導入

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導入

 右、左、フック、フェイントからのアッパー。全部避けてボディに一発。のけぞった相手にさらに追撃を入れるため、間合いを詰める。ここでとどめの右ストレート!  いける! 今日は勝てる……!  そう喜んだのも束の間、全神経でぶち込んだ俺の拳は、易々と相手に止められた。 「だからさぁ、甘いんだよ!」  そのまま俺が殴った場所と同じところに渾身の一撃。体がくの字に曲がる感覚がして、視界がぐるんと回転する。気付いたら目の前には青空があった。  打ちどころが悪かったらしく、もう体は動かない。また今日も俺の負けだった。 「つまんねぇな、もうちょっと楽しませろよ」  そいつは俺のことを蹴り飛ばし、大きく伸びをして去っていく。その憎々しい赤い背中に、俺は「馬鹿力め……」と捨て台詞を吐いた。  俺のパンチの10倍以上はある。相変わらずのインフレ具合だった。多分強さを例えるなら俺はミジンコで、あいつはゾウだ。勝てっこないのだ。  咳き込んだ拍子に血を吐き出す。内臓がいくつかダメになっただろう。ケタ違いの破壊力に俺は乾いた笑いを漏らした。 「また、治療費が嵩むなぁ……」  空っぽになるであろう財布に想いを馳せて、俺は基地へ戻る帰還装置のスイッチを押した。 「ヴィランNo.038ノ オカエリ! オカエリ! オカエリ!」 「ただいま」  基地に戻るといつも出迎えてくれる、オウム型メカ「オウちゃん」。この鳥が周りをグルグル回って俺たちの識別番号を解析し、タイムカードのような役目を果たしている。 「ヴィランNo.038ノ ケガ カクニン! カクニン! イムシツ ハコブ! ハコブ!」  バタバタと俺の周りをはためいて、けたたましく叫ぶオウちゃん。ヒーローにやられることが仕事の俺たちヴィランが、歩けないくらいの重症を負ったとき、すぐ対応できるようにという機能らしい。  便利だが、ちょっと煩いのがネックだ。 「いや、大丈夫。自分で行くよ」 「オタッシャデ! オタッシャデ!」  簡易的な担架に変形しようとしたオウちゃんを断って、俺は医務室へ向かった。  医務室は、長い廊下の一番奥、扉を開けて右に曲がって、そのまま進んでまた右に曲がって……長いから以下省略。とにかく、かなり入り組んだ奥の方にひっそりと構えていた。  壁に手をつきながら、ゆっくりと進んでいく。これは意地を張らずに担架に乗せて貰えばよかったか。だけど、担架に乗ると、担架代といった治療費とはまた別の料金が発生するのだ。ヒーローに負け続きで金銭のゆとりがない俺は、断るのが定石だった。  10分くらいかけて、なんとか医務室にたどり着く。扉をノックすると、ため息と間延びした声で「どうぞ」と声が返ってきた。 「また君ですか」 「すみません」  入って丸椅子に腰掛ける。白衣を着た男が、メガネを外して俺の方を向いた。キレ長の目がキュッと細くなり、俺の胃も申し訳なさでキュッと細くなる。 「診てあげるので早く脱ぎなさい」  大人しく来ていた黒のユニフォームの裾を捲り上げる。腹部が紫色に腫れ上がっていて、かなり痛々しい惨状になっていた。医者の頬が引き攣っている。何か言いたげな顔をしているが、大方無理して担架に乗らなかったことだろう。俺の胃がまた縮むのを感じた。 「派手にやられましたね」  触りますよ、と医者の手が軽く傷に触れる。あまりの痛みに絶叫ものだったが、服の裾を噛んでなんとかやり過ごした。 「診察中です、我慢しなさい」  ピシャリと注意される。まさに血も涙もないとはこのことだろう。痛いところに触る方が悪いのだ、俺は涙目になりながら医者を睨みつけた。  医者はそんなのどこ吹く風で、俺の体をペタペタと触っていく。こいつは触るだけでどこが悪いのかわかるらしい、ゴッドハンドってやつだ。俺にはただベタベタ触られてるようにしか思えないけど。  たっぷりと時間をかけて俺の体を触り、医者はやっと顔を上げた。 「内臓損傷、腹部の打撲ですね、これくらいならいつもので治るでしょう」  そう言って、美容院でパーマをかけるときに使うようなゴテゴテしい機械を連れてくる。この機械をかぶると、不思議とどんな傷でも治ってしまうのだった。仕組みは企業秘密だそうだ。 「いきますよ、3分間ジッとしていてくださいね」  頭がすっぽりとその機械に覆われて、俺の視界は真っ暗になる。この瞬間は何回経験しても恐ろしいと感じてしまう自分がいた。  ウィン、と機械の稼働音、すぐあとになにか円盤のようなものが回る音が聞こえた。機械が正常に動き始めたらしい。あと3分待てば、俺の怪我は完治しているはずだ。 「ヴィランNo.038、担当はフレイムバスターでしたね」  3分間、こうやって医者は気晴らしに世間話もしてくれる。彼の鋭い声が、少しだけ和らぐ、俺はこの時間が嫌いではなかった。 「担当が彼に代わってから、負け続きでして……面目ないです」  フレイムバスター、俺が担当しているヒーローだ。赤い衣装に甘いルックス、だけど爽やかで負けん気が強い熱血キャラで、子どもたちだけでなくそのお母様たちからも支持を得ているヒーロー界の期待の若手ヒーローだった。顔良し性格良しスタイル良し、その上、大学に通うかたわら、俺たちヴィランの相手もしているらしい。 「仕方ありませんよ、最近ヒーローもどんどん強くなっているので」 「あいつが十分人気になったら、俺もお役御免になるとは思うんですけど……」 「ヒーローは貪欲ですから、しばらくは離してくれなさそうですね」 「は、はは……」  ヴィランは、ヒーローが人気になるまでのサポートのような役回りをしている。簡単に言うと体のいいやられ役だ。街で悪さをして、ヒーローに倒される、そのヒーローが有名になれば、犯罪の抑止力にもなる。この世界はそういったカラクリで動いていた。こんなのマッチポンプでしかない。この情報はヴィランの人間にしか公表されていないのだ。ヒーローでさえ知らない、だから彼らは全力で俺たちヴィランを倒しにくるのだ。  あいつが人気になるのが先か、俺の体が完全に壊れるのが先か。どちらにせよ長く続く絶望の未来にじわりと嫌な汗が浮かんできた。  なにかを啜る音が聞こえる。多分、医者がコーヒーを飲んだのだろう。ブラックコーヒーのいい香りが漂ってくる気がした。 「そういえば、弟さんはお元気ですか?」 「ああ、この前大学に入学したんですよ」 「おめでとうございます、早いものですね」  俺の弟。目に入れても痛くないくらいの存在で、俺がヴィランを続ける理由でもあった。  両親を亡くし、まだ小さかった弟を抱えて、路頭に迷っていた俺を受け入れてくれたのが、この組織だった。なにもない俺でも体を張れば簡単に稼げるこの世界。おかげで弟には苦労かけずに大学まで行かせることができた。ここには感謝してもしきれないほどの恩があるのだ。道外れたこともたくさんしてきたけれど、弟を育て上げるためならなんでもすると両親の遺影の前で誓っていたのだ。今更後悔なんてしていない。 「今度久々に会うんです」 「そうですか、楽しんでください」 「先生にもお土産買ってきますよ、なにがいいですか?」  息を呑む音が聞こえた。ちょっと踏み込みすぎたかもしれない。俺が軽く後悔していると、おずおずといった感じで口を開く。 「……では、甘味を」 「わかりました、任せてください!」  心の距離がちょっと近づいたような気がして、ガッツポーズをする。これぞ怪我の功名だ。本物の怪我だけど。  稼働音が消えた。どうやら機械が停止したようだ。かぶっていた機械を脱ぐと、冷たい視線の医者と目があった。多分、俺はそうとう浮かれた顔をしていたんだと思う。
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