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※或る男の話※
カーテンの隙間から見えた彼女は汗だくだった。
あの日、長期休みを終えて学園へと向かう馬車に乗っていた。
もうすぐ秋を迎えるというのに、強い日差しの暑い日で、その男は眩しさを嫌うように車内のカーテンを閉めた。
今日は入学式が開かれるので、たくさんの馬車で混み合っていた。しばらく着きそうにないと小さくため息をついて男は目を閉じた。
男の家は、国では知らない人がいない名前の知れた貴族の家で、幼い頃からどこへ行っても注目された。
上に兄が二人いたが、二人とも貴族を絵に描いたような人物で、傲慢で人の話を聞かず、揉め事ばかり起こして父に金で解決させていた。
上がそんな人間だからか、男は反面教師のように、真面目で理性的な人間に育った。人の上に立つという父の姿を学び、自然と扱い方を覚え、どう動けば誰にどう見られるか理解できるようになった。家系的に備わったのか、もともとの優秀さもあり、何をやっても優れていて将来を期待されていた。
今では父からの絶対的な信頼も得て、男のやることに口を挟むような者はいない。
ひたすら上を見て登り続けてきた人生だった。
しかし気がつくと、周りには誰もいなかった。
皆、自分は付いていけないからと下の方から手を振っていて、自分だけ一人高いところから空を見ていた。
最初は最高の景色だと思っていたのに、それがいつまでも続くと、ただの景色で何も面白くはない。
そればかりか、自分だけやけに風当たりが強くて、下にいる者達が楽しげに笑い歌っている様子を眺めるという状況に、息が詰まるような気持ちが出てきた。
高いところというのは、思ったよりも寒くて孤独だった。
しかし、一方で近寄ってくる人間はたくさんいた。皆、同じ目をしていて、同じ顔をしていた。今まで経験だと思ってそれなりに手を出してきたが、心から欲することのない欲というのは乾いたもので、熱が過ぎてしまえば嫌な気持ちだけが残るという、後味の悪いものだった。
きっと自分は欲の薄い人間なのだろうと思うようになった。適当に解消して生きていくのが自分の人生。誰といても何をしても、乾いているのが自分なのだと思い込むようになった。
山道を登っていた馬車が急にガタンと音を立てて止まった。
御者にどうしたと声をかけると、人がいたので驚いたのだと言われた。今抜かしますからと言われて、男はカーテンの隙間から外を覗いた。
外には学園の制服を着た令嬢が一人ふらふらと山道を登っていた。
ありえない光景であった。男の足でもこんな山道を登るのは大変なので、歩きを選択する者などいない。
御者に声をかけて、しばらく止まってくれと言った。
思い付いたのば馬車が故障して登るしかなかったのかということだが、誰も付いていないというはおかしい。御者が代わりの馬車を手配するだろうと思われた。
と言うことは自分の意思でと思ったが、すぐにそんなバカなと思いながら、隙間からその令嬢をじっと観察するように見てみた。
制服姿なので、ぱっと見た姿は他の令嬢と変わりないように見える。見た顔ではないので新入生だろう。
よく見るととても印象的な女性だった。
シルバーブロンドの髪は光に透けてキラキラと輝いていた。なめらかな陶器のような白い肌に、深い藍色の大きな瞳、小ぶりな鼻と口は可愛らしく、頬は赤く染まっていた。
そして、何より彼女は……汗だくだった。
単純に汗が流れるレベルではない。ずっと登ってきたからだろうか、制服は濡れて体に張りついて、髪も同じく濡れてペッタリとしている。顔には大量の汗が流れて、顎からポタポタと流れ落ちていた。
それを見た瞬間、男は息を飲んだ。
今まで感じたことのないような、痺れるような衝撃が体を貫いていった。
乾いていた自分が彼女から流れるもので満たされていくような、言葉にできない感覚だった。そしてそれは自分の体の中の強烈な熱を呼び覚ました。
むくむくと布を押し上げて立ち上がっていくものを感じて、男は熱い息を漏らした。
ずっと横付けして誰も出てこないからだろうか、止まっていた彼女は逃げるように一歩ずつ足を踏み出した。
ゆっくりと歩いていく彼女の後を追うように御者に命じた。
もう力が残っていなくて今にも倒れそうな彼女は、荒い息をはきながら、やはり汗をポタポタと垂らして足を引きずるように歩いていた。
その姿は男にとって最高に扇情的な光景で、思わず車内で自分の熱くなったものに手を伸ばした。
彼女がふらふらと動く度に、男が自分をしごく速度も上がった。流れ出てくる汗のにおいがこちらにも漂ってくるようだった。
それに触れて舌を這わせるところまで想像したら簡単に上り詰めてしまった。
それは、彼女がついに限界を迎えて道端に倒れこんだのと同時だった。
男は身なりを直して、手の中に放ったものを適当に拭ってから車外へ飛び出した。
声をかけると彼女はぼんやりとした目をしながら顔を上げた。間近で見ても美しい令嬢だったが、やはり身体中濡れて汗だくだった。
それを見て再び盛り上がってくる興奮の色を必死で隠した。男は冷静な顔をするのは得意だったが、さすがに今は隠しきれそうにもなかった。しかし、彼女は目が回っているのかこちらの様子には気づかず、馬車に乗せて欲しいと言われたので、喜んで中へ入ってもらった。
馬車の中でも彼女はポタポタと汗を垂らしていた。男も涎が流れそうになるのを隠しつつ、そればかり考えていたのでつい汗のことを指摘してしまった。
すると、彼女はショックを受けたような顔をした。そういう体質なのだと言ったが、あまり指摘されたくなかったのだろう。
わずかに唇が震えて、恥ずかしさに耐えているようだった。
なんて顔をするのかと男の理性は崩壊寸前になった。
わずかに残った理性を使って彼女の手を取り、紳士的に手の甲へキスをした。
手汗で汚れると言った彼女に、男は私は気にしないと伝えた。
そして、頭の中で彼女に謝ったのだ。
私の手も汚れていますからと。
□□
「うわっ…、その顔……」
「なんですか、その顔と言うのは……」
男子寮の部屋割りについて苦情が多く、各々の希望を聞き取って話し合っていたら、かなり遅くなってしまった。
今なら風呂も空いているから行こうぜと誘われて、シドヴィスはディオと二人で深夜の浴場へ向かうことになった。
「シドとは長い付き合いなのに、本当によく分からないやつだけどさ、その顔をしているときは、ろくなことを考えていないってことは分かった」
「失礼な……、大事なことを考えていたんですよ。欲しいものが、どうしたら手に入るか…ということを……」
深夜の寮の廊下は誰もいなくて、皆寝静まっていて静かだった。
二人の声は小さくてもよく響いた。
「……なんだよ。珍しく弱気だな。お前なら好き勝手できるだろうに」
シドヴィスは意中の人に自分を結婚相手に選ぶように必死にアピールしてみたが、さらりと断られてしまった。ならばと無理やりに約束を取りつけたか、それも自分らしくないやり方だった。
「力業でどうにかなるものではありませんからね……。なかなか、女性の扱いというのは難しいです。せめて男性であればもっと上手く……」
シドヴィスが思わずこぼした本音だったが、マイペースなディオはとっくに浴場の入口まで行っていて、何か言った?と振り向いて聞いてきた。
「………いいえ。それより、アズが何か意見があると言っていたみたいでしたが………」
「あー、それな。実はさぁ……」
ディオの賑やかな声に呼ばれるように、シドヴィスの姿も浴場の入口に消えていった。
この後起こる珍事はまた別のお話。
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