第1章 夜明け

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第1章 夜明け

蒼佑(そうすけ) たすけて それは3年ぶりに耳に届いた姉の声だった。   姉の(ゆい)は3年前のあの日、息子の(ゆき)を連れて姿を消した。手がかじかむほどの寒い冬の日で、雪の7歳の誕生日を3日後に控えていた。 * * 『彼氏と一緒に暮らす。雪も一緒でいいって言ってくれてるから』 電話の向こうにいる結の声を聞きながら自分が一体何を思ったのか、そんなことはもう覚えていない。 今までだって結が家を空けることはよくあった。幼い雪を置いて突然いなくなったかと思えば、数日後には当たり前のように戻ってくる。またか、というのが正直なところだった。いつもは置いていくくせに、そのとき雪を連れて行ったことは気に障ったけど、どうせすぐに帰ってくるだろうとたかを括っていた。 だけどそれから3年、ふたりが帰ってくることはなかった。どこにいるのかも、誰といるのかも、死んでいるのか、生きているのかさえ分からなかった。 その当時結に恋人がいることは知っていた。その男に会ったことはなかったけど、何度かその男と顔を合わせていたたった6歳の小さな雪が「あの人いやや。なんか怖いんやもん」とぽつりと言ったことがあった。 そう、あの日、雪は確かに「怖い」と言っていたのに。 俺と結は半分しか血が繋がっていない。父親が違うせいだ。結の父親の顔を俺は知らないし、自分の父親の顔だってうろ覚えだ。 母は水商売で生きるための金を稼いでいた。朝方帰ってくるとフラフラと覚束ない足取りで寝室へ向かい、そのまま部屋を出てくることはなかった。夕方になるとむくりと起き上がり、シャワーを浴びて、濃い化粧をして、また家を出て行く。 家の中はキツイ香水の香りと煙草の匂いが染み付いていて、息を吸うのも嫌だった。 俺は母が、あの家が嫌いだった。 おそらく店の客だろうが、その家にはかわるがわる色々な男が出入りしていた。ある時期家に入り浸っていた男は酒を飲んでは暴れ、ひどい暴力を振るう男だった。怒声を聞いた隣人が警察を呼んだこともあるくらいだ。 ほとんど夜逃げみたいなものだった。その男から逃げるように住み慣れた大阪を離れ東京にきた。俺が9歳、結が14歳のときのことだ。そしてそれを援助してくれた男とのちに母は結婚をした。 家庭環境のせいにするつもりはないが、俺も結もあまり素行のいい子どもではなかった。高校生になった結は家に帰ることもほとんどなくなり、東京でできた友人の家を転々としているようだった。 そして結は妊娠をした。 それを聞いたとき母に似て馬鹿な女だと思った。子どもなんて作ってどうするんだ、育てられるわけがないと。望まれない子どもが、母親を馬鹿にするような子どもが、またひとり増えるだけ。そう思っていた。 12月17日 雪が生まれたのはハラハラと粉雪の舞う、とても美しい夜だった。 生まれたばかりの雪を抱いて結は泣いていた。そして俺も泣いていた。「なんであんたが泣いてるん」と笑う結は愛情に満ちた母親の顔をしていた。  そっと小さな雪の手に触れると、体の奥底からふつふつと何かが湧き上がってくるのを感じた。それが愛おしいという感情だと知るのは、もう少し大人になってからだったけれど。 雪は身内の贔屓目を抜きにしてもとても可愛い子だった。ふわふわの柔らかい黒髪。目尻がきゅっと上がった紅茶色の大きな瞳。子どもの頃の結によく似ていて、小学生になってからも女の子に間違えられることが多くあったくらいだ。 結は雪の父親は誰だか分からないと言った。不特定多数の男と関係を持って、金をもらったりもしていたらしい。知らなかった姉の姿だった。 『父親なんていなくていい』 そう呟く結の瞳は光をなくしゆらゆらと揺れていて、そのとき決めたはずだった。小さくて頼りないこの子を自分が守るんだと。強くて優しい、雪の父親になるんだと。 母と結婚した男はごく普通の会社員だった。 それなりの給料はもらっていたようだけど、特別大金持ちというわけでもない。どこで母と知り合ったのか、どうして母と結婚したのか、不思議だったしまったく理解できなかった。ただ俺が高校を卒業できたのも、結が雪を生み育てることができたのも、彼のおかげであることは間違いがない。 “お父さん”だなんて呼んだことはないし、18歳で家を出てからは一度も会っていないけど”父親”と聞いて浮かぶのはいつもその彼の顔だった。 * * 結に指定されて向かった住所は俺の住んでいる部屋から歩いて20分程のところだった。まさかこんなに近くにいたなんてと驚いたけど、きっと何か事情があってこの街に戻ってきたんだろう。 古びたアパートの階段を上がって左から2番目の部屋の前に立つ。ひとつ深呼吸をしてゆっくりインターホンを押した。しばらく待っても応答はない。だけどこのまま帰るわけにはいかなかった。ドアノブに手をかけると何の抵抗もなくドアが開いた。 カーテンが閉めきられた部屋は真っ暗でじめじめと湿気ているように感じた。 手探りで電気のスイッチを探すとパチッという音とともに部屋に明かりが灯った。ろくに家具もなく生活感のない狭い部屋の真ん中で、ぺたんと床に座り込む女のそばに小さな男の子が横たわっていた。 「雪?」 近づいて見る雪は服を着ていても分かるくらいにひどく痩せていた。長く伸びた前髪をそっとあげると、大きな瞳は閉じられ、長いまつ毛がかすかに揺れた。 「結。これどうした」 雪の目の上には青黒い痣があった。「何があった?」そう問いかけても結はうつろな目で壁の1点を見つめたまま、何も答えることはなかった。 ポケットからスマホを取り出し電話をかける。「雪が怪我した。見てやってほしい」すぐに出てくれた相手にそうと告げると、電話の向こうで戸惑いと驚きの声があがった。 赤ちゃんを抱っこするように眠る雪を抱きかかえると、その小さくて軽すぎる体からトクトクとかすかな鼓動が伝わって、雪が生きていることを教えてくれる。 雪は、生きている。 * * 隼人(はやと)の父親が院長を務める病院の個室でベッドの上で眠る雪の寝顔を眺めていた。 隼人は中学からの友人で、誰も関わりを持とうとしなかった俺に妙に懐いてつきまとってくる不思議な奴だった。お前うざいんやけど、と突き放してみても「そうなの。俺空気読めないってよく言われるんだよね」と楽しそうに笑うだけ。マイペースで自由奔放。これだから金持ちのぼっちゃんは、と何度思ったか。それでもなぜか嫌いになれなくて、いまだに一緒にいる。 隼人が雪に初めて会ったのは、結が雪を連れて公園を散歩しているときだった。たまたま学校帰りに遭遇して、見つかってしまった…と思ったのを覚えている。 それから隼人は毎日のように雪に会いに来た。 結のかわりにおむつを替えたりご飯を食べさせたり。「俺が赤ちゃんのとき遊んでたんだって!」とたくさんのおもちゃを持ってきては雪を笑わせていた。 そんな雪を見て結は確かに幸せそうだった。 雪がいなくなったとき、隼人は小さな子どもみたいに大きな声をあげてわんわん泣いていたっけ。 「雪寝てる?」 病室の扉がそっと開き、隼人が顔を覗かせた。 雪に近づき優しくその髪をなでる隼人の顔は今にも泣きだしそうに歪んでいて、見ているこっちが苦しくなった。 雪の治療をしてくれたのはこの病院の医師である隼人の兄だった。隼人も昔から頭のいい奴だったけど医者になるつもりはこれっぽっちもないようで、理由は分からないけど大学も医学部には行かず何やら経営の勉強をしている。 「検査したけど頭には異常ないって。でも栄養失調の状態だから、何日か入院させたほうがいいって。しばらくまともに食べてなかったんだろうね」 「すげえ痩せてるもんな」 「それと足はね、足首を骨折してるみたい。その後ちゃんとした治療を受けないで放置したせいで変形してるって」 結の部屋では気が付かなかったけど、雪の左足首はおかしな方向にまがっていて、体中いたるところに痣や切り傷、煙草を押し付けられたような丸い火傷の痕があった。 「蒼佑」 眠る雪から声のする方へ視線を移すと、隼人が何かに耐えるようにぐっと唇を噛み締めていた。 そこはだんだんと震えはじめて、耐えきれなくなったのか両目からはぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。 「兄貴が言ってた。性的な虐待も受けていたと思うって」
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