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「綺麗だねぇ」
翌日雪は遊びにきた隼人にあの石を自慢していた。
春が帰ったあとも雪は石をぎゅっと握りしめたまま離さなかった。
手の中にいれたまま寝ようとするから「なくすから置いとけ」って説得するのが大変だったくらいだ。朝起きるとすぐにテーブルに置いていた石を手に取り、ニコニコと嬉しそうに手のひらに乗せたそれを眺めていた。
「そうだ雪、宝物入れ買いに行こう!」
思い立ったが吉日とばかりに勢い良く立ち上がった隼人は驚いて戸惑う雪にコートを着せて杖を握らせた。
「蒼佑!財布持って!行くよ!」
隼人に連れてこられたのは駅前の商店街にある小さな雑貨屋だった。
店内は所狭しと商品が並べられていて、女子高生と思しき2人組が「かわいー」と手作りのアクセサリーを手にとっては棚に戻しを繰り返している。間違いなく雪がいなければ来ることのなかった場所だ。
どうやら隼人はあの石を入れておくための小物入れを買うつもりらしい。
せわしなくきょろきょろと首を動かしながら店内を歩いていた雪が、過ぎ去ったはずのクリスマス用のオーナメントが並べられた棚の前で足を止めた。そこにはオーナメントの他に様々な色や形のプレゼントボックスが雑然と置かれていた。
「雪、これがいい?」隣にしゃがみ顔を覗き込む隼人に雪がこくんと頷いた。
ふたりの視線の先には赤いリボンのかかった真っ白な丸い箱があった。
「雪は白でしょ?春は赤だよね」
「ん?」
「春ってなんか主人公っぽいじゃん。赤レンジャーって感じしない?」
確かに、と隼人の言葉に同意する。確かに春は赤レンジャーみたいだ。子どもの頃にテレビの中にいた彼は、明るくて、優しくて、そしてとても強かった。悪者には絶対に負けなかった。
「はい、どうぞ」と身をかがめた若い女性の店員さんが雪に茶色の紙袋を渡してくれた。はにかみながら受け取る雪に彼女は聞いた。
「誰かにプレゼントをあげるの?」
ピクッと体を揺らした雪は紙袋を腕にきつく抱えてそのまま俯いてしまった。
そんな雪の代わりに隼人が答えた。
「あげるんじゃなくてもらったものをしまっておくんです。この子の宝箱にしたくて」
彼女は「そうなんですか。素敵ですね」と目を細め、雪と視線を合わせるようにその場にしゃがみ込んだ。
「きっとこの箱がいっぱいになるくらい、これからたくさんの宝物ができるよ」
*
*
雪にとって春はきっと初めての友達だった。
春を受け入れた雪は今までの態度が嘘みたいに春に懐いた。春が病室にいる間はソファーにふたり並んで座り、ぴったりとくっついて離れなかった。春の話をニコニコ楽しそうに聞いて、春の描く下手くそな絵を嬉しそうに見てはもっと書いてと言うようにノートのページをめくったりした。
春のすること、春の話すこと。その全てが雪を笑顔にさせた。
中でも雪が一番好きだったのは春が幼稚園の頃から習っているというダンスを見ることだった。春が病室で初めて踊ってくれたとき、雪は目ん玉が落ちてしまうんじゃないかと心配になるくらい大きな目をさらに大きくして驚いていた。
春のダンスは魅力的だった。小学生とは思えないほどキレがあって、迫力があって、もっと踊って欲しいと思わせるものだった。
そういえば春の怪我の原因は何だったんだ?と、わざわざあいさつに来てくれた春のお母さんに聞いてみたことがある。
「買い物帰りにね、普通に歩いてただけなのよ?そしたら急に全力疾走しだして…そのまま電柱に突っ込んだの。あの子、ほんとにバカなのよ」
「まじっすか!それ!」
春のお母さんが心底呆れたように言うものだから思わず声を出して笑ってしまった。
仕事が休みの日は春のお父さんも病室に遊びに来てくれた。
筋肉質で背が高く、とても男前で、柔らかい笑顔が春によく似ていた。老若男女問わず空手を教えているそうで「春も一応空手をやっているけど、春は空手よりもダンスの方が好きみたいだ」と悔しそうだった。
春はとっても優しい子で優しい両親に育てられたんだろうと感じていた。お父さんは誠司さん、お母さんは美咲さんといって、ふたりはその名の通り、誠実で美しい人たちだった。
「春毎日来てるでしょ?邪魔してない?迷惑かけてない?」
美咲さんはしきりにそう気にしていたけど、そんなことは全くなかった。迷惑どころか雪は毎日春が来るのを心待ちにしていた。
春の顔を見るとパァッと顔を綻ばせて喜び、春が帰ろうとすると大きな目をうるうると潤ませて寂しそうにした。まるで“帰らないで”と言うように見つめるものだから、ダンスの時間が迫っているにも関わらず「まだ大丈夫かも!もうちょっとだけいる!」と全然大丈夫じゃなさそうに春が言うのがお決まりになっていた。
雪は1か月程度入院することになった。
「雪のこと心配だもん。お金のことは気にしなくていいから。全部雪のためだよ」そう隼人は言った。きっと全て隼人のお父さんの好意なんだろう。
隼人のお父さんはそれなりに大きい病院の院長であるにもかかわらず、見るからに育ちの悪い俺にも分け隔てなく接してくれる優しい人だった。
そんな院長が実の息子よりも厳しく接するのが隼人の幼馴染である風磨だった。今は高校教師になるべく大学の教育学部に通っている。前に院長が「風磨は私のライバルなんだ」と言っていたことがある。
「ライバル?何で?」
「父親の私よりも、よっぽど風磨のことが好きみたいだからだよ。だから風磨は私のライバルなんだ」
そう言う院長は悔しそうで、でもどこか嬉しそうだった。
雪は春にべったりだった。春の肩に頭を預けたり、腰にぎゅうっと抱き着いたり、腕に腕を絡ませたり。とにかく常にどこかが触れていないと落ち着かない様子で、いつだって春にぴったりくっついていた。そんな雪を見てそのときの院長の気持ちが少しだけ、ほんとにほんの少しだけ、分かった気がした。
*
*
「はるー、ゆきー。お菓子買ってきたぞー」
ガサガサとコンビニ袋をぶら下げた風磨がやってくると、ふたりが嬉しそうに顔を見合わせた。
風磨は今、実習やら採用試験の準備やらで忙しいらしいが、こうして時間を作っては病室に足を運んでくれている。さすが教師を目指しているだけあって春の宿題を見たり、算数や国語のドリルを買ってきて雪にやらせたりしていた。
雪は本を読むことが好きだった。風磨が図書館で本を借りてきてくれたとき、目をキラキラさせてそれを受け取っていた。
それからというもの俺と雪は毎日のように図書館に通っている。雪はロボットが活躍する冒険小説や少年が主人公のミステリー小説など、小学生の男の子らしい本が好きで、なぜか安心したのを覚えている。そしてそれらと同じくらいに科学系の読み物や図鑑もお気に入りだった。
どうして空は青いのか。そんなことが書かれているページを雪は熱心に読んでいた。
「雪、眠い?」
風磨が買ってきたチョコレートを口いっぱいに頬張りながら春が雪の顔を覗き込んだ。雪は春の肩にもたれかかってうとうととしていた。
「昨日あんまり寝てないねんな」と、雪のかわりに答えながら今にも寝てしまいそうな雪をベッドへ連れて行こうとすると、春がぽんぽんと自分の膝を叩いた。春の膝に頭を乗せるとすぐに雪は眠りについた。
雪が寝ていないのは昨日だけのことではなかった。
この病室で過ごすようになって10日ほど経った頃から、雪は夜眠りについても数時間後には目を覚ますようになっていた。正確に言うと、びっしょりと汗をかいて涙を流しながらうなされる雪を俺が見ていられなくなって起こしてしまうのだ。「は、は、」とだんだん呼吸が早くなって、とても苦しそうに声にならない声を上げる。そして疲れ切ってもう一度眠るまで、雪は泣き続けた。
声が出ないのも、夜眠れないのも、きっと心の問題だろうと隼人の兄は言った。
*
*
相変わらず薄暗くじめっとした部屋に眉をひそめた。
日当たりが悪いのかカーテンを開けても日差しはほとんど入らず、ずっと太陽が隠れた世界にいるみたいだった。電気を付ける気にもならずそのままにして結と向かい合う。
あの日の結は化粧っ気もなく真っ白な顔をして、生きているのに死んでいるようだった。今日の結は露出の多いワンピースを着て、真っ赤な口紅をひいている。うっすらと体に残る痣をファンデーションで隠していた。
「働かないと生きていけないから」
煙草の煙がゆらゆらと揺れる。雪の体に残る火傷の痕が頭をかすめて、結の口から煙草を奪って火を消した。
「お前が雪を虐待してたん?」
ここに長居するつもりはなかった。すぐに本題を切りだせば結は淡々と話し始めた。
3年前、付き合っていた男に雪を連れて家を出るよう言われたこと。一緒に暮らしだすとすぐに暴力を振るわれるようになったこと。その男が違法薬物に手を出していたこと。金のために風俗で働き始めたこと。ガキのほうに興味があったんだと言いながら雪を犯すようになったこと。
新しい煙草に火をつけてそれはそれは他人事のように結は話し続けた。
「足は?雪の足、曲がってるやろ」
能面のように表情を無くしていた結の顔が、ほんの一瞬、かすかに歪んだ。
「結」
「…雪が、逃げようとしたから、だから、」
「だから、折ったのか…?」
吐き気がする。そう思ったときにはすでに結の顔を殴り飛ばしていた。倒れた結に馬乗りになり、もう一度拳を振り下ろす。口が切れたのか血が飛んで、そしてその瞬間、結が笑った。
「こんなもんやないよ?あいつが殴るのは。何回も思ったもん、雪死んじゃったかもって。でも…。でも、雪死ななかった」
すっと細い腕が伸びてきて、頬を優しくなでられる。
「なんであんたが泣いてるん?」
それは雪が生まれた日と同じ言葉だった。結の頬に次々と涙がこぼれ落ちていく。涙が止まらない。情けないくらいに体が震えて、喉が張り付いたようにうまく声が出せなかった。
「ゴミやって言ったのよ…もういらないから、捨てとけって…」
結が一体何を言っているのか、もう分からなかった。
雪は生きてる。今も確かに生きている。
「雪は俺が育てる」
震える声でそう言うのが精一杯だった。俺の言葉を聞いているのかいないのか、ぼんやりと空を見つめて、結が呟いた。「あの子の、誕生日…」
濡らしたタオルを頬に当てながら結は崩れた化粧を直していた。その横顔は雪にとてもよく似ていた。
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