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 一瞬だけ、夜空が光に包まれた。  最初は本当にそれだけのことだった。  Hは、まるでそれが昔から身に降りかかっていた責務であったかのように、布団を払いのけ、角に似た寝癖を気にせず、かといって見苦しい外見をひけらかすわけでもなく、おそるおそる薄く透ける白いカーテンを開けた。  星は見えなかった。  空は当然のように暗く、眠り足りない体も示す通り、それはまごうことなき夜だった。  だるまさんがころんだ、そう三日月が囁くように、布団の中にいるときにかぎって夜空が光り、その正体を暴こうと窓際に駆け寄ったときには、なんの変哲もない夜だけが広がっていたのだ。  Hは時間を見る気にはならなかった。  この静けさが、どうせ深夜だ、と突き放すように告げるようで、時計に目を向けることが馬鹿らしく思えた。  布団に戻っても、しばらく寝つけないでいる。考えても同じことばかり頭を巡って、出口のない迷宮を彷徨っているように感じた。  光って、すぐに消える。空の気まぐれ。もしかしたら、昼間も時たま同じような現象が起きてはいるが、明るさによって気づかないだけなのではないか。こんなことを考えては、枕に頭をぐりぐりと押しつけて、努めて脳を休ませようとする。  夜は案外はやく終わった。天井に控えめな白い光がくっついて、Hはやけに脳が覚めていくのを感じた。  ついに、一睡もできなかったのだ。  何をするでもなく外を眺めると、背の低い家々はまだ眠っていて、起きているのは、屋根をうろつく一羽のカラスだけのように見えた。そいつはひっきりなしにくちばしを開いている。Hとカラスだけが今という時間を共有している仲間だとでも言いたげな朝だ。  空に広がるのは太陽と付随する明るさだけで、先刻の光はなりを潜めたようだ。いや、仮に光っていても、太陽の下では無力なだけなのかもしれない。  Hは散歩に出かけることにした。ニュースの類で天気を調べなくても、今が適温であることくらいわかっていた。  鏡で寝癖をなおし、あくびと同時進行で扉を開いた。すると、急に開いた扉に驚いたのか、目の前の老人はハッとした顔で二、三歩後退し、申し訳なさそうに両手を合わせ、ドライフルーツのような唇をかすかに動かした。  Hは慣れた動きで、両手を使ってバツを作った。何やら思い出したように老人は頷き、急いで上の階に向かい、すぐさま戻ってきた。 「夜中、光っているの、気づきましたか」  きっと記憶力低下のため手の届くところに置かれていたであろうメモ用紙に、高級そうな万年筆でそう書いた。その字は大きく、教養を感じさせるものだ。  Hは頷いた。目が半分開いたままだから、眠気に負けまいと抵抗しているようにも見える。 「フラッシュ音で起こされました。あれは盗撮ですよ。警察に電話しましょう」  Hはしばらく固まって、ゆっくりと頷いた。  ずっと引っかかっていた謎が解けて、不謹慎ながら、少しスッキリしたのだ。  しかし、パズルで最適解のピースを見つけたような喜びはすぐに消え、Hに嫌な寒気が走った。  そして、暖かい光が太陽とセットで現れるように、寒気と足並みを揃えた怒りが湧き上がってきた。  それは、耳が聞こえないことに対する怒りではない。  一夜という貴重な時間を奪ったのが、こんなにもくだらないものであったことに対する怒りであった。  Hは部屋に戻り、忌々しいカーテンを力いっぱい閉めたあと、老人に携帯電話を渡した。
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