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「わっ」
玄関のドアがバタンと閉まるのと同時に、ぐっと強く腕を引かれ春の胸に飛び込んだ。
ぎゅうっと抱きしめられれば、春のお日様みたいに暖かくて、優しい香りが胸いっぱいに広がっていく。静かな部屋にはちくたく、ちくたく、とかすかな時計の音が鳴っていた。
「雪」
そっと体を離されると、黒く、澄んだ春の瞳と視線が重なる。真夜中みたいに真っ黒なのに、その瞳には光が宿っている。
綺麗。
見惚れてしまうくらいに綺麗で、こんなにも美しい人を自分なんかが縛ってはいけないと思っていた。誰よりも優しくて、愛情深くて、才能溢れる美しい人を。
ずっとずっと怖かった。自分の過去が、お母さんの罪が、春の人生を壊してしまうのが怖かった。
「雪、おいで」
春に手を引かれて部屋の中を進む。ソファーに並んで腰掛けると優しく頬をなでられて、その手が気持ちよくて自然とすり寄ってしまう。ふふ、と嬉しそうに笑った春がゆっくりと口を開いた。
「雪。今日、なんで、」
「春」
春の言葉を遮って、その目をまっすぐに見つめる。
「春の話を聞きたいの」
「俺の話?」
「うん。病院で出会う前の、春のこと」
その瞬間、春の喉からひゅっという音が聞こえて、そしてほんの少し春の顔が苦しげに歪んで、春の厚い唇が「どうして?」と動いた。
*
*
「さっき、お母さんに聞いたんじゃないの?」
「…でも、春の気持ちは聞いてない」
「春は、寂しかった?」
「…、そうだね。寂しかったのかも」
そう、低くつぶやいた春の胸に手を当てる。するとその手に春の手が重なって、春の手はひんやりとして冷たい。
『手を当てて治すから”手当て”って言うんだって。だから、毎日こうしていれば、きっと治るよ』
11歳の春の言葉を思い出す。あれは病院の中庭で紅茶色の石を探しているとき。
春からもらった初めてのプレゼントは、つやつやとした紅茶色の石。大事な大事な宝物。
「でもね、寂しかったから雪に会いに行ってたわけじゃない。雪に会いたかったから。雪のことが好きだったからだよ」
「うん…。でもね、それでもいいの。春が寂しかったとき、そばにいれたなら、すごく嬉しい」
あの頃は手当てをしてもらうばっかりだった。春の手は体の傷だけじゃなくて、心の傷も治してくれた。春と同じようにはできないけど、ほんの少しでも春の心を温めることができたら。春の寂しさを埋めることができたら。
「春は、今も寂しい…?」
*
*
「雪。キスしてもいい?」
「えっ…?」
驚いて顔をあげると、春の手が髪の中に差し込まれて、そのまま顔が近付いてくる。
「…んっ」
春の柔らかい唇が、一度だけ触れてそしてすぐに離れていく。なんだか寂しくて、その唇を目で追ってしまって。そしてそれに気付いた春が優しく目を細めた。
「今は…、雪と出会ってからはずっと、もう寂しくない。雪がいるから俺は寂しくない。これから先もずっと、雪がいれば俺は寂しくない」
これから先もずっと。ただそばにいるだけで春の寂しさを埋めることができる…?
これから先、何度眠れない夜がやってくるだろう。生まれてきてよかったと思う。生きていてよかったと思う。そうどんなに強く思っても、全てを捨てて、春を傷つけて、生きることから逃げ出したくなるときが、またやってくるかもしれない。
それでもいいと春は言った。何度逃げても何度でも迎えに行くと。
「春…。ずっと、ずっと、俺のこと、好きでいてくれる…?」
「うん。俺はずっとずっと、雪のことが好きだよ」
「何度でも、迎えにきてくれる?」
「うん。何度でも、どこへでも、雪を迎えに行く」
春の言葉は、いつだって強くて、まっすぐで、純粋で。
「俺はずっと、雪を愛してる。だから不安にならないで、俺を信じて、俺に委ねて、俺についてきてほしい」
「ついてきて、雪」と、もう一度春が言った。
小学生のときの運動会。リレーのアンカーだった春は、前を走る3人の生徒を一気に抜き去って、大きな歓声の中ゴールテープを切った。100メートル走も、障害物走も、春は誰よりも速く校庭を駆け抜けて行ったんだ。
本当は速く走れるその足で、春はいつもゆっくりゆっくり隣を歩いてくれた。下を向いて立ち止まってしまったときには「大丈夫だよ」「一緒に行こう」って、優しく手を引いてくれた。ほんの少し先を歩く春の大きな背中が大好きで、その背中に隠れて守ってもらっているばかりだった。
これから先もきっと、春に甘えて寄りかかってばかりかもしれない。だけど春がつらいとき、寂しいとき、疲れたときは、春の前は歩けなくても、せめて春の隣で、肩を触れ合わせながら歩きたい。
「春…。誕生日おめでとう」
「ふふ、うん、ありがとう」
もう生きていたくないと思った。それなら死んでしまえばいいと思うほど、痛くて、苦しくて、怖いことばかりだったけれど。
それでも、春と一緒なら、その全てを優しさに変えて生きていける。
伝えなきゃ。胸の中にある想いを。春に、今。
「春…。どんなに言葉にしても足りないくらい、春のことを、愛しています。俺と、結婚してください」
ぽたり、ぽたり。
宝石のように綺麗な涙が春の瞳からこぼれていく。
キラキラと輝く瞳から目を離すことができなくて、春の頬に手を伸ばして、こぼれ落ちる涙を一粒一粒拭っていく。春がいつもしてくれるみたいに。
そのままぎゅっと春を抱きしめたかった。春の背中に回そうとした手をぐっと引き寄せられて、次の瞬間には逞しい春の腕に体全部を包まれていた。
「雪…っ、…雪、雪…」
「春…、はる…、」
呼吸が止まるほどの力強い抱擁だった。
痛くて、苦しくて、それでも離れたくなくて。もっともっとというように、春の腕に縋ってしまう。気付けば自分の目からもダラダラと涙があふれて、春の胸を濡らしていく。
愛も永遠もどんな言葉も、この目に映すことはできない。目に見えないものは怖い。だけど春の愛なら、春との永遠なら、春の言葉なら。そのすべてを信じることが出来る気がした。
「雪」
「春」
何度も何度も互いの名前を呼んだ。
たったひとりの恋人の名前を。
「雪、ちょっと待ってて」
ふいに体を離した春が寝室へ向かった。戻って来た春の手には赤いリボンの飾りがついた白くて丸い小さな箱。それはあの宝箱によく似ている。
春はプロポーズしてくれた日と同じように、目の前で片膝をついて、パカッとその箱を開けた。
「雪。俺と結婚してください」
「…っ、」
「嵌めてもいい?」
ダラダラと流れる涙が邪魔をして、うん、と頷くことしかできない。
「良かった、ぴったりだ」
箱の中に入っていたのはシルバーの指輪。
「…雪の、結晶…?」
「うん、綺麗でしょ?」
左手の薬指に嵌められたその指輪には、ダイヤモンドでかたどられた雪の結晶がキラキラと輝いている。
恋をしている。たったひとつの初恋をずっと続けてきた。
これから先も、ずっと、ずっと、あなたとふたりで。
おわり
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クロニクル完結となります。
読みにくい部分も多々あったかと思いますが、最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
(あわせていつもスターやスタンプ、コメントくださった皆様、本当に本当にありがとうございます。とっても嬉しかったです。)
今後も全く別のお話だったり、春と雪のその後のお話だったりを書いていけたらなと思っているので、そのときは読んでみていただけると嬉しいです。
(スター特典に春の22歳の誕生日翌日のお話を書きました。もしよければそちらもぜひご覧ください。)
2022/01/23 椎名
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