりどりの綺麗な花に囲まれていた。 葬儀屋にお願いして、絵美の頭の近くには小ぶりだが確かな存在を持つ可愛らしい紫色の花を添えてもらった。 「絵美、ごめんね少しこの花を貰うよ」 そう言いながらその紫色の花を小さな束にした。 「さよなら、絵美、ありがとう」 これで本当に、最後の別れだ。 葬儀所の外に、都心にしては珍しく開けた広場があった。 そこのベンチに腰掛け、火葬場の煙突から上がる煙を眺める。 手に持っている紫の可愛いらしい小さな花は 紫苑の花 花言葉は 「君を忘れない」「遠くにいる君を想う」 いつか君がくれた勿忘草、 「真実の愛」 それを伝えたかったのは本当だろう。 だけど、君が伝えたかった本当の意味は こっちの言葉だろう 「私を忘れないで」 勿忘草に込められたもう一つの言葉 忘れないよ、絶対に 君が最後僕に言ったように僕は君の分まで幸せになるよ、いつか君に胸を張って幸せになったよ、そう言えるように。 でも少しだけ待ってくれないかな、 気付いたらまた涙が溢れていた。 「この花が枯れて散る頃には、ちゃんと前向きに、頑張ってちゃんと生きるから、もう少し、もう少しだけ泣くのを許して、絵美」 どこからか聞こえたクラクションの情けないが音が僕のすすり泣く声を掻き消す。 深まってきた秋、開けた広場に吹く木枯しが 冷たくて身が縮まる。 だが、丸まって小さくなった背中は、 まるで誰かに包み込まれたように、 春のような暖かい温もりがあった。 その温もりから僕は、 なぜかとても幸せな気配を感じた。
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