第1章 夜明け

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よく晴れた日だった。 顔を上げれば胸がぎゅっと締め付けられるほどの雲ひとつない青空が広がっていて、冷たく乾いた冬の風が吹いていた。中庭のベンチに雪と並んで座り、花壇に植えられた花たちが風に吹かれてゆらゆらと揺れている姿を眺めていた。 雪は杖をつけば問題なく歩けた。 ゆっくりゆっくり雪のペースに合わせて歩くのは、雪を守らなければいけないという思いを強くさせていくようだった。 あの日目覚めた雪はゆらゆらと不安げに瞳を彷徨わせたあと、俺の顔を見て驚いたように目を見開いた。この3年間一度も会うことはなかった。だけど「雪」と名前を呼べば目を細めてふわりと微笑んでくれて、たったそれだけのことが息が詰まるほど嬉しかった。 『そうすけくん、そうすけくん』 一緒に暮らしていた頃の雪はぺたぺたと俺のあとをくっついて、透き通るような高くて心地の良い声でいつも名前を呼んでくれていた。またあの声で名前を呼んでほしかった。だけどそれは叶わなかった。 その声を、雪はいつの間にかなくしてしまっていた。 * * 「何してるの?」 突然降ってきた声に隣にいる雪の体がびくっと揺れた。 いつの間に来たのか俺たちの前に1人の少年が立っていた。 雪より少し年上だろうか。色白の肌とサラサラの金髪が太陽の光を浴びてキラキラ眩しいほど輝いている。一瞬外国の子?と思ったけど、どうやら日本人のようだ。その少年は右腕にギプスをはめ、おでこには大きなガーゼを当てていた。 「いや、お前どうしたん?その怪我」 少年の質問を無視して聞くと「走ってて転んだだけ」と何でもないという様子で言いながら、その子はきれいに笑った。そして俯いてじっとしている雪の隣に腰を下ろし「ねぇ、名前なんて言うの?」と雪の顔を覗き込むようにして問いかけた。子どもにしては低めの少し掠れた優しい声だった。 「俺はね、広瀬(はる)!」 「俺はね、笹原蒼佑」 「お兄ちゃんには聞いてないんだけど!この子は?」 「雪」 「ゆき?綺麗な名前だね。ね、雪は何歳?俺は11歳!」 「俺はにじゅういっさい!」 「だから蒼佑くんには聞いてないって!」   ケラケラと笑いながら楽しそうに抗議の声をあげる春。 その名の通り、季節がひとつ進んで一足早く春がやってきたみたいだ。 春が来た途端、寒かったこの場所がポカポカと暖かく感じた。 「雪は10歳」 「4年生?」 「そう、やな」 たった1歳しか違わないのに春と比べて雪はとても幼く見えた。 平均的な10歳より雪はかなり華奢だろうし、顔つきも6歳の頃とそう変わっていないような気がした。そういえば雪は学校には行っていたんだろうか。あの薄暗い部屋で横たわる雪の姿を思い出していると「ねぇ」とまた春の声が響いた。 「ねぇ蒼佑くん。俺、雪と友達になってもいい?」 * * 雪の病室は大きな窓から明るい陽が差し込む気持ちのいい部屋だった。 ベッドの他にシャワー、トイレ、冷蔵庫、テレビ、ロッカー、長方形のテーブルに2人掛けのソファー、椅子2脚が備えられている。こんなにいい部屋使っていいのか?と隼人に聞くと「空いてるからねぇ」とのんびり答えていた。 「ただいまー!!」 ガラッと大きな音をたてて病室の扉が開き、元気な声とともにランドセルを背負った春が顔を出した。あれから春は毎日雪に会いに来ている。 初めは警戒して怖がっていた雪も春の笑顔に絆されたのかだんだんと目を合わせるようになり、そしてあの日、雪と春は友達になった。それは「雪と友達になってもいい?」と春が聞いてから7日目のことで、出会ったあの日と同じ美しい青が広がるよく晴れた日だった。 ギプスの外れた春はそれはもう元気いっぱい!といった様子だった。 特にその日はいつにも増して機嫌が良さそうで、何かいいことでもあったのか?と聞こうとしたけど、俺のことなんて見えていないみたいに一目散に雪のもとへと歩み寄った。 「雪可愛い!その服とっても似合ってる!」 その日の雪は空から舞い落ちる雪のように真っ白なふわふわのセーターを着ていて、春の言う通りとてもよく似合っていた。 ただ雪にはサイズが大きすぎて丈も長いしブカブカだった。 「なんかウェディングドレスみたいだね」 ………ん?ニコニコと訳の分からないことを言う春。 「春?まさかと思うけど、雪は女の子じゃないぞ?男だからな?」 「蒼佑くん何言ってんの?そんなの知ってるよ」 なぜか怪訝な顔を向けてくる春に「何言ってんのはお前や!」と言ってやりたかったけど、春は早々に雪に視線を戻して「これ雪にあげる」とぎゅっと握っていた右手を雪の目の前に差し出した。 「なにそれ?ビー玉?」 開かれた手のひらにはつやつやと輝くちょっと歪なかたちのビー玉のようなものが乗せられていて、雪は大きな目をパチパチとさせながらそれと春の顔を交互に見つめた。 「石だよ」 「石?すげぇきれいやん。パワーストーンとか?」 それはただの石とはまるで思えないほどに輝いていた。 雪も不思議そうに首をかしげて春を見上げている。 「ただの石だよ。お父さんと磨いたの、8時間くらい」 「8時間!?」 驚く俺を無視して雪にその石を握らせながら春は楽しそうに言った。 「綺麗でしょ?雪の目とおんなじ色だよ」 紅茶色の瞳をキラキラと輝かせて、手のひらに乗せられた石にちょんちょんと触れる雪。そんな雪を春は満足げに見つめていた。 「どこで拾ったん?」 「病院の中庭」 その石は確かに雪の瞳と同じ色をしていた。 こんな色の石落ちてるんやな、と思っていると「探しに行ってみる?」と春が雪に問いかけた。パッと顔を上げて大きく頷いた雪の手を春がそっと握った。 雪の手を引いて中庭にやってきた春は「このへんで拾ったんだよね〜」と言いながら服が汚れるのも気にしないで地面に膝をついた。 雪も春の隣にぺたんと座り、カサカサと音を立てる落ち葉の中に手を入れた。 真っ白なセーターに茶色い葉っぱがくっついて、それを見た春が手を伸ばした。 「汚れちゃうから袖捲ってあげる」 あ、と思ったときにはもう遅かった。 ひじのあたりまで捲られたセーター。露わになった細い腕。そこに残る黄色に変色した痣と小さな丸い火傷の痕。雪が咄嗟に腕を引っ込めようとしたけど、春はそれを許さなかった。 「雪。ここどうしたの?」 ぎゅっと春に腕を掴まれて雪の目に怯えの色が浮かぶ。 春、と呼びかけようとしたところで春の手のひらがそっとその腕をなでた。 とても大事な宝物に触れるように、優しく、優しく。 まるで魔法をかけているようだった。 手が離れたらそこにあったはずの傷が消えて無くなっているんじゃないかって、そんなことを思ってしまうくらいに春の手は優しかった。 「雪、ここ痛い?」 顔に怯えを残したまま、雪は困ったように眉を下げた。もうほとんど痛みは無くなっているはずだけど、傷痕はなかなか消えてくれなかった。 困り顔の雪を見て、春が言う。「早く治りますようにって、俺が毎日こうやってなでてあげる」 「手を当てて治すから”手当て”って言うんだって。だから、毎日こうしていれば、きっと治るよ」 それから春は毎日毎日雪の腕に触れた。 儀式と言ってもいいかもしれない。神に祈りを捧げる、神聖な儀式だ。 結局そのあと雪の目と同じ色の石は見つからなかった。「ごめんね雪」と悲しそうな顔をする春に雪はブンブンと首を横に振った。 病室に戻り「そろそろ行かなかきゃ」とランドセルを背負った春を呼び止める。 「春、これ食う?あげる」 春に渡したのは棒のついたコーラ味のキャンディだ。ありがと、と受け取った春はすぐにベリッと包みを剥がしパクッと口に含んだ。 そしてそれを口の中でころころと転がしながら言った。 「これも雪の目とおんなじ色だね」
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